墓前に佇む・・・
森本 晃次
第1話 第一章
前の日に降った雨はすっかり上がっていた。足元にはまだぬかるみは残っていたが、早朝であるにも関わらず、日差しは容赦なく降り注ぎ、懐かしさを感じているかのように、石段を一歩一歩何かを確かめながら一人の少女が昇っていく。
後ろ姿からは、ハッキリと年齢を判別できないが、雰囲気としては、まだ中学生か高校生といったところであろう。
彼女の目指している場所はまさしく墓地であり、墓地に続く石段をゆっくり上っているのだった。
やっと辿り着いた墓にお参りする前に、彼女は石段を上りきったところで、踵を返すように後ろを振り返った。目の前に広がっている海を眺めている。
「ここで海を眺めるのは何度目になるのかしら?」
そう言いながら、何がおかしいのか一人で思い出し笑いをしている。時間としては、朝の六時前、すでに明るくなっていることを思うと、今日も暑くなるのはこの時間の日差しを見れば一目瞭然だった。
それでも彼女は涼しい顔をしている。
女の子の足で、ここまで上がってくるには結構体力のいることである。いくらゆっくりと歩いたとはいえ、息切れ一つせずに涼しい顔ができるというのもすごいものであった。女の子一人でこんな時間に墓参り。どんな理由があるのか分からないが、人に見られたくないという気持ちではないかというのが一番考えられることであった。
「今日もクジラ島が綺麗に見えるわ」
クジラ島というのは、この街から一キロほど離れたところにある島であった。正式名称は他にあるのだろうが、彼女たち子供の間では「クジラ島」で通っているのだろう。巨大なメロンパンのように見えるその島は、綺麗に盛り上がった山だけで形成されている。人が住めるような平坦な陸地があるわけではなく、船着き場もない。草や木が生え放題で、島の様子がどうなっているのか、きっと大人でも誰も知らないだろう。彼女はいつも友達に、
「クジラ島ってどうなっているのかしらね」
と尋ねていた。
もちろん、友達が知るわけもないし、友達に聞いて返事がもらえるはずもない。相手が困るのを見て楽しく思うほど人が悪いわけではないのだが、それでも話題ができたことが嬉しかったのだ。
彼女は、クジラ島をしばし眺めていると、ふと我に返ったように、墓前に向かった。そこには、前の日に誰かが蝋燭と線香をあげてくれたのか、雨が降った後でも、線香の一本だけ、まだ燻っているようで、煙が一本だけ、空に向かって果てしなく伸びていた。まったくこの時間が風がない。
「今日もだわ」
彼女は、風がないことを意識しているようだった。今までに墓参りに来て、風がなかったことなど今までに一度もなかったのだ。実に不思議なことで、不気味に感じていいはずなのに、彼女はそれを普通のこととして受け止めていた。きっと、何か自分にしか分からない理屈があって、その理屈には、自分を納得させられるだけの根拠があるに違いない。
「今日も来たわよ」
中腰になって声を掛ける。墓石はまだ新しいものだった。花を供えなければいけないだとか、墓石に水を掛けるなどということを知らないのはまだ若いせいなのか、それとも一人で来なければいけない理由があるために、何も用意することができなかったのか、ただ彼女は何も持ってこなくても、墓の中の人が怒ることなどないということを根拠のあるなしに関わらず、ありえないと思っているようだ。
中腰になって手を合わせている。彼女にとっても、墓の中の人にとってもそれだけでいい。
手を合わせて目を瞑って、どれくらいの時間が経ったのだろうか? 本人が感じているよりも、結構時間が経ったのかも知れない。顔を上げて、墓前を見つめていると、何かを語り掛けてあげたい気分になっていたが、
――それはできないんだ――
と、自分に言い聞かせるように、彼女は初めて表情を曇らせたようだったが、それも一瞬のことだった。
「ここは私にとって一番落ち着ける場所なの。だからお願い、これからも私、ここに来てもいいのよね? いいって言ってよ」
墓前に語り掛けてはいけないと、たった今思ったはずなのに、どうやら、彼女には時間に関係のある何かが欠落しているようだ。ただ、それは記憶なのか、意識なのか自分でも分からない。
落ち着いた気分になっているはずなのに、なぜか涙が溢れてくる。彼女にとっては、悲しい気分になっているわけではない。むしろ自分で言っているように、この場所にいることが一番彼女にとっては落ち着ける場所であるのは間違いないようだ。
一通り自分で納得したところで、彼女はおもむろに立ち上がった。そして、今来た道を戻っていくわけだが、自分がさっき通ってきた石段を誰かが上ってくる気配を感じ、彼女は自分でドキッとしたのを感じた。
ただ、ドキッとしたこの気持ちは、心地よさを感じられるものだった。懐かしさのようなときめきを感じると、上がってくる人が誰なのか、最初から分かっていたことを今さらながらに感じていた。
その人は男性で、中年から初老と言った感じだろうか。その人に見覚えがある。というよりも、面影を感じたことがあるというべきだろう。
中年男性は、少し俯き加減で上がってくる。それは暗いというよりも、足元の石段を一歩一歩確かめながら上がってきている証拠だった。
どんどん近づいてくるにしたがって、最初に感じたドキッとした気持ちが落ち着いてきているのが分かった。決して気持ちが冷めてきているわけではない。ドキッとした気持ちというのが継続しているよりも、一度でインパクトを与えられるものの方が強い意識を持てることを彼女は知っているのだ。
中年男性は手に何も持っていない。手ぶらで墓参りに来たのだ。それは彼女が手ぶらなのとはまったく違った理由で手ぶらなのだが、彼女には、彼がどうして手ぶらなのか分かっているように思えた。それは、突き詰めていけば、原因は自分に辿り着くであろうことが想像できたからだ。
だが、このことは今ハッキリさせることではない。逆にハッキリさせるべきではないと言うべきであろう。彼女にはそのことが最初から分かっていたわけではないが、中年男性を見ていると、自分には彼のことであれば、ある程度のことは分かるような気がしていた。それだけ自分に深くかかわりのある人なのだろうが、今は彼女にとって彼をそっとしておいてあげる時期であった。
彼女は頭の中で、いろいろな思いを巡らせていたが、一つの結論が生まれるまでには至っていない。それは時間の経過に大きな影響があるのだが、そのことも今ハッキリさせるべきではないのだ。
「私は、もう彼に何もしてあげられないんだわ」
そう思うと悲しくなってきたが、次の瞬間には、さらに悲しい気分にさせられるのが分かっているので、むしろ堪えることをしないで、素直に気持ちを表すようにしていた。
「おはようございます」
彼女は、精一杯に余裕の笑顔を作って、彼に向けた。彼を正面にすれば、素直な笑顔は出てくるのだ。それが余裕を持っているように見える表情になる。彼女はそう思って疑わなかった。
――それなのに――
中年男性は、彼女の笑顔に何も返してこない。まったくの無視である。
彼女には最初から分かっていたことだった。彼女には彼を見ることができるが、彼には彼女を意識することができない。
「これが二人の運命」
どんなに大きな声で彼に呼びかけても、彼は彼女に答えることはできない。彼女のすべてが一方通行だ。
これほど悲しいことはない。しかも、それは今日に始まったことではなく、毎日のことだ。
「こんなに悲しいことはない」
と思っているはずなのに、墓参りをやめることはできない。
「これは私が選んだこと。そして、すべて納得ずくのことのはず」
と、自分に言い聞かせていた。
苦しい思いも少しすると癒えてくる。そしてもう一度余裕を持った気持ちに戻ると、彼の方を振り返り、一言声を掛けた。
「ありがとう」
と言って、彼女が満足したような表情をした時、中年男性の気持ちにドキッとしたものがあったことに、悲しいかな、彼女は気が付いていなかった。
「彼のことなら何でも分かる」
と思っていた彼女だったが、実際には分からないこともあったのだ。もちろん、それでも彼には彼女の存在が分かるはずもない。それが正直で素直な気持ちに繋がっていることに違いはなかった。
彼女は夢を見ていた。その夢が深いものなのか浅いものなのか分からない。
――夢を見初めて、どれくらいの時間が経ったというのだろう?
彼女には、夢というものは潜在意識が見せるものだという意識があった。だから、見ている夢に対して自覚があることは分かっていた。それでも夢に対して深い浅いの意識を持つことができない。現実世界では理解できないのが夢だという意識も一緒に持っているからなのかも知れない。
「これって昨日の夢の続きなんだわ」
夢の続きを見ることなどできないというのが、彼女の意識にあるものだったが、どうしても気になって仕方がない夢があれば、もしかすると、続きを見ることができるかも知れないという思いもあった。
しかし、一番最近に見たと思っている夢が、どうしても続きを見たいという意識のものではなかったはずだ。
夢をいつも覚えているわけではない。昨日の夢だと思っていることが実は数日前に見た夢なのかも知れない。その間に夢を見ていないのであれば、
――まるで昨日のことのようだ――
という意識ですぐに納得できるのだろうが、果たしてそうなんだろうか?
昨日見た夢というのは、見たことを忘れてしまうほど、大したことのないものだったのではないかという思いと、逆に恐怖の印象が深すぎて、覚えておきたくないという確固たる意識の元に忘れてしまった夢のどちらかではないだろうか。そう思うと、夢には時間に関係がある何かを欠落させる力があるのだと思うのだった。
彼女は自分が今まで見た夢で一番怖かった夢というのを意識していた。全体を覚えているわけではないが、恐怖部分をどうしても忘れられなかったのだ。それは、夢の中にもう一人の自分が存在しているという意識で、自分だと思える相手と目を合わせたことで、相手も慌ててしまっている。その時に感じたのは、
――相手は私よりも慌てているんだわ――
という思いだった。
夢の中にもう一人自分がいることを最初から意識していた。そうでなければ、相手の顔を見た瞬間に、目が覚めるはずだからである。
今までに見た夢で恐怖に感じたことを覚えているのは、もう一人の自分が出てくる夢だったというのが正解なのだろう。他の怖かった夢に関しては、怖かったと思っても、覚えていないからだ。
では、どうしてもう一人の自分が出てくる夢だけが意識として残っているのか?
今までにいろいろ考えたが。結論としては、
「夢の中の自分も、自分を意識して自分の想定外のリアクションを取っているからだ」
と思えた。
彼女が今見ている夢はまさしくそんな雰囲気を感じさせる夢であり、まだもう一人の自分を見たわけではないが、いつ現れるかドキドキしていた。
昨日(と思っている)夢の中で、確かにもう一人の自分を見た。その時、不思議と恐怖心が生まれたわけではなく、どちらかというと、懐かしさを感じさせられるものだった。
――あれは、もう一人の自分じゃないのかも知れない――
覚えている夢を思い返す時、夢に疑問を抱くようなことは今までにはなかった。今回だけは、もう一人の自分だと思っている相手が本当に自分なのかどうか、自分の中でハッキリとしない。
世の中には似ている人が三人はいると言われるが、夢の中という特殊な世界では、限りなくたくさんいるような気がしている。それは時間という概念がないからだ。同じ時代の中で、三人いるのであれば、時間や時代に制限を設けなければ、かなりたくさんの似ている人がいて不思議はない。ただ、人の絶対数も果てしないわけなので、その中から似た人を見つけるのは、同じ時代の中から見つけるよりも、かなり困難なことなのだろう。
だが、夢の中では困難に思えることも、簡単にやってのけられるのかも知れない。だから、自分に似た人(もう一人の自分だと思っている人)を見つけた瞬間に、驚きとともに恐怖を感じるのだろう。それでも見つけた瞬間に目が覚めないということは、潜在意識としては、恐怖だとは思っていないのだろう。
彼女は、今ではもう一人の自分だと思っている人が本当に自分だとは思っていない。似ている人を見つけたのだと思っている。ただ、今までに見た夢すべてが自分に似た人だったのかということを断言できない。幼い頃にそこまで考えて夢を見ることができたわけではないからだ。
幼い頃に見た怖かったと思う夢は、自分が見たというよりも、
「誰かによって見せられた」
という意識を今となっては持っていた。もちろん、今の夢も自分だけで見ている夢なのかハッキリしないところがあるが、少なくとも夢を覚えているということは、自分が意識して見た夢だと思っている。
そこから先、彼女はもう一人の自分、あるいは自分に似た人が現れることを確信しながら、夢のトンネルを歩んでいった……。
松倉敦美は、この街に生まれて、この街で育った。他の土地と言えば、高校、短大時代、電車で一時間掛かって通った、このあたりでは一番の都会と言える街だけだった。親のいうことに逆らったこともないような物静かで大人しい女の子だったが、大人になっても、変わりなかった。学生時代に人並みに恋をして、男性と付き合ったこともあったが、次第に相手の方から去っていく方が多く、まわりの女の子からも、
「松倉さんって変わっているわね」
と言われていた。
出身が田舎町だということで、誰もが納得していた。敦美もまわりが納得してくれているのだから、別に自分から反論することもないという意識からか、それまで育ってきた環境で身に着いた性格も手伝って、人に逆らうことを決してしないようにしていたのだ。
卒業すると、短大に入学したが、高校時代の三年間よりも、短大の二年間の方が長かったように思えた。ただ、自分を一気に開放することができる機会があったとすればその時だけだったのだろうが、結果として自分の殻を破ることはできなかった。
高校を卒業した時、それまでに感じたことのない寂しさを感じた。短大は高校の延長のようなところなので、卒業しても、クラスメイトのほとんどはもう一度短大で出会うのだ。それなのに、なぜそんなに寂しい思いをしなければいけないのか、今でも敦美には不思議に思っている一つだった。
敦美が変わっていると言われたゆえんは、高校の卒業式で、号泣したからだった。どうして泣いてしまったのか、自分でも分からない。人から聞かれても、
「自分でも分からないのよ」
と、正直に答えただけなのに、
「照れ臭さで答えているだけだわ」
という風に取られてしまって、それが変わっているというイメージに繋がってしまったのだ。
そんな敦美は短大を卒業してから、しばらく家事手伝いをしながら、いわゆる花嫁修業を続けていた。
松倉家は、子供は敦美だけなので、養子をもらうしかなかった。養子をもらうには、それなりに家事などもできていないといけないということで、祖母の厳しい教えもあってか、結婚までには、時間もかからなかったし、障害らしいものもなかった。
二十三歳で結婚した敦美はすぐに子供を授かった。その子は女の子で、名前を松倉由梨と言った。
これが今までの敦美の経歴であるが、自分を変えようとすればいつでもできたのかも知れないと最近になって思うようになってきた。
――でも、私の性格では、今の生活以上のことを望むことなんてできないわ――
という思いと、自分がこの街に骨を埋めるというのは、ごく自然な成り行きで、そこには何か自分ではどうすることもできない何かの力が働いているという意識を常に持っていた。
敦美は毎日の買い物は自分で商店街まで出かけていくこともあったが、御用聞きにきてもらうこともあった。都会ではなかなかそこまではしてくれないだろうが、田舎町であれば、昔からの贔屓の客に御用聞きに行くという習慣は、まだまだ残っていたりする。
その日は、自分で出かけていき、八百屋と魚屋に立ち寄った。
最初に立ち寄った八百屋では何も言われなかったが。その後に立ち寄った魚屋で、話しかけられた。魚屋では、中学時代の友達が稼業を継いでいるということで、時々話しかけてくれていた。
「そういえば、由梨ちゃんは元気なの?」
「ええ、あの子もそろそろ中学に上がるので、それなりにしっかりしてもらわないといけないと思っているところよ」
娘の由梨は、小学六年生、十二歳になっていた。来年は中学に上がる。敦美自身も感じたことだが、小学校を卒業するということよりも、中学に入学して制服を着るということが一番自分の意識の中で強い出来事だった。
高校時代の卒業式では号泣したくせに、小学校の卒業に関しては、何ら感情は湧いてこなかった。
卒業するということがどういうことなのか分からなかったし、まわりが必要以上に卒業を意識させようとしているという作為的な意識を感じ、どこか冷めたところがあったほどだった。
「ところでね、敦美。この間ちょっと小耳に挟んだんだけど、小高い丘の上に墓地があるでしょう?」
思わず敦美はドキッとしてしまった。その墓地には自分に関係のある人が眠っている。そのことは松倉家の人たちしか知らないので、何も知らずに自分に話しかけてくれているのだろうが、何が言いたいのだろう?
「え、ええ」
オドオドとして曖昧な回答をしたが、そのことに彼女は意識することもなく、
「そこにね。由梨ちゃんに似ている女の子が毎朝、現れるらしいのよね。まだ小学生の女の子が、早朝から一人で墓参りするなんて変でしょう?」
「ええ、そうよね。それって何時頃の話なの?」
「六時過ぎくらいらしいわよ」
「それなら、由梨はまだ布団の中だわ。いつも起こさないと起きてこないくらい熟睡するのがあの子なのよ。六時頃なら私も起きているから、出かけたり帰ってきたりすれば分かるはず。そんな気配は感じたことがないので、それは由梨じゃないわね」
「じゃあ、他人の空似ということかしらね?」
「そうね」
と言った後、敦美には背筋が寒くなる思いがあった。
――確かに小高い丘の上には自分の知っている人の墓がある。そこに早朝、由梨に似た女の子が墓参りに来ている? 信じられないわ――
敦美には、想像してはいけない思いが頭を巡っていた。それは恐ろしさから、
――まるで夢を見ているようだわ――
と感じさせるものだった。
このことは松倉家だけしか知らないことだ。魚屋の彼女が知っているはずのないことなので、由梨を見たという話にどこまで信憑性があるのか、それが一番気になるところだった。
もし、彼女が松倉家の事情を知っているとしたら、軽率に敦美にその話をするはずはない。敦美も平然と答えていたが、よくも、ここまで冷静に答えられたものだと、自分で感心するほどだった。
「敦美は、いつも冷静に答えているけど、どこまで本当のことなのか、分からないことがあったわ」
彼女が何を今さら自分の気持ちを話してくれたのか、敦美には分かっていた。卒業するまではずっと一緒だったので見えてこなかったことが、一定の距離を持つことで見えてくることもあるのだということを、彼女は言いたいのではないだろうか。そう思うと、今まで自分のまわりにいた人が、結構気を遣ってくれていたのだということを思い知らされた気がしてきたのだ。
ただ、誰にでも人に言えない秘密のようなものを持っているという意識があったことで、人に関わるにも一定の距離が必要だという思いを持っていたのは自分だけではないと思っていた。もし、自分の気持ちを後になってからでも打ち明けていれば、
「何を水臭いことを言っているのよ。話してくれてありがとう」
と、言ってくれたかも知れない。
――私だったら、きっとそう言うに違いない――
と思った。
しかし、人に関わることへの恐怖は、誰も知らない敦美が持っているもので、他の人には決して分からないものだと思っている。敦美以外の人が聞けば納得ができることも、敦美には納得できないこと、逆に敦美には納得できても、他の人は決して納得できないものがあるだろう。それは紙一重であって、どこかに境界線があるのだろうが、境界線がいつも同じところにあるというわけではないと敦美は思っている。
松倉家には、跡取りになるのは、敦美一人しかいないのだが、本当は敦美にはかつて姉がいた。そのことを知ったのは、敦美が中学の時、敦美は自分がその時まで知らなかったことに対し、まわりに対して不信感を抱くほどだった。
「こんなことは黙っていたって、いつかは分かることなのに」
と思った。
もちろん、親も祖父母も、そのくらいのことは分かっていただろう。敦美が成長すればするほど、話しにくくなることも分かっていたはずだ。それなのに言えなかったというのは、話そうと思いながら、チャンスを何度も逃がしてきたからなのではないだろうか。
敦美が自分に姉がいたことを知るきっかけになったことを考えれば、それは一目瞭然だった。
敦美が小学生の頃から、街には八百屋と魚屋があった。古くなった建物を立て直したり、修復したりはあっても、昔ながらの店の佇まいに変わりはない。それだけ平和な街なのだが、逆に何かあれば、あっという間に街中に知れ渡ってしまうに違いない。田舎町というのも、それほど紙一重で成り立っているところなのだ。
その当時は友達の親が店を切り盛りしていた。敦美が家の手伝いで買い物にやってくると、
「娘の同級生」
ということもあってか、いろいろ楽しい話をしてくれたりもした。
ほとんどが魚に関したことが多かったが、ある日突然、姉の話になったのだ。
「樹里ちゃんがいれば、今頃は結婚相手を探している頃かも知れないね」
と、聞きなれない名前を出されて、敦美はキョトンとしてしまった。
「樹里って誰のことなの?」
と、聞き返すと、今度は魚屋のおじさんの方がキョトンとした。
「誰って、お姉ちゃんのことだよ」
「誰の?」
「敦美ちゃんのだよ?」
ここまで言うと、魚屋のおじさんは、さすがに、
「しまった」
という表情をした。
まさか、敦美が自分の姉の存在を知らないなど、ありえないと思ったからだ。
普通なら当然そう思うだろう。隠したって、いずれバレることだということも、魚屋のおじさんは今、感じていることだろう。それよりも、
――どうして隠す必要があったのだろう?
というのが、一番引っかかったのだ。
隠す必要があるとすれば、姉がよほど人に知られたくない存在であり、知っている人がごく一部であれば、それ以上知られないようにするには、少なくとも、子供には教えられない。無邪気に他意もなく、他の人に話してしまうかも知れないからだ。
もう一つは、敦美だけには知られたくない何かがあったのかも知れないということだ。子供の敦美では理解できない何かが存在し、時期がくれば話すつもりだったのかも知れない。
「どうして、黙っていたの?」
と、母親を問い詰めた。
「誰から聞いたの?」
「魚屋のおじさん」
と答えると、
「そう」
と言って、溜息をついた。この溜息は、いずれバレるかも知れないと思っていたが、バレてしまったものはしょうがないというものなのか。それとも、魚屋のおじさんに対して、
――余計ないことを――
という思いから出た溜息なのか、いずれにしても、バレることはある程度覚悟はしていたようだ。
「私にお姉ちゃんがいたなんて……」
「黙っていてごめんよ。でも、少なくともお母さんの口からは、どうしても言えなかったの。それだけは信じて」
と、言われて一体何と答えたらいいのだろう? これ以上責めても、お母さんも苦しいのだろうが、敦美も自分の首を絞めているようで嫌だった。
ほとぼりが冷めた頃、改めて祖母に聞いてみた。母から敦美が、姉の存在を知ってしまったことを聞かされていたのだろう。驚きはなかった。
「お前の気持ちは分かるが、お母さんを責めるのはお門違いじゃよ」
祖母は、まず母の肩を持った。
「どういうことなの?」
一瞬怒りを感じたが、表に出さず、冷静を装いながら訊ねた。
「お前を産むのに、お母さんは頑張ったんじゃよ。そのお母さんを責めることは誰にもできやしないんだ」
「だから、どうして私を産むのと、お姉ちゃんの存在が同じラインでの話になるのよ」
「お前のお姉ちゃんは、お前が生まれる前に死んだんじゃ」
「死んだのなら、仏壇にお位牌があっていいはずでしょう? お位牌を見たこともないし、第一私に隠す必要なんてないんじゃないの?」
「お前がもっと大人になれば、お母さんの気持ちも分かるというものだが、知ってしまったのなら、仕方がない。これ以上隠しておくことはできないだろう」
と、言って、一瞬間を置いて、自分を落ち着かせているようだった。
「話としてはデリケートなところを孕んでいるので、話す順番によっては、まったっく違った解釈になるかも知れない」
という前置きを置いて、話をしてくれた。
「お前のお姉さんが行方不明になったのは、ちょうど十歳になったくらいの頃だっただろうか。友達と一緒に遊んでいて、皆母親が迎えにきて、そのまま帰ったんだけど、その日にお母さんは、少し迎えに行くのが遅れて、その間にお姉さんはどこかに消えてしまったんだ」
――そういえば、友達と遊びに行くというと、お母さんは神経質になっていたのを思い出した。そして、もしお母さんが間に合わない時は、必ず誰かと一緒に帰るようにって言われていた。どうしてそんなに神経質にならないといけないのかって不思議に思っていたけど、今の話を聞くと、納得できるところもいくつかある――
と、敦美は考えていた。
祖母は続ける。
「お姉ちゃんがいなくなったことに、すぐに気付けばよかったんだが、お前のお母さんはその時、精神的に不安定になっていて、何が大変なことなのか、意識できなくなっていたんだ。警察に届けるのも少し遅れたこともあって、なかなかお姉さんの消息がつかめなかった。結局そのまま分からずに、行方不明ということになって、最初は一生懸命に探してくれていた警察も日が経つにつれて、捜索できる人がどんどん減っていく。結局そのまま見つからないまま、お前のお姉さんは、亡くなったことになったんだよ」
「どうして? まだ生きているかも知れないのに?」
「法律のお話になるんだけど、行方不明になって七年経てば、死んだことになっちゃうんだよ。お前のお姉さんは見つからないまま、七年を迎えてしまった。うちの者は皆意識していたけど、他の人は七年も経てば、お姉さんのことを覚えている人も少ない。今さら大げさに葬儀を出しても仕方がないということで、内輪だけでひっそりと葬儀を出したんだよ」
「だから、お姉さんの話題を出しちゃいけなくなったの?」
「もちろん、それだけじゃないさ。もっと大変なことがあったんだからね」
「それは何?」
「ちょうどその時、お前のお母さんは、お前を身籠っていた。身重の身体で、結局見つからなかった娘の葬儀を取り仕切るのは大変だったのだろう。まだ入院する時期ではなかったんだけど、私とおじいさんが、相談して入院させたんだ。お前のお父さんは、葬儀を出すのに大変だったから、そこまで気が回らなかったんだ。何しろ内輪だけの葬儀なので、他の人を必要以上に刺激しないようにしないといけない。ここのように小さな街では、細々とやるのは、結構大変なんだよ」
まだ小学生だった敦美なので、大変と言われても何が大変か分からなかった。それでも祖母の話を聞いているだけで、何かお腹のあたりがムズムズしてくるのを感じ、
「お母さんの気持ち、分からなくもない気がしてきた」
と、小さな声で呟いた。大きな声で言えるほど、理解できるわけもないし、そのことは祖母が一番分かっているだろうから、素直に気持ちを表せるだけの声が出せれば、それでよかった。
「お姉ちゃんが生きていればいくつだったの?」
「お姉ちゃんがいなくなったのは、八歳の時だったので、お前とは十五歳ほど違っているのかな? まわりの人はお前がお姉ちゃんの生まれ変わりだと思っていたけど、お母さんだけは違っていたかも知れないね。もし、そう思っていたとすれば、お前を身籠った時に葬儀を出さなければいけない状態に、耐えられたかどうか……」
そう言って、祖母は少し上を見ながら目を瞑った。何かを思い出していたのかも知れない。もし、姉の顔だとすれば、そんなに簡単に思い出せるものであろうか。いなくなると最初から分かっていれば、何とか記憶にとどめておこうとするものだが、いきなりいなくなったのだから、記憶に留めようなどという意識はなかったに違いない。
「とにかく、お母さんの気持ちを分かってあげてほしいというのが、おばあちゃんのあなたに対しての願いなのよ」
その時は、頭が混乱していたこともあって、お母さんの気持ちを分かるまでには至らなかった。やはり自分が母親になってみて初めて分かるというものだ。自分が由梨を産む時の苦労など比較にならなかったんだろうと思ったのは、出産が始まってからのことだった。
「腹を痛めて生んだ子供」
とよく言われるが、まさしくその通り、あれほど苦しい思いはしたくないとその時は思った。妊娠している時など、精神的に不安定な時期が定期的にやってくる。それまで躁鬱症の気は全くなかったにも関わらず、出産した後になって、自分に躁鬱症の気が見えるようになった。
出産のペースが早まって、いざ分娩室に入った時に、敦美は中学の時に祖母から聞いた母の話を思い出した。そのことが出産にどんな影響を示したのか分からないが、ある程度忘れていたはずなのに、話を聞いたのがまるで昨日のことのように、鮮明によみがえってくるのだった。
人の記憶というのは、大体四歳以降のものしか残っていないのが普通だということを聞いたことがある。敦美もその頃の記憶が一番古いものだった。
母親は優しかった。その頃から父親は出稼ぎに出ていて、ほとんど家にいなかったので、寂しい思いというより、父親は家にいないものだという意識が強く、祖父祖母が一番敦美を可愛がってくれていたのが印象的だった。
祖母のいうことに、間違いはないという感覚が中学生の頃まで続いた。高校生になった頃、
「敦美は、いつもおばあちゃんのいうことを素直に聞いてくれているけど、そろそろ自分の意見を持った方がいいんだよ」
と言ってくれた。
「確かに一人で決めるのは最初は難しいかも知れない。だけどまわりの人の意見も聞いて、何が正しいことなのかを自分なりに判断して、自分に合った意見を取り入れることで本当の自分の考え方を確立させないといけないんだよ」
おばあちゃんの意見はもっともだった。だが、いきなりそんなことを言われても、すぐに実行に移せるほど、敦美は開放的な性格ではなかった。
「大丈夫、あっちゃんのお母さんも同じように途中までは自分を開放してあげられなかったんだけど、学校で友達を作ると、結構変わっていったものなのよ」
そう言われて、初めて自分を開放するという意識を持つようになった。
案ずるより産むが易しというが、まさしくその通り、友達ができると、自分で判断することができるようになっていた。
敦美にとって、育った街、そして祖母に自分を委ねることがすべてだったのを、少し他に向けることで変わってきたのだ。
その頃になって、時々姉の夢を見るようになった。今までにも夢を見ることは何度もあったが、夢の内容を覚えているなど、なかなかないことだった。
それが怖い夢だったのか、それとも楽しい夢だったのかという意識は、目が覚めてから感じることはできなかった。しかし、夢を見たという意識と、夢の中で誰か見たことのない人が表れて。その人が今までの自分の人生に大きく関わってきた人であることを、目が覚めてから意識していた。
毎回同じ人だとは限らないが。数人の人が自分の人生に関わっていると言って、夢の中に出てくるのだ。
男性もいれば、女性もいる。
男性は中年の男性がほとんどなのだが。女性は自分よりも若い、いや幼い感じの女の子で、その女の子に見つめられると、金縛りに遭ったように、動けなくなってしまう。
「あなた、私のお姉ちゃんなの?」
と、夢の中で問いかけると、笑顔で微笑んでいるが、否定も肯定もしない。ただ、敦美を見上げて、口元を一文字に結んでいるが、余裕のある結び方は、そのまま精神的な余裕を感じさせ、その表情だけで敦美は、彼女が自分の姉であるということを信じて疑わなかった。
「私は、あなたのそばにいるの。でも、あなたは私の存在なんて知らなくてもいいのよ。私が勝手にそこにいたいって思っただけなの。今のあっちゃんには分からないかも知れないけど、お姉ちゃんを許してね」
何度目かの姉との夢の中での再会で、確かに姉が語った言葉だった。
「何を許してほしいっていうの? 私はお姉ちゃんの存在を知らずに子供の頃を育ったのよ。一体お姉ちゃんに何があったっていうの?」
「それは私の口からは言えないのよ。でも、私はこうやってあっちゃんに会うことができた。私もあっちゃんが私の妹として今を生きているということを、ずっと知らないでいたのよ」
今まで何度も夢の中に出てきて、私を見守ってくれていると思っていた姉。そのお姉ちゃんが最近まで自分のことを知らなかったという言葉をどこまで信じていいのか、敦美には分からなかった。
「でもね、あっちゃん。私はあなたの中にずっと生きているということを忘れないでほしいの。それはあなたが成長して女としての幸せを掴んだと思った時、私はあなたの前に現れるわ。今の私の言葉をそれまであっちゃんが覚えてくれているかどうか分からないけど、でも、お姉ちゃんのいうことを信じてね」
姉に関しての夢でここまでは覚えている。
というのは、その時に覚えていたわけではなく、娘の由梨が生まれてから、少しずつ成長していくのを見ているうちに、姉が出てきた夢を思い出してくるようになったのだ。
「お姉ちゃんの言っていた通りなのね」
と、ホッとした気持ちになってきた。自分ではほのぼのとした夢として、安心感に包まれていたのである。
もう一つ、男性が出てくる夢であるが、その男性は敦美には面識のない男性だった。ただ、夢を見るようになってから、しばらくしてからこの街に移り住んできた一人の男性が敦美の夢の中に出てきた人だったことは、驚き以外の何ものでもなく、誰にも言えず一人で抱え込んでしまわなければいけない夢だった。
そういう意味では、怖い夢という意識の方が強かった。
怖いというよりも、不安が纏わりついているというべきであろうか。その人がこの街に住むようになって、直接話をしたこともないし、どうやらお互いに避けているところがあるようにも感じていた。敦美とすれば夢に出てきた気持ち悪い男性というイメージがあるので、避けたくなる気持ちがあっても仕方のないことだ。
では相手は何を元に避けているのだろう?
敦美にとっては面識がないと思っているが、相手には面識があるというのだろうか?
それとも、敦美が感じたように、その人の夢の中に敦美が出てきて、何か彼の思考に影響を与えているというのだろうか?
いずれにしても、敦美にとって想定外のことであるように思えてならなかった。
その男性も何回か夢に出てきたところで、敦美に話しかけてきた。
「あっちゃん。あっちゃんでしょう?」
「ええ、そうですけど、おじさんは誰なんですか?」
「そうか、あっちゃんには、おじさんに見えるんだね。これでもまだ、三十歳を少し過ぎたくらいなんだよ」
「えっ、そうなんですか? 私はてっきり四十歳代の後半くらいかと思っていたわ」
「いや、それでもいいんだよ。僕があっちゃんに関わることになるのが、きっとそのくらいの年齢になった頃のことなんだろうね。あっちゃんには信じられないだろうけど、君のお姉さんだって、きっと同じような話をしたんじゃないかな?」
「確かに私が成長しきってから、現れるって言ってくれたわ。私は信じていいのか。迷っているんだけど」
このおじさんに、ここまで話をするなんて、自分でも不思議だった。夢の中だという意識があるからなのか、この人に対してウソをついても、すべてお見通しと思えてならないのだ。
「僕がどうしてお姉ちゃんを知っているか、不思議なんだろうね。でも、不思議でも何でもないんだ。僕はお姉ちゃんとは幼馴染だからね」
「あなたは、この街の出身なんですか?」
「そうだよ、街にいたのは、子供の頃までだったので、街の人は僕がその時の子供だってことは分からないんだろうね」
「でも、おじさんは一人でこの街に帰ってきたんでしょう? まわりの人が近づきにくいって言ってたし、おばあちゃんも私に近づいてはいけないと言っていたわ」
「君の家族も、僕のことが、昔ここにいた男の子だって分かっていないんだろうね。当然といえば当然かも知れないけどね」
おじさんは、そう言って溜息をついた。
「どうして溜息をつくんですか?」
「君は、この街の閉鎖的な環境に疑問を持ったことはないかい? 今までずっと開放的な気持ちでいたわけではないだろう?」
「私は開放的な気持ちになったという意識はないわ。自然の中にいれば自然な気持ちになるということはあっても、それ以外は、絶えず不安が付きまとっている気がするの」
「どうしてなんだろう?」
「私のまわりには、私の知らないことがあまりにも多すぎるような気がするんです。知らないというよりも、まわりがわざと私に知らせないようにしているようなですね。それが私を本当に守るためだって思えればそれでいいんだけど、どうしてもそうは思えない。どこかで私に知られることを恐れているところを感じる以上、私には誰も信じられなくなったり、不安が払しょくできなかったりするの」
「あっちゃんの気持ち、よく分かるよ。そういうことか、だから、僕があっちゃんの夢の中に出てきた理由がそこにあるんだね」
おじさんは一人で納得していた。敦美には少し不満だったが、それも無理のないことのように思え、男性をじっと見ていた。
「不安というのは、誰にでもあるものなんでしょうけど、その一つ一つが違っている。不安だけではなく、人を信じることにも影響しているのかも知れないわね」
敦美はしみじみと語っていた。
「僕たちは、本当は夢の中に出てきてはいけないのかも知れない。だけどそれを分かっていてまで君のお姉さんはあっちゃんの夢の中に出てきた。あっちゃんの夢に出てくるなら、僕だって出てくるさ」
「どうしておじさんが?」
「それはきっと君のお姉さんが、あっちゃんに話した言葉の中にその秘密が隠されているんだよ。僕の口からは、今言うことはできない。あっちゃんは、お姉ちゃんを信じていればいいんだよ」
おじさんはそこまでいうと、静かに消えていった。
敦美はこの夢のことを少しの間覚えていたが、すぐにフェードアウトするかのように消えていった。
今まで見てきた夢の中に、ここまで鮮明なものはなかったが、確かに目が覚めてもしばらくの間覚えていた夢もあったという意識はある。その夢の中に誰かが出てきたような気もしたが、その時に姉かおじさんのどちらかが出てきていたとしても、不思議ではない気がした。
ただ、夢の記憶が果たして自分だけのものだったのかという感覚が不思議と残っている。夢の中で何かのメッセージがあったような気がするのだが、メッセージの意味がまったく分からないからだ。
もっとも、それが夢というものなのかも知れない。ある程度ハッキリと分かるものが夢だということになれば、今まで夢だと思っていたことの説明がつかなくなる。それを思うと、夢というものが、本当に一つの世界だけで形成されているということを信じられなくなる。まるで地層のように、何重にも時間という層によって積み重なったものとして意識するもの、そう、まるで木の幹の年輪を感じさせるものであった。
敦美は、夢の中にいる時、自分が何かを考えているということを意識している。
それは不安や恐怖から逃れたい一心だと思っていたが、どうやらそれだけではないようだ。
何かを必死に思い出したいと思っていることを夢に見る時がある。その時には、ちょっとしたことでも見逃したくないという思いが強く残っていて、その思いだけしか覚えていないこともあって、
「夢を覚えているのは、よほど怖い夢を見た時しかないんだわ」
と思うようになっていた。
そう思うようになったのは、幼い頃からだったように思う。幼い頃に感じたことは、大人になってもなかなか考えることを変えることはできない。それは夢で見る内容がすべて幼い頃に考えたことの裏付けになっているからに違いない。
おじさんは、
「お姉ちゃんを信じていればいい」
と言った。
自分では信じているつもりでいるのに、どこか完全に信じきれないところがある。おじさんの話し方は、敦美が姉を信じきれていないことへの忠告のようにも聞こえた。
「信じてあげないと、お姉ちゃんが可愛そうだ」
とでも言いたいのか、やはり、夢の中に出てくる二人はどこかで繋がっていて、敦美に対して、同じ気持ちでいるのかも知れない。
そう思うと、今までに覚えている夢というのは、決して怖い夢だと言えないだろう。楽しい夢でもないが、何かホッとする癒しを感じさせる夢であったことは確かなようだ。
姉がいなくなって七年が経った時、敦美の家では細々と葬儀が行われたという。敦美自身は、まだ母親のお腹の中にいたことなので、まったく知らないことであるが、それから姉は松倉家で、位牌も表に出せない状態だった。しかも、失踪してから本当の生死もハッキリしないままなので、墓地はあっても、お骨があるわけではない。そんなことを考えると、姉がどれほど気の毒なのか、敦美は姉のことを考えるたび、胸が締め付けられる思いだった。
――それにしても、ここまで姉のことを隠す必要がどこにあるというのだろう?
敦美は、まだ自分の知らない事実があるのではないかと考えるが、必要以上に詮索して、せっかくの癒しの時間を夢の中とは言え、与えてくれた姉を傷つけてしまう結果になることを恐れ、あまり考えないようにしていた。
そういえば、あれは今から十年くらい前のことだっただろうか? 今でもまだ現役でしっかりしているおばあちゃんの様子が少しおかしいと思えた時期があった。
「おばあちゃんは、後悔しているのよ」
と、敦美が母親におばあちゃんの話をすると、そう答えた。
「どういうことなの?」
「あなたのお姉ちゃんを、おばあちゃんは、あなたと同じように可愛がってはいたんだけど、昔からのしきたりや礼儀作法など、子供の頃からきつく躾けなければいけないという意識が強くて、お姉ちゃんに対して、結構辛く当たっていたの。お母さんも、おばあちゃんから、躾けられた方だったから、娘の気持ちは分かっても、それを止めることはできなかった。やっぱり自分の娘だっていう気持ちがあったからね。でも、やっぱり娘といっても、一人のまだ幼い女の子、かなり辛かったのかも知れないわね」
「おばあちゃんは、それで私にはあまり厳しくなかったのね?」
「そうだわね」
「そういえば、最近のおばあちゃんは、かなり高齢になったからなのかしら、由梨を見て、樹里と呼ぶことがあるのよ。これって、痴呆症なのかしらね?」
母親は少し考えて、
「そうじゃないのよ。あなたのお姉さんの名前が樹里というのよ。そう、おばあちゃんが由梨を見て、樹里って呼んだの……」
母親は深い悲しみの淵にいるかのような表情になった。
「おばあちゃんは、ボケているわけではないということなのね?」
「そうよ。今の由梨は樹里がいなくなった頃と同じくらいの年、そして、由梨はその時の樹里に生き写しなの。だからお母さんも本当は背筋に冷たい汗を掻くほどに、驚いているのよ」
と答えてくれた。
――おばあちゃんが由梨に対して見ているその先に、お姉ちゃんを見ているなんて――
おばあちゃんの考えていることは、最初から分からないことだらけだったが、それでも母親に聞くよりも安心して話を聞くことができた。
それは心の中に後悔の念を抱いていたからなのだろうが、果たしてそれだけだったのだろうか? 敦美には、おばあちゃんが自分の気持ちをどのように表現していいのか分からないと思っているかを感じていた、
そんな祖母が、家から表に出なくなったのが、ちょうどこの頃からだった。
「年齢的にも身体がいうことを利かなくなる頃なのかも知れないわね」
と母親は言っていたが、まさしくその通り、身体がいうことを利かないと、精神的にも閉鎖的になるのか、敦美以外は、あまり誰も自分に近づけようとはしなかった。それは娘の由梨に対しても同じだったが、由梨に対してだけは、違った感情があるので、近づけない気持ちの中にある思いが果たして閉鎖的なものだけなのか、よく分からなかった。
敦美は、姉の墓がある場所を知っているが、娘の由梨に教えるつもりはなかった。
由梨は自分の母親に姉がいたことを知らない。幸いなことに、この街の人たちにとって姉の噂はタブーのようになっている。敦美に話をした魚屋にしても、本当は話をしてはいけないという暗黙の了解があったにも関わらず、喋ってしまった。そのせいでしばらくの間、街の人から無視される生活を強いられてしまった。
さすがにほとぼりが冷めてからはそんなことはなくなったが、今では本当に誰も姉のことを話さない。
「話してしまえばどうなるか」
魚屋が、そのことを身を持って示した形になったのだ。
「次になるのは嫌だ」
という思いは誰もが持っているようで、話題に今さらしたところでどうなるものでもない。それなのに、昔からの法度のように、姉の話題は封印されてしまっていたのだ。
小さな田舎町というべきこの土地に、閉鎖的になる時は一致団結した力を発揮する。そんな悪しき習慣は、根強く残っていたのだ。
こんな街が嫌で出て行った若者も少なくはなかった。都会の生活に疲れて戻ってきた人も、その中にはたくさんいるが、ひっそりと戻ってきた人もいる。そんな人を知る人はすでに少なくなっていた。誰にも噂されることもなく、ひっそりと暮らす姿は、若い人には理解できないに違いない。
だが、この街を出て行った理由は本当に皆同じような理由なのだろうか? いたたまれなくなったというのは共通した気持ちだろうが、それは外的なものだけだというのは、少し腑に落ちない。気持ちの中に、そして自分の中に籠ってしまった気持ちを解放できずに街を去る、そんな人も中にはいただろう。
敦美は姉の墓に毎日とはいかないが、一週間に二、三度くらいはお参りをしている。その時に、見覚えのある中年男性が墓参りをしていたのを見たことがあった。その男性が誰なのかすぐには思い出せなかった。以前夢に見た中年男性であると気付くまでには、夢という違う世界の記憶を呼び起こすのだから、少しくらい時間がかかったとしても、無理のないことだった。
その男性に頭を下げると、彼も同じように頭を下げてくれる。無表情なところに不気味さは感じたが、その男性が他の表情をするところを思い浮かべることはできない。夢に見て意識はしていても、しょせん他人なのだと思うと、急に寂しくなった。
この場所は限られた人しか来ない場所だという意識がある。それだけに、少なからず、心のどこかに共通点があってしかるべきだと思いたいと感じたのは、悪いことなのだろうか?
敦美は墓に話しかけていた。
「お姉ちゃんは、どうしてここにいるの?」
墓が答えてくれるはずもないが、ここにいて墓を眺めていると、姉と話ができるような気がしたからだ。墓の中にお骨があるわけではない。だが、そこに来なければ姉とは会えないという思いよりも、ここに来ることで姉に会えるかも知れないという気持ちの方が強い。
警察が足取りを調べたのだが、こんな田舎町のこと、目撃者がいるわけでもなく、人一人が忽然と消えてしまったことを、まるで神隠しにでも遭ったかのように、仕方がないこととして受け止めようとする閉鎖的な街だということを、今さらながらに思い知らされた気がした。
都会の人は隣に住んでいる人の顔を見ることもなく過ごしているらしく、これほど冷たい関係はないと思っていたが、田舎でも同じことだ。田舎の方が、下手に都市伝説のようなものを信じているだけにタチが悪いかも知れない。
そんな中、姉の墓に参ってくれる人がいる。それを知っている人は少ないだろう。姉の葉かでさえ、家族が定期的にお参りし、掃除をしているだけで、二日に一度は来ている敦美が、ほぼ毎回出会うのだから、少なくとも敦美よりもずっと墓前にいるのは分かっている。その男性は敦美がやってくるのを見計らって帰っていくようであった。敦美は最初こそただの偶然だと思っていたが、実際には敦美がやってくる時間に帰るということを最初から決めていたようだ。
――この人は姉の墓前で何を話しているのだろう?
姉が生きていれば、この男性とそれほど年齢的に変わらないだろう。敦美にしてみれば、まさかこれほど年の離れた姉がいて、それをまわりが知られないようにしていたこと、そして、母が自分を産む時に、姉の死と直面しなければいけなかったことで、かなり精神的にきつかったのだろうということ、今まで知らなかなったことを一つ知ってしまったことで、頭の中の繋がっていなかった部分が繋がって、次第に明らかになってきたことに爽快感とともに、あまりにも急速な展開に戸惑っていることが不安に繋がってしまっていることを分かっていた。考えや想像に表裏が存在していることを感じたのだ。
中年男性は、少なくとも最初からこの街にいたわけではない。いつの間にかやってきて、街のはずれに住み着いたというのが本当のところのようで、街はずれにあるアパートに住むようになったのだが、そのあたりは中年男性が住み着く前から、
「子供たちは、近寄ってはいけない」
と言われていたところであった。
敦美が小学生の頃までは、その近くに大きな屋敷があった。敦美の記憶でも荒廃し、廃墟と化したその場所は、近くに昔からある病院がひっそりと佇んでいて、病院も屋敷に負けず劣らず不気味な雰囲気を醸し出していた。
病院も屋敷も人が住んでいたのを敦美は知らない。特に病院はどれほどの規模だったのかすら分からないほど、雑草は生え放題、まっすぐに伸びた雑草は、伸びるのを遮るものなど何もなく、何も考えずに空に向かって伸びていた。
ただ、閉鎖しているにも関わらず、近づいてみると、薬品の匂いが鼻を突いた。
「これが病院の匂いなんだわ」
と、実際に病院で感じるよりも先にこっちで感じたと思うほどだった。
墓参りをしていた中年男性のそばを通ると、その時に感じた薬品の匂いを感じた。そのせいもあってか、敦美は今では更地になってしまった病院と大きな屋敷のあった場所を、目を瞑って思い出せば、瞼に浮かんでくるような気がして仕方がなかった。
その男性があの場所に住み着くようになったのは、屋敷や病院があった場所から近いからなのかも知れない。その男性がこの街にかつて住んでいたのかも知れないと感じたのは、姉の墓前に手を合わせているのを見てからではなかった。それ以前から知っていたことであり、特に魚屋のおじさんの様子がおかしかったことから気が付いた。
魚屋のおじさんは、感じたことを隠しておくことができない人だ。中年男性の顔を見ると、明らかに目を逸らしていた。男性の方には何も悪びれた様子があるわけではないのに、まるで磁石の同極を近づけた時のような反発力があった。力が強いのは中年男性の方で、微動だにしない様子は開き直りにも似ていた。
開き直りは、怯えている人には、どんな風に見えるのだろう? 余裕があるように見えることだろう。その余裕が笑顔に繋がり、怯えに存在しない種類を余裕は感じさせる。つまり笑顔には数種類あり、そのどれをとっても余裕のない人間にはすべてが同じ表情に感じられ、まわりや他人のことを意識しながら行動している人には、すべてが自分擁護の世界に入り込んでしまい、数種類あるだけの笑顔が果てしなく存在しているように思わされるのだった。
中年男性のことを意識し始めたのは、彼が姉のことを知っていると思ったからだった。機会があれば、姉のことを聞いてみたいという思いが強かったからだが、次第に最初の目的が何であったか、忘れてしまっていた。
――別に姉のことを知らなくてもいい。それよりもあの人自体に私は興味を持っているんだわ――
と思うようになってきたが、姉のことへの意識が薄れてくることはなく、むしろ姉のことを考えると、その後ろに彼が見え隠れしているようで、おかしな気分になってきた。
――おじさんに嫉妬しているのかしら? それとも自分の知らない姉を知っているかも知れないという思いが、彼を意識させることに繋ことをがっている断ち切りたいと考えているからだろうか?
自分の知らないことを知っている人に対して一目置くようになったのは、いつの頃からだったのだろう。自分が彼に興味を持ったのは、どこまで自分に関わりがある人なのか分からないが、時々自分を見つめる目がどこか優しさに包まれるような気持ちにさせてくれるからだった。
触れるか触れないかの微妙な距離は、一番暖かさを意識させるのかも知れない。実際に暖かさを感じることがなくとも、容易に想像できるのは、以前にも同じような感覚を味わったからなのかも知れない。
「あの人は、私の知らないことをたくさん知っているけど、私には話そうとはしないんだろうな」
と思ったが、それは、知られたくないことがあって、余計な詮索する機会を与えないようにしようと思っているのかも知れない。
「私はどうしちゃったのかしら? 恋愛感情を持っているわけではない男性を必要以上に意識するなんて、今までになかったことだわ」
と思っていた。
ただ、彼の視線を感じるたびに、彼は敦美を見ているのだろうと思っていたが、どうも視線の先が、さらに自分のいる場所のさらに向こうを見ているような気がして仕方がなかった。
「姉を見ているのかしら?」
と思っていたが、どうもそうではない。虚空を見つめているわけではなく、実際にあるものを見つめているのだ。それが娘の由梨であることに気が付くと、ふとした考えが頭を過ぎった。
――由梨はお姉さんに似ているんじゃないかしら?
家に帰って姉の痕跡をいろいろ調べてみたが、姉の写真が残っているわけもなかった。あったとしても、そう簡単に分かるところに置いてあるわけがない。簡単に分かるところに置いてあるくらいなら、姉の存在を敦美に隠しておくようなことはしないだろう。
「別に隠していたわけじゃないんだよ」
と、祖母に姉の存在を自分に教えてくれなかったことについて問い詰めたが、返ってきた答えがそれだった。
「じゃあ、どうしてお姉ちゃんの痕跡がうちにはないの? 私はお姉ちゃんのことをもっと知りたいのに」
「お姉ちゃんが、行方不明になって、本当に死んだという証拠があれば、お前にも話したかも知れない。だけど、生きているのか死んでいるのか分からないうちに年月だけが経ってしまって、葬式をあげなければいけないところまで来てしまった。お前のお母さんは本当に辛かったと思うよ」
「私をその時に身籠っていなかったら、もっと違っていたかも知れない?」
そのことについて、祖母は何も語ってくれない。これでは、まるでお姉ちゃんの痕跡を消してしまった原因を作ったのが敦美だと言わんばかりではないか。
敦美が由梨を産む時は、決して楽なお産ではなかった。逆子だったこともあって、最初から時間が掛かっていた。最終的に帝王切開になったのだが、それでも無事に生まれてきてくれて、本当に嬉しかった。
その時の母の気持ちを思い起すことは、敦美には難しいことだった。ただ、自分もお産の経験がある。少しでも母の気持ちに近づけたはずだ。母も由梨の成長を誰よりも喜んでくれていると思っていたが、それは由梨がまだ幼い頃のことだった。成長するにつれ、由梨を見る目が次第に視線を逸らしているように感じられ、敦美が姉のことを意識し始めた頃から、いつも辛そうにしている。由梨が姉に似ているということを知ったのはちょうどその頃だっただろう。敦美は、もう一人の自分がどこかにいて、いつも自分を見ているような気持ちになり、背筋にゾッとしたものを感じるのだった。
敦美は、もう一つ気になっていることがあった。
「確かに失踪して七年経てば民法上は死亡と認定されるはずだけど、何も葬式まで出さなくてもいいのに、まるで母のことを諦めたという決意をまわりに示しただけのことにしか案じられないわ」
もし、これをケジメだというのであれば、根拠があるだろう。敦美は考えた。
「葬式を出すということは、姉が確かにこの世に存在したという証しをケジメとして付けたんだわ」
それ以外に敦美には姉の葬儀の意味が分からなかった。
内輪だけでひっそりとした葬儀だということだったが、遺骨があるわけではない葬儀なので、本当に証しをケジメという形でつけただけのものだったに違いない。
それからの松倉家はしばらくの間、近所付き合いもままならなかったようだ。別に悪いことをしているわけではないのに、後ろめたさを感じるのは、田舎独特の閉鎖的な風習が影響していたからだろう。
姉のことを知らなかった敦美は、この街の閉鎖的な風習に自分が耐えられなくなっていたのだと思っていたが、まわりが自分を見る目に、どうしても姉のことが引っかかっていることで、敦美を正面から見ているわけではなく、敦美の後ろに見え隠れしている姉を見ていたのではないかと思えてならなかった。
「お前のお母さんは、ひょっとすると、お前がお姉さんの生まれ変わりのような感じで見ていたのかも知れない」
と、祖母が話していたが、その意味も自分が出産する時になって、初めて分かった気がする。陣痛で苦しんでいる時、祖母の今の言葉を思い出し、
――お母さんは、私を産む時、お姉さんのことを考えていたのかしら?
と思った。
出産する時は、他のことが考えられないほど集中しなければ痛みに支配されて、弱気な気持ちになってしまうと、自分が出産した時に感じた敦美だったが、母のようにどうしても忘れることができない記憶を持ったまま、出産に望むなど、敦美には想像できなかった。痛みは身体の感覚をマヒさせる。それは、頭の中で何かを考えることができるようになるために余裕を持たせるためなのではないかと、出産の時に感じていた。身体が感じる感覚と、精神で感じる感覚とでは反比例しているように思えるが、実は比例しているのではないだろうか。
由梨がお姉さんに似ているというのは、何かの因縁であろうか。母親が自分を出産した時、遺骨のない葬儀が行われていたことで、生まれ変わりの意識が強く母の中にあり、その思いを敦美が無意識のうちに受け継いだのかも知れない。
敦美が墓参りをするようになってから、中年男性を見かけるようになり、最初こそ、初老に近い年齢に見えていたが、次第に若さを感じるようになっていた。それは自分が年を取って来たことを自覚しているからなのか、それとも、二人の距離が縮まっていくのを感じたからなのか、彼が敦美に対していつも無表情でいることは気に入らなかった。
「何とかこちらを振り向かせて、どうして墓参りをしているのか、聞き出したい」
と思うようになったが、思えば思うほど、無表情は変わらない。
だからといって、敦美の方から媚を売るような真似をしたくない。彼のような男性に媚としても、決して彼の方から歩み寄ってくることはないだろう。無表情の奥に何を考えているのかが見えてこない限り、彼を振り向かせることはできないからだ。
「彼を振り向かせてどうしようというの? 姉の消息について聞こうとでも? そんなことをしても葬儀も終わってしまった今となっては、ただ平和なまわりを引っ掻き回すだけのことで終わってしまうわ」
言い聞かせるように独り言ちた
敦美は閉鎖的な街でも、さらにその中で目立たない性格である。それはまわりに染まりたくないという気持ちの表れで、一歩踏み外すと、後ろの方にいたはずの女の子が、急に前に飛び出して、まわりにその存在を大きくアピールしようとしているように見える。ただ普段から控えめな人間が急に表に出ようとしても、それは無理があり、気持ちの奥にあるものをタイミングよく表に出さなければ、最後までアピールできないままでいてしまうことになってしまう。
敦美が中年男性を気になったのは、無表情でありながら、存在感をしっかり相手に植え付けていたからだ。植え付けられた存在感は、最初からその人に備わっていたもので、人を引き付ける求心力とでもいうべきものが感じられた。
中年男性がこの街に住み着くようになったのは、敦美には分からなかったが、敦美が彼の夢を見たのは、今までに何度かあった。
内容はほとんど変わりがなく、まるでテレビの再放送を見ているようだったが、少しだけ違っているとすれば、最後のところで、前に見た夢から一歩進んだ知らない話を聞かされることだった。自分の知らない秘密が最後に隠されているような気がして、夢を楽しみにしている敦美がいる。そして、今度見る夢である程度のことが分かってくるのではないかと敦美は思って期待して待っているが、待っている時に限ってなかなか夢の中に出てきてはくれない。
「おじさんは、待っているんだよ」
「待っているって何を?」
「それはね……」
そこまできて、目が覚めた。いつもの続きを匂わせる終わり方だ。
一体おじさんは何を待っているというのだろう? 次の夢に引っ張るということは、彼自身も、ハッキリと分かっているわけではないのだろう。
――一番楽しみにしているのは、おじさん自身なのかも知れないわ――
と、敦美は思った。
おじさんの夢は、今までにも何度か見たような気がした。しかし、そのすべてが夢だったのだろうか? 敦美はおじさんとあまり話をした記憶がない。同じ人を見ているのに、おじさんと表現する時と、彼と表現する時の二種類があるのを自分で分けているつもりはなかったが、その時々で違うのは、相手に対して入れ込みの違う時があるからだろう。それを思うと、遺骨が見つかっていない姉が、本当はどこかで生きているのかも知れないとも思えてくるのだった。
おじさんが待っていると言ったのも、姉がどこかで生きていて、目の前に現れてほしいという気持ちがあるからではないだろうか。おじさんが姉とどこで関わっているのか分からないが、墓参りで出くわすことが姉の導きに思えてきた。
敦美は母親に自分が考えていることを話す勇気がない。元々、敦美が中学時代くらいから、母親の様子が少しおかしくなってきた。病院に行って検査をしてもらったが、別に問題はないという。神経内科に行ってみたのだが、肉体的なところでは問題ないとしながらも、精神的な面としては、さすが専門家、催眠療法でも使って、潜在意識を引き出したようである。
「ただ、気になることとしては、夢を見ている時、もう一人の自分が現れるらしいんだけど、一生懸命に誰かに対して謝っている態度しか見られないっていうんだ。誰に謝っているのか分からないんだけど、それがトラウマとなって残っているから、人に謝らなければいけないという使命感のようなものがあるんだろうね」
「母は、今の自分の夢を見ているのかしら?」
普段は、毎日何を考えているのか、抜け殻のような雰囲気だからこそ、医者にとって容易に母の中に入りこめたのかも知れない。
だが、逆に入り込まれやすい人の潜在意識は、今の時代というよりも、過去にあった何かで印象に残っていることが、引き出された潜在意識に時間を飛び越える意識があるのかも知れない。
この中年男性が敦美の前に現れたことにより、敦美は少し前に進めるようになるのではないかと思うようになっていた。
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