サーシャ
春先のよく晴れた日。丈夫な石造りのK橋の上。サーシャはしばらくためらっていたが、ついに意を決し、橋の手すりに片足をかけ、もう片足も上げて、向こう側へ、川の上の空中へと体を乗り出そうとした。だが次の瞬間、胴体に衝撃が走り、肩と背中を硬い所に打ちつけた。橋の上の地面だった。サーシャは倒れて青い空を見上げていた。腑に落ちない気分で寝転んでいると、見慣れない顔が覗きこんだ。紫色の虹彩が宝石めいて輝いていた。「ああ、よかった!」小さな口が動いた。「だめですよ、こんなことをしては」自分について言っているのだ、とサーシャはぼんやりと思った。せっかく決意して臨んだことを邪魔されて恨めしくもあったが、このどこか不思議な人物に助けられたことを幸いにも思った。サーシャは上半身を起こして座り、手すりの向こう側に時おり目をやったが、そのたびにこの人物に手をぎゅっとつかまれ、「だめですよ」と囁かれた。
やがて救急車が到着した。サーシャが運びこまれると、紫の目の人物は橋の上から微笑み、手を振って見送った。
サーシャはすぐに病院に運ばれて診察を受け、その日からそこに入院することになったが、翌朝、死体となって発見された。
サーシャは夜のうちに、自分のベッドのシーツを裂いて紐状にし、自らの首にかたく巻きつけて念入りに結んだ。窒息死するのに十分近くかかった。楽な死に方ではなかったが、サーシャは幸せだった。紫の目の人物が美しい記憶をくれたから、それが薄れないうちに死のうと考えたのだった。サーシャはK橋の清らかな眺め、晴れた空から降りそそぐ光、きらめく紫の虹彩、そして人生で初めて自分が生きていることを「よかった」と言われた思い出をいっぱいに抱きしめて旅立った。
紫の目の人物はというと、昨日の橋の上でのことを少し気づかわしく思い出し、サーシャのこれからの幸せを願いながら、次の滞在先へと向かう列車の窓から、青さを増していく朝の空と、晴れやかな色彩の春の野原が続く景色を眺めていた。
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