第10話
書類を片手に王宮の廊下を進むのは、月の光を編んだような銀髪と、澄んだ海底が陽光に照らされて輝くような青緑の瞳をした青年。
近衛騎士団の制服をキッチリ着込んでお手本のように姿勢良く歩く姿は新人らしく、すれ違う人に柔和な笑顔で挨拶する姿は、微笑みを向けられた女官や侍女の頬を染める事、数知れず。
アーク・キュラス、19歳。
キュラス伯爵家の長男であり、王室近衛隊へ抜擢された将来有望な若者であった。
幼等部から初等部中等部高等部と続くプラタナス学院で常に上位成績をキープし続け、恋女神エルオリスの日にもなると、アークの元へ女生徒達から想いの込もったチョコレートが大量に届けられたものだ。
それは近衛隊として王宮へ勤務する事となった今も変わらず、女性からの熱視線を集めていた。
「キュラス様! お疲れ様ですぅ」
声帯を捻り上げているような、明らかに不自然である高音が今日もアークの耳に届く。それに引きつりそうな頬をなんとかおさえて、アークは笑顔を作った。
「こんにちは、貴女もお疲れ様です」
第三隊の副長の使いで書類を届けに来たアークを、猛禽類のような瞳で張り付かせた笑顔(目は笑っていない)の女性が出迎えるのは、これでもう何度目か分からない。
彼女の赤ワインのように暗い赤髪は、肩に届くかどうかという所でアシンメトリーに切られている。右頬にかかる辺りが一番長めで、緩やかなカーブを描くように襟足が短くなり、また左頬辺りで少し長くなっていた。
瞳は黒にも見えそうなくらい暗い赤で、陽光の下なら赤みがかっているのが分かるが、室内や暗いところでは殆ど黒に見える。
過剰な愛想を振りまく彼女にも仕事があり交代制で休みもある筈なのだが、アークが来ると何故か必ず彼女が待ち構えていたかのように出迎えるのだ。
内心では一秒でも早く要件を済ませて退出したいと思いながら、アークは魔道具管理課の受付カウンターへ書類を置く。
「近衛第三隊の副長から、魔道具の申請書類です。在庫があればこのまま持ち帰りたいのですが」
柔和な笑顔は崩さずに手早く片付けようとするアークに、彼女はいつもの如く受付カウンターの上へ乳を乗せて谷間を強調し、上目遣いで高音を放つ。
「はぁーいっ、キュラス様のお願いなら、すぐにご用意致しまぁーっすぅ」
その大きな瞳はまつ毛をバッサバッサと羽ばたかせて、発情期のサルの尻の如く唇は真っ赤にテカテカし、嬉しそうに身を乗り出して返事をする。
いつもの様子に引きつりそうになる頬を、アークは表情筋フル活躍して笑顔キープした。
「……はは、助かります」
そんなアークに、彼女は乳を腕で挟んで強調したまま、握りこぶしを肩のあたりに作ってみせる。そのまま軽く体を左右に振ってみせて、拗ねた表情でいつものヤツをするのだ。
「やですわっ、私の事は、ヘラって呼んで下さい」
もしも擬音をつけるのならば、やだやだ、とでも言おうか。いや、やだやだ(ユサユサ)と寄せ集めて二の腕で揺らしている乳の嘆きが聞こえてきそうだ。
どうだ! この乳を見よ!! お前の為に寄せて上げたのだぞ!! と、彼女の心の声が聞こえる気がした。
「ははは、ご冗談をヘレニーア嬢。未婚の貴女を気軽に愛称では呼べませんよ」
未婚の男女が愛称で呼び合う等、幼馴染か恋人くらいのものだ。いい加減に勘弁してくれないかな。と、 密かに息を吐く。
そんなアークに気付いてか気付かずか、今日も靡かない様子に一瞬残念そうな表情をしながらも、すぐに猫100匹くらい被ったヘラは「はぁーいっ」と書類を持ってカウンター奥の部屋へとお尻ふりふり消えていった。
今日も、彼女の服装は魔道具管理課の白衣をかなり短くしたものに、これまたギリギリの短いスカートを履いている。
本来、女性が足を露出するのははしたない事だと好まれない。
しかし彼女は驚くべき短さのスカートで、その下に薄手のピッタリとしたストッキングともズボンともつかない物を履いていた。
あまり見かけないものだが、これは最近彼女自身が開発した伸縮性の新素材で作られたスパッツなるものらしい。
夜会で履く絹のストッキングのように薄く、それでいてズボンのようにしっかりと衣類としての機能を果たす。薄くて軽くて伸び易いのに暖かいということで、普段スカートの下に履く物として人気なんだとか。
魔道具管理課へ来るといつも変に絡まれるが、彼女も仕事は仕事でちゃんとやっているようだ。
そんな後姿が見えなくなったところで、アークは深いため息をついて項垂れた。
全く、ヘレニーア嬢には困ったものだ。
……無論、自分が結婚相手としてそこそこの好物件であるとは自覚している。
伯爵位を継ぐ嫡男であり、好成績で貴族の学院を卒業し、早々に第三隊とはいえ近衛隊へと配属された。
社交もそれなりにこなしているし、人付き合いも悪い方ではないと思う。
本来ならばとっくに婚約者がいてもおかしくないが、大恋愛の上に結婚したという父母の方針によって、婚姻相手は余程家に不利益をもたらさない限り、己の好みで選んで良いと言われていた。
そして、学院時代にそんな好物件をモノにしようと伯爵以下のご令嬢方は勿論、人柄と容姿から上の爵位にあたるご令嬢からも熱い眼差しを投げかけられていた。
結果、特定の一人と深い親交を深める事も無く、真面目な性格もあって己を鍛える事に打ち込んでいまだ婚約者の居ない身である。
ヘレニーア嬢のような王宮で働く庶民からしたら、婚約者もいない自分はまさにイイ獲物なのだろう。
王宮では様々な者が働いている。貴族は勿論、能力を買われた平民も多い。雑務なども入れると、むしろ平民の方が圧倒的に多い。
そんな平民の間では大体いつでもロマンスが流行っている。
煌びやかな世界、特権階級の素敵な男性、そして見初められる平民の私ーー
夢を見るのは大変結構、それは明日への糧となり活力となる。
だが、自分には求めないでくれまいか。むしろ、これだけ毎回お断りしているのに心折れないあたり中々にタフな女性である。
取り留めもなく、そんな事を考えていると、アークの後ろで扉が開きそうな音がした。
振り返ってみると、ドアノブがかしゃんかしゃんと空回りして、回りそうで回らない。
おかしいなと首を捻って、ついでにドアノブも捻ってみる。
「っわぁ!」
アークがドアノブを捻った瞬間、開いたドアに倒れこむようにして、大きな箱が悲鳴を上げた。
目の前で倒れそうになる箱を右手で受け止めて、続いて前のめりにこけそうな女性を左手で抱きしめるようにして受け止めた。
靡いた髪がアークの鼻をかすめて、金木犀とも桃とも似ている微かに甘い香りがした。
「大丈夫ですか?」
コケると思ったのだろう女性は、身体を固くして目をぎゅっとつぶっている。右手の箱をそっと下へ卸すと、左手で抱えたままの女性をゆっくり立たせてあげた。
どうやら、大きな箱を抱えていたのでドアノブがうまく回せなかったようだ。それで、突然ドアを開いたアークに引かれるようにバランスを崩して倒れこんだのだろう。
「あ、私、あのっ、し、失礼しました」
そっと目を開けた女性は、自分の置かれた状況にワタワタと両手を意味もなく振り、真っ赤に頬を染めて礼を言った。
長い前髪は顔を隠していて表情はよく分からないが、羞恥に赤くなっているのは分かる。
少し癖っ毛の髪は濃い茶色で、琥珀を凝縮したように艶やかなそれを後ろで一纏めに結んでいた。
アークの背が高い事を差し引いても、目の前の女性は小柄で背が低い。
ヘレニーアと同じく魔道具管理課の白衣を着ていたが、無論、正規の長さの為に女性の膝下あたりまで裾があった。
「いえ、私が急にドアを開けたから、こけたのでしょう?
誰かがドアを開けようとしているのは分かっていたのに、声をかければよかったですね。
驚かせてしまってすみませんでした」
人当たりが良いと言われる笑顔を向けると、女性はますますどもって何やらごにょごにょと言い、身体を半分に折る勢いでお辞儀をする。
下を向く時に長い前髪が流れて、大きな丸眼鏡の奥に蜂蜜色の瞳が垣間見えた。
知性を秘めた、それでいて柔らかな陽光の温もりも混ざった淡い黄色。美しい黄金の輝き。
その輝きに見惚れて動きが止まったアークに気付かず、女性はお礼を述べると箱を抱えて奥の部屋へ行ってしまった。
「はぁ~いっ、お待たせしましたぁ……あら? キュラス様、どうかなさったんですかぁ?」
入れ違いで入ってきたヘレニーアは、様子のおかしいアークに気付くと書類通りの魔道具やらポーションやら入った箱をカウンターに置いて、ぐっと身を乗り出す。
「いえ、なんでもありませんよ。仕事の事で少し考え事をしていました、すみません」
いつもの笑顔で箱を受け取って出ようとするアークの背中に「やたっ、ついにあたしの魅力に気付いてくださったのねっ」とお花畑満開な呟きが聞こえてきたので黙殺した。
そして、その日は午後の仕事中あの蜂蜜色の輝きが頭の片隅に残ってしまい、アークはいつもより仕事が遅くなってしまったのだった。
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