09_背中

 ビシッとした哲平おじちゃんに華月も華音も驚いた。

「今日は父ちゃんが『じょむさん』とぶちょーさんに挨拶してくるんだよ!」

朝早くに父と宗田家に来た和愛が二人に説明した。


 久しぶりのスーツ姿。髪は一昨日短く切って来た。オフィスのメンバーなら見慣れた髪型だ。先週買った7,800円のスーツは、ちょっと和愛と鬼ごっこしたら脇が破けてしまった。

「バカでしょ! なんでスーツを買い惜しみするんだよ、必需品じゃん! 俺より立場上なんだからさ、ビシッとしたのを着なよ! 第一、スーツで鬼ごっこってなんだよ!」

「いや、『安っ!』って飛びついちゃったんだよ。で、久しぶりに着てみたら和愛がからかってくるからさ、外に逃げたのを追っかけたの」

「ほんっと、バカ!」

 だからそのスーツは今真理恵が何とか修繕しているが「このスーツ、生地がぺらぺらだよ、またすぐ破けちゃうよ」と哲平に小言を言った。お蔭で昨日慌てて買った298(ニーキュッパ)のスーツを着ている。

「父ちゃん! 結局4万円くらいになったんだからね!」

(千枝なら言いそう……)

怖い嫁になりそうだと思う。

(まさか華月と結婚なんてないだろうけど、互いに好きだって分かったらどうなんのかな?)

 ちょっとその辺りをいじくり回したくなるのを、この悪戯っ気のある父は必死に我慢している。

 哲平には夢がある。和愛の将来を温かく見守りたい。選択肢をたくさん持たせたい。大学も結婚も、言われたらすぐに金を出せるように。だから自分には贅沢をしたくない。


「じゃ、華月、和愛を頼むな。泣かすなよ」

「泣かさないよ! いつも優しくしてるもん」

「この前は髪2本抜かれた!」

「逃げるからだよっ!」

 華音が二人の間に立つ。

「華月、今日は和愛ちゃんに近づかないでね!」


 奥から華が出てきた。騒がしい子どもらの頭を手が勝手に撫でていく。

「いいじゃん! 最初っからそうすればいいんだよ」

 哲平の姿を見て華は満足げだ。ちなみに華は仕立ててもらう派。これは親の影響だ。両親の服ほどではないけれどそういうもんだと思っている。

「さ、行こうか、運転手」

 哲平は予後でまだ車を運転しないから華が乗せて行く。いつも運転手は千枝で、その運転の荒っぽさを哲平は結構気に入っていた。

「はいはい。助手席にどうぞ。今日は挨拶だけだったよね」

「まあな。分かっちゃいるけど形式は踏めってさ」

 華は哲平の心の中が分かっている。きちんとしたいのは哲平の方だ。常務にも部長にも休職の前後はえらく迷惑をかけた。あの時はそんなことを思いもしなかったが、落ち着いて振り返ればかなりの悪口雑言を投げつけたと自覚がある。だから、今日は哲平なりのけじめをつけに行く。



 父たちが出て行くと途端に静かになった。

「騒がしかったわねぇ」

 華音がおませなことを言った。

「まったくよ。家ではいつもああなの。ホントに困っちゃうわ」

 すでに奥さまごっこが始まっていた。華月はそぉっと離れようとしたが和愛に捕まってしまった。

「なんだよ、今日は近づくなって言っただろ!」

「あなた、乱暴な言葉はやめてね」

「さっき和愛の旦那さんは出かけたってことになってなかった?」

 華月はこういう遊びに巻き込まれるのは御免だ。

「出かけた人を相手になんか遊べないでしょう?」

 和愛が大人びて喋るのは華月にははっきり言って気持ち悪かった。

「うげぇ、和愛、気持ち悪い。そっちこそ僕に近寄るな!」

 この一撃は華月の予想以上のダメージを和愛に与えた。じわじわと涙が出る。

「なんだよ……そっちが悪いのに泣くなんてずるい」

 バツが悪くなった華月はそのまま外に出て行ってしまった。

「和愛ちゃん、泣かないで。今の、華月が悪いよ。ごめんね、泣かないで」

 和愛には何が悲しいのかよく分からなかった。普段の華月の反応とそんなに変わらないのに。けれど『近寄るな』という言葉はショックだった。

 華月の言ったことはほんのきっかけ。華月と華音がいるのに、急に一人ぽっちになったような気がした。

「どうしたの? さっきまで騒いでたのにケンカしちゃった?」

「真理おばちゃん!」

 和愛は真理恵に抱きついて本格的に泣き始めた。その頭を優しく撫でる。

「あっちに行こ! 華音、何か飲み物を持っておいで」

 心配そうに和愛を見ながら華音は台所に行った。

 居間に座ると和愛は真理恵の膝に頭をつけて泣き続けた。真理恵の膝に乗ってはいけない。これは子どもたちの暗黙のルールだ。

「和愛ちゃん、父ちゃんは帰ってくるよ。寂しくなっちゃったんでしょ?」

 その言葉で分かった。寂しい。すごく寂しい。

「うん。うん……」

「そっか。いつも父ちゃんと一緒だったもんね。おばちゃんはね、和愛ちゃんの父ちゃんって凄いなぁって思ってるんだよ」

 ひくっ、ひくっと泣いている和愛に語り掛ける。

「和愛ちゃんの父ちゃんが来るとここはいっぺんに賑やかになるよね。みんなたくさん笑うし、とっても元気になる。和愛ちゃんもそうでしょ? でも4月になったら和愛ちゃんは学校に行くようになるね。その間、父ちゃんはどうするのかな? 和愛ちゃんの帰りをたった一人であの家で待つのかな? どう思う?」

「……それ、いやだ。父ちゃんが寂しくなっちゃう……」

「会社にはね、父ちゃんにもたくさんお友だちがいるの。でも父ちゃんは和愛ちゃんを一人にしたくないからずっとそばにいたんだよ。だって父ちゃんには和愛ちゃんが一番大事なんだもん。おばちゃんはそう思うの」

 いつの間にか和愛の涙は止まっている。華音はちょっと離れて母の話すことを聞いていた。

「和愛ちゃんが元気に学校に行って、父ちゃんも安心してお仕事ができて。和愛ちゃんは華月や華音と一緒に学校からここに帰ってくるでしょ? そして父ちゃんも華おじちゃんとここに帰って来る。和愛ちゃんはずっと一人になんかならないよ。大丈夫。あの父ちゃんがいて、私たちがいるんだから大丈夫」

「うん……ここで父ちゃんを待つ。……父ちゃん、会社に行ってる間、私のこと忘れないよね?」

「忘れるもんですか! 父ちゃんは和愛ちゃんだけの父ちゃんなんだから」


 華月は30分くらいして帰って来た。やっと落ち着いて静かに本を読んでいる和愛に近づいていく。華音が怒ったような目で華月を睨んだ。

「なに? 私たち、本を読んでるの」

 華音のキツい声に少し臆したけれど、華月は黙ったまま和愛に左手を突き出した。

「なに?」

 戸惑って和愛が聞く。和愛の手を掴んでその小さな手の平に飴を載せた。商店街に駄菓子屋さんがある。一個10円の紫の飴は和愛の好きなグレープ味だ。

「あげる」

 それだけ言って子ども部屋に行った。これからゲームをするつもりだ。

 和愛は華音を見た。1個しか無い飴をどうしたらいいいのか。

「私、11月に生まれたの。だからほんのちょっと私の方がお姉さんなんだって。だから和愛ちゃんが食べていいよ」

 安心して口に入れると、その飴はいつもより甘く感じた。



「ただいまー」

 昼過ぎに帰って来るといっていた哲平が帰ってきたのは7時ちょっと前だった。

「父ちゃん!」

 走ってきて足に抱きついた和愛を抱え上げる。

「ごめん! 遅くなった。父ちゃん4月の10日から会社に行くことになったから、お前の入学式に行けるよ」

「本当!?」

 華月や華音には真理おばちゃんがいるけど、自分は一人で入学式に行くんだと和愛は思っていた。

「和愛の入学式だからな! 行かないわけないだろ? ちゃんと新しいスーツ買っていくからな」

 途端に和愛の目が厳しくなった。

「下ろして、父ちゃん」

 素直に下ろした哲平の周りをぐるっと和愛は周った。

「なに、これ! あっちこっち真っ黒になってる!」

 ちょっと明るいグレーのスーツはとてもお洒落に見えて和愛は気に入っていた。

「これ? これか。父ちゃんさ、久しぶりに会社に行ったからちょっと張り切っちゃってさ。大丈夫だよ、ちゃんとクリーニングに出すから」

 心なしか哲平の声が焦っている。真理恵も出てきて「まあ!」と言ったきり声が出ない。

「和愛、それ、クリーニングでも落ちないと思うよ」

 駐車場に車を入れてから帰って来た華の声には抑揚が無い。

「心配するな、会社に行くたびにスーツをおしゃかにするようなことはもう無いから。ぶちょーさんがお父さんには『会社に来たらスーツを脱いでジャージにでも着替えろ!』って言ってくれたからね」

「父ちゃん、何をやったの!?」

「ちょっとプリンターの調子が悪くてさ、困ってたから直してあげたんだよ」

「確かに直したよね、酷い紙詰まりをさ。ついでにトナー替えようとしてぶちまけるとは思わなかったよ」

「ちゃんと床は掃除したろ?」

「うん、掃除してくれた。で、配線が気になったんだよね、床下の。だからそのまま座り込んで調べたら中で捻じれてたんだ。でも一か所直してもだめでさ、コピー室の床板を剥がして直し始めちゃったんだよ」

「父ちゃん!」

 華は和愛の前にしゃがんで目を合わせた。

「和愛、直してくれたのはさ、本当に凄く助かったんだよ。誰にも出来ないんだ、床剥がして中を直して元通りにするのって。でもお前の父ちゃんは考え無しで動くところがある。知ってるよな?」

「うん」

「会社ではぶちょーさんとジェイと華お兄さんが見張っててあげるから。今日みたいなことはさせないからね」

「うん! ありがとう!」

「いいんだよ。和愛も大変だよな。よくこのお父さんの面倒見て来たもんだ、本当に」

 和愛は心配そうに華に聞いた。

「ぶちょーさん、怒ってなかった?」

 思わず華は笑ってしまった。どっちが保護者だか分かりゃしない。

「大丈夫だよ、ぶちょーさんはね、お父さんのことちゃんと分かってるから」

 その間、哲平は何も言い訳をしなかった。


 話を聞いていたらしい。子ども部屋に戻って来た和愛に華月が近寄った。

「大丈夫? 和愛、くろうするね」

「しょうがないの。父ちゃんは何か始めたら夢中になっちゃうんだよね」

 大きく溜息をつく。

「哲平おじちゃんが大変だからさ、好きになる男の子ってちゃんと自分のことを出来る子がいいよね?」

「そしたら助かる」

(華月はちゃんと出来るんだよね。真理おばちゃんが『華月は自分のことは自分でやるから助かってるのよ』って言ってたもん)

「僕も好きな子には、くろう、かけたくないな」

 この辺のニュアンスは、まだ和愛には難しい世界だ。華月はまさなりお祖父ちゃんの影響を少なからず受けているのだから。


「哲平さん、始めっからあのテンションじゃ疲れるよ? 知らない若い子もいるんだからさ、しばらくのんびりやりなよ」

「そうは行かない。なんだ、あのオフィスは。俺がいた頃はあんなにいい加減じゃなかったぞ」

「哲平さんいない間に中の配置を変えたんだよ。それで業者が配線もいじったんだ」

「だからだな? そんなの自分たちでやれよ」

「いろいろ忙しかったの!」

 いない時のことをあれこれ言ってもしょうがないし、そもそも自分が休職したのはみんなには想定外だったはずだ。

「迷惑……かけてたな」

「これから哲平さんにうんと迷惑かけるつもりだから。そん時よろしく!」


 夕飯まで世話になるわけには行かないと哲平は帰ろうとしたが、それを見越して真理恵は用意していた。

「食べてくれないと困っちゃから。その代わり茶碗洗ってってください」

「了解! ありがとな。でも真理恵、無理すんなよ。和愛は気が利かない子じゃない。でもやっぱ子どもだからさ、休憩しっかり取りながらにしてくれよ。買い物はラインくれ。真理恵になんかあったら華に申し訳が立たない」

「ありがとう。分かった、頼っちゃう! ご近所さん、よろしくね」


 和愛と手を握ってのんびり歩いて帰った。出社するまではまだゆとりがある。

「恵まれてるよなぁ」

 ぽつんと呟いた。

「そうだよね、ホント恵まれてる」

「お前、意味分かって言ってんのか?」

「分かるよ! 「じょむさん」ってどういう人? 父ちゃんより偉い人なんでしょ?」

「部長より偉いよ」

「そうなの!? ……いい人? おっかなくない?」

「厳しいけどな、すごくいい人だ。だからたくさん休んでる父ちゃんを待っててくれたんだ。みんないい人ばっかりだからさ、父ちゃんは一生懸命仕事して恩返ししたいんだよ」

「父ちゃん……」

「なんだ?」

「お願い、いっぱいは頑張らないで。いっぱい頑張っちゃいやだ……」

 もうすぐ家に着く。哲平は腰を下ろして和愛に背中を向けた。

「負んぶしてやる! 乗れ」

「もう大きいんだよ、私」

「商店街はもう閉まってる。だから誰も見ないよ。いいから父ちゃんの背中に乗れ」

 背中はあったかかった。

「父ちゃんの背中、大きいだろ?」

「うん」

「そこさ、何人でも乗っけて壊れないくらい鍛えてあるんだ。それにな、あそこには華おじちゃんもジェイも池沢のおっちゃんも真おじちゃんもいる。頑張り過ぎてないかってみんなが見張ってるんだよ。だから和愛は心配しなくていいんだ。学校の話、たくさん聞きたいから楽しめよ。嫌なことだってあるけど、楽しんだもん勝ちだ。辛かったり寂しかったらしまっとかないで父ちゃんに言うんだぞ。全部聞いてやる」

「ジェイくんも言ってた。そういうのを心に閉じ込めちゃだめだって」

「そうか……お前が大きくなったらジェイのことを話そうな。きっとお前のためにもなるよ」

 そうだ。いつかジェイのことを話そうと思う。いろんな目に遭って、それでもああやって素直に生き、知らぬ間に人を癒していくジェイを伝えたい。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る