28_そして、本番

 オフィスにいる二人は夕べの痴話げんかも忘れたように、部長と課長補佐の役割を完璧に果たしていた。


――ジェイサイド――


 一応あの痴話げんかの結末を言うと、二人はチェーンを使うことはなかった。頭に来たジェイは蓮の家を出ようとした。靴を履いたところで寝室に引き返し、玄関に向かう。

「何するんだ、それ」

「しばらく一人で寝るから」

「分かったけど。お前のカッコ、説得力無いぞ」

「うるさい! 蓮が悪いんだからねっ!」

 ドアハンドルを掴もうとした手を蓮が後ろから掴んだ。

「ジェイ……」

 ジェイはドアの方を向いたままだ。

「……なに」

「お前……可愛い!」

 不貞腐れて突き出ている口から言葉が飛び出す前に蓮がその唇を塞いだ。少しして足元に落ちた蓮の枕……

 お蔭で今日のジェイは動く時にちょっと腰を庇っている。


――ジェイサイド終了――



 昼休みは何人かがジェイにえらい目に遭わされた。チャイムが鳴った途端にジェイの追及が始まったのだ。

「浜田さん!」

「な、なんだよっ!」

「昨日、俺に話あったんでしょ? 今、時間空いてるけど」

(さて、浜田。どこまで頑張れるか?)

 昼を自席で食べている蓮が面白がって見ていると、周り(哲平・華・澤田・広岡)があっという間にジェイの目の前から浜ちゃんを掻っさらった。

 浜ちゃんは身の危険を感じたらしく、救いの手を求めるかのようにジェイに手を伸ばしたが、その手はあっさり華に捉まった。

「いた、いたい、いたいって、華! 華!」


 みんなジェイから逃れるために外にランチを食べに行く。

「石尾くん」

 そっと席を立ったところを石尾は見つかってしまった。それを見て翔は石尾を見捨ててオフィスから離脱した。

(くそっ! 翔、覚えてろよ!)

「君たち、今日変だよね?」

「そうですか? すみません、昼、翔と約束してて」

「俺もつき合おうか?」

「えっ? あ、あの、そうだ、駅のそばに激辛ラーメンって出来たの知ってます?」

「知らないよ。辛いの、俺嫌いだし」

「そこに食べに行くんです。良かったら一緒に……」

「いいよ。行ってらっしゃい」

 ムスッとした顔を置いて、石尾もオフィスを出て行ってしまった。ちなみにそんな激辛ラーメン屋は駅のそばに存在していない。


「井上さん!」

「何でしょうか? ジェロームさん」

「俺のデスクに昨日招待状が届いてて」

「だから何でしょうか、ジェロームさん」

「だから……井上さん、いつもと違う……」

「そう? 私ね、昨日デート流れちゃったから誰かに八つ当たりしたいのよね。ちょうどいいわ、あんたで」

「いえ……結構です」

「こら! 逃げるな!」


(井上の勝ち! で、今度は誰に行くんだ?)

 見ているだけで面白いから蓮はにやにやしてオフィスの中を眺めている。以前と違ってかなり人が増えているから、火の手に気づいていないメンバーもいる。


「桜井さん!」

 田中を困らせた桜井充。彼女はまだこのオフィスにいる。困り者ながら大きな戦力でもある彼女はみんなから持て余されているが。

(いいの、見つけたな、ジェイ)

「な、なんですか? ジェイ先輩」

 彼女にも『きっちりと口を閉じておけ』という指令が下っている。ありさからの直電話で。

「あのっ、私、忙しいんです!」

「そう? 暇そうに見えるけど。ランチ、奢ろうか?」

 桜井の心が揺れ動くのが見て取れる。

(陥落か? 桜井)

「行きたいです! ランチ、一緒したいです……でも怒られちゃうし……」

「誰に?」

「さくらいー 午後一でミーティングしようか」

 中山のゆったりした声。

「トイレ行きますっ、すみません、ジェイ先輩!」

「桜井さん!」

「漏れちゃいますっ!」

 蓮は笑うのを堪えるのに必死だった。結局ジェイに収穫は無かった。


 終業時間だ。哲平にひそっと蓮は耳打ちした。

「俺とジェイは今のところ邪魔だろ? カフェショップに行ってるよ。駐車場にも近いし。それでいいか?」

「すみません、気を遣わせてしまって」

「いや、楽しみにしてる。あいつを連れ出さないとみんなが困るだろうからな」

 哲平の目の端で、またもやジェイに追い詰められている浜ちゃんが見えている。

(ジェイにさえ簡単に落ちると思われて……まったく、あのお喋り!)

「そうしてもらえますか? ジェイの食い下がりにアイツが勝てるとは思えないです」

「了解。俺が引き取るよ。ジェイ!」

「なんですか!?」

「来い、コーヒー奢る」

「今忙しいです」

「浜田、華が呼んでるぞ」

「はいっ! 後でな、ジェイ!」

「そんな顔するな、ジェイ。行くぞ」

「……分かったよ」


「助かったぁ! 『一番邪魔だったのは招待客でした』なんて、笑えないオチだよ。それにしても、浜ちゃん、ずい分ジェイに付け込まれてたね」

「言うな、華。俺は頑張ったぞ。口は割らなかっただろ?」

「時間の問題だったな」

「中山は桜井に強いな」

 哲平にはそれが不思議でならない。誰とでもやっていけるという哲平の自信が初めて揺らいだ相手だ。

「そうか? 俺は普通に接してるんだけどね。なぜか桜井は怯えるんだよな」

 誰もが心の中で納得をする。言葉では説明できない中山の何かが桜井には見えているのだろう。



 ぶつぶつ言うジェイが宥める蓮に伴われて加賀第二駐車場にやって来た。駐車場を見た途端にジェイは黙り、二人の足が止まった。何人かが二人に気が付いて「来たよー!」という声が飛んだ。一斉に黙った人々の中を蓮がゆっくり歩く。

 昔部下だった異動した者たち。営業やら秘書課やら受付係の女性たち。歩きながら面々の顔を見て蓮の中に一気にいろんな思い出が蘇る。自分から造反して離れた者もいる。昔の元『開発部』にいた者も来ている。

 途中から拍手が起きた。行きついた中央に立っている成瀬を見て驚いた。そしてその向こう側に大滝がいる。

「常務まで?」

「今日は『常務』じゃない。お前の好きな『大滝さん』という呼び方で行こう。みんな! 君たちもそれでいい。今夜は肩書なんぞ要らん。そうだろう?」

 歓声が沸き起こった。すぐに静かになる。メガホンを持った哲平が前に出た。

「皆さん! 本日の主役二人の登場です! 河野さん、ジェイ。退職前のイベント、早過ぎるんだけどあっという間に夏が終わっちゃうからね。この際ファミリーも交えて花火大会をしようってことになりました。顔ぶれも花火も豪華なのをご用意しました。楽しんでください! 挨拶だなんだ、そういうのはやめときましょう! チビッ子諸君! 大人諸君! 今夜はみんな遊ぶぞー、時間は1時間しか無いんだ、楽しもうな!」

 山ほどの花火が駐車場のあちこちに置かれていて、あっという間に花火大会は始まった。


「哲平、これ」

「何かみんなで遊ぼうじゃないかって、そんな声がありましてね。決まったのが花火大会。1時間しかここ借りれなくて申し訳ないです!」

「なに言ってるんだ…… そうか。ジェイ、分かるか? 多分お前のために花火大会になったんだ」

 すでにジェイの目から大粒の涙が零れている。

「うん……うん、分かるよ。俺、あの夜のこと忘れてない。誰が言ってくれたの?」

「花火大会の発案者は分からないんだ。匿名で来たアイデアだからさ」

 華もそれが誰なのか知りたい。けれど小野寺の希望は叶っていた。

「でもな、一番最初の言い出しっぺなら教えてやるよ。浜ちゃんだ」

 尾高の答えに驚く蓮とジェイ。

「浜田が?」

「俺、悪いことしちゃったかな……」

「しょうがない、日頃の行いだ」

 会場の中を二人で歩き回った。途中で和田の息子が「本をありがとう! 少しずつ読んでます。難しい言葉、お父さんに教わってます」と蓮と握手した。


心美ここみちゃん!」

 ジェイが駆け寄って女の子を抱き上げた。

「ジェイ、家族で来たよ」

「塚田さん……ありがとう、俺のために。仕事、大丈夫なの?」

「大滝さんの紹介だからな、今日は早めに上がらせてもらえた」

 もうこの世界に戻りたくないと言った塚田は、大滝の知り合いの料亭で和食を勉強している。彼はこの先、ホテルにシェフとして招かれ、そこで副料理長にまで上り詰めることになる。


 娘を連れた西崎がいた。そのそばにいるのは、友中と清水。

「先生っ!」

「元気そう! もうすっかり大丈夫だって電話では聞いたけど、やっぱりこうやって顔を見ると違うわね。大人っぽくなったわ、ジェイ」

「清水先生まで来てくれたなんて」

「楽しんでらっしゃい。花火は心を落ち着けてくれるわ」

「友中先生……」

「泣かないの! こんな場を設けていただけるなんて、有難いわね」

「はい……」

 西崎とはしっかり握手を交わした。あれから西崎は独立して自分の法律事務所を持っている。


「河野!」

「なんだよ、お前まで来たのか? お! 来い、恭介!」

 小学生の男の子が腰を落とした蓮の腹にぶつかっていく。

「ぐふっ! 力、ついたな……」

 腹を押さえて蓮はその子の肩に手を置いた。

「本当に相撲取りになる気か?」

「うん! どう? なれると思う?」

「なれるよ、これなら。参った、今度から加減してくれよ」

 坂崎がにやにやと笑う。

「お前が会社辞めるとは思わなかったよ。お蔭で会社が俺の天下になる日も近い」

「なんだ、倒産する日が近づくのか?」

「河野! 何を言ってる!」

「しまった、常務……大滝さんがそばにいるなら教えろよな!」

 本当は坂崎は寂しくてしょうがない。けれどそんな顔は絶対に見せない。一緒に来ている奥さんは、蓮が会社を辞める話を聞いた夫が二晩続けて自棄酒を飲んだのを知っている。


「河野さん、ちょっと来てもらえるかしら?」

 ありさに呼ばれて女子軍団のそばに連れていかれた。

「長いこと、すみませんでした!」

 十数人の女性に頭を下げられて蓮は面食らった。

「この子たち、河野さんを盗撮してたの。はい、これ。取り敢えず没収した分」

 手提げ袋の中を覗いて顔をしかめた。入社の頃の写真を見てぽつりと呟く。

「若いな……こんなにガキっぽかったか?」

「ええ。突っ張っちゃって。可愛かったですよ、『河野課長』」

 くすりと笑われ頭を掻く。

「これ、もらっても構わないか? 俺は自分の写真なんてほとんど持ってないんだ」

 女性たちは一斉に頷いた。

「ありがとう。いいアルバムになりそうだ」

「蓮司さま! やっぱり私、蓮司さまが一番好きです!」

 数人が叫んで、数人から引っ張られる。

「さっきジェイさまにもそう言ってたじゃない!」

 蓮は袋を持ってその場から足早に遠ざかった。写真は有難いが、あの騒動にまでつき合う気はない。


「河野さん、お久しぶりです」

桂征けいせい! 来てくれたのか!」

「はい。父が大変お世話になりました。俺も。カナダの大学に行く前にコートジボワールに行くことにしました」

「アフリカの?」

「はい。河野さんが紹介してくださった中村さんと、あれからずっと連絡を取り合ってるんです。そのお蔭で中村さんの出身大学にって決めたので」

「急にカナダなんて言うから不思議だったんだが……そうか」

「はい。カナダで医療を学びます。河野さん、言ってくれましたよね。『日本で生き辛ければ外に出たっていいんだ』って」

 尾高がそばに来た。

「あの頃、俺は正直言って河野さんを恨んだよ。やっと部屋から出て一緒に生活し始めたのに今度はカナダかってね」

「済まん……」

「いや! 今は感謝してるんだ。あの引きこもりが医療に役立ちたいだなんて……」

「中村は高校の時の同級生だった。本当にしっかりしたいいヤツだから頼りになると思うよ。でも桂征、どうしてコートジボワールに?」

「中村さんのやっている病院で少し働かせてもらおうと思って」

「病院? カナダじゃなくて?」

「中村さんはあの後『国境なき医師団』に入って、それで今はコートジボワールで落ち着いているんです」

「……治安は!? 確かあそこは」

「だから俺たち、頑張るんです。あそこの公用語はフランス語だからそれもカナダで覚えます。一人でも多くの命を助けたくて」

 河野は希望に満ちた桂征の顔を見つつも、尾高に申し訳ないような気になっていた。

「尾高、言ってくれれば」

「コートジボワールの話は俺も先々週聞いたばかりだったんだ。さすがに面食らったもんだから言えなくて」


 話足りない。花火をする間を惜しむほど。けれど二次会にホテルの会場を予約してあると華に聞かされた。

「だから後でみんなとゆっくり話せますよ。花火、楽しんでください!」

子どもがいるからロケット花火は禁止で、本当に昔からあるような花火ばかり。


 ジェイは離れたところで華音を抱っこして花火を見ていた。

「ジェイお兄ちゃん!」

「ほのかちゃん! わぁ、久しぶりだね!」

 華音は突然現れたライバルらしき相手に警戒して、ぎゅっとジェイの首にしがみつく。

智実ともみちゃんは?」

「あっちでお母さんとお父さんと一緒にいます」

 もう小学校4年生。ほのかはしっかりしている。生まれた妹には、母美智の『智』と小野寺の『実』を取って、『智実』と名付けられた。

「そうか。華音ちゃん、このほのかお姉ちゃんの妹さんも華音と同じ年だよ」

 放っておけば何人でもライバルが増えそうで、華音はますますジェイにしがみついた。


 華月は花火よりその明かりに浮かび上がる浴衣姿の和愛を見ている。穂高の目は、華月を見つめる椿紗にそそがれて、幼い恋心は線香花火のようにささやかに光を放っていた。


 蓮も花火に火をつけた。

(そうだな…… 花火みたいな15年…… 最後にR&Dというデカい花火を打ち上げた。俺は満足だ)

会場を見回す。目が合うとみんな笑いかけてくれる。


 華音を下ろして、ジェイは線香花火を炎に近づけた。火薬の匂いが漂って、儚い火華が思い出を映す。

(たくさんあった、この会社で)

次の線香花火をほのかが渡してくれた。

(母さん。俺、次の世界に出るんだ、蓮と一緒に)

3本目。

(俺、我がまま言えるようになった。ううん、ずっと我がまま言ってるよ、蓮に。それでもいいんだって)

 立ち上がって蓮の姿を探した。蓮は知らない男性と話をしている。会場を見回すとよく知った人たちが、それぞれの家族と共に花火を楽しんでいる。

(蓮…… いいって言ったね。子ども、いいんだって。女性は無理だからって。蓮の言った通りだ。ここにはたくさんの家族がいる。みんな俺の家族みたいなもんだね)

 あっという間に8時52分。あれだけ喋れたのが奇跡だ。揃った子どもたちの顔を見る。特によく見知った子どもたち。華月、華音、和愛、穂高、椿紗、双葉、風華。

(莉々さんのお腹に一人。8人だね、哲平さん。後二人だ)


 その時、大きな花火が空に上がった。魅入られたようにみんなが夜空を見上げる。

(こんなに近くで花火大会? いや、そんなことはメールで回ってきてなかった)

 間近で見る空に咲く大輪の華。短い時間だったが、それはみんなの心に焼き付いた。


「楽しんだかぁ? 残った花火はチビッ子たちにお土産だ。保護者の皆さん、余ってもしょうがないので全部持って帰ってください。そのつもりで多く買ってあります。最後の打ち上げ花火、大滝さんからのお二人へのプレゼントです!」

 思わず大滝を振り返った。

「上津高校のグランドを借りた。そこで業者に上げてもらったんだ。思ったより立派で良かった! 河野、楽しかったな、15年。まだ時間はある。辞めるのをやめても構わんぞ」

 みんなから同意の声が上がる。涙で声が詰まる。それをなんとか絞り出した。

「俺が頑固なの、大滝さんが一番知ってるでしょう。花火……俺も同じことを考えました。このR&Dは俺にとって大きな花火だったと。みんな! どうか……どうかもっとデカい花火を打ち上げてくれ! 俺の願いだ、それを外から見ていたい。哲平、田中、頼むな! みんなもだ。ご家族の皆さん、俺と一緒に見守っていてください! 俺の……俺のファミリーだ……」

 それだけ言うのが精いっぱいだった。蓮の手からジェイがメガホンを取った。

「ありがとう! 俺、ここで生きていく勇気っていうのを教わりました。たくさんの心に触れて、たくさんの幸せをもらいました。今、欲張りになっています、もっともっと幸せになりたい! って。だから新しい世界を見に行きます! 俺、やっと欲張りになれたんだ! ありがとうございます!」


 二次会に雪崩れ込む。ファミリーの会の女性軍は会場を片付け、子どもたちと帰途に着いた。ここからは酔っ払いの時間だ。今日は金曜日。ホテルの部屋を借りた者たちもいる。華やかな金曜の夜はまだ続く。

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