おかしな私
宇田川 キャリー
#01
「ほんま、サンキュ。助かるわぁ」
1万円札を握り占めて、とびきりの笑顔で彼は言う。
私の恋人、
返ってこないとわかってる1万円、私達の間で何十回と繰り返されてきた言葉だけの儀式。
数えるのを辞めたのはいつだったか……。
「持ち合わせない時もあるんだから、早めにいってよ」
「すまん!
「いいよ。早く行きなよ」
彼は足早に去っていった。
私達の出会いは大学生時代だった。
学内を友達と歩いているときにいくつかの大学合同のお笑いサークルのイベントのチラシをもらった。そのチラシをくれた年下の男の子と仲良くなってそのイベントに行った時だった。
多分ほとんどが彼らの友人などの関係者であろう客で満席になり賑わっていた。
私はテレビでバラエティ番組を見る程度でしかなく、特にお笑いには興味なかった。面白ければ小さい声で笑ったが、たいていは周りにつられて笑っていた。
1組だけとても印象に残った他の大学から参加しているコンビがいた。サンパチマイクを挟んで左右でやり取りをしている、それの向かって右側が靖幸だった。
細身で背が高くて紺色のスーツを着たあっさり顔の彼はよく通る声のだいぶ東京にならされた関西弁で、舞台上でライトを浴びイキイキとして輝いていた。彼らの漫才が面白かったからなのか、その外見が好みだったのかわからないけど、何故か目が離せなかった。
イベントが終わり、私達にチラシをくれた男友達に誘われて打ち上げに行った。
そこで靖幸に話しかけられて番号を交換して顔見知りになった。
友達に誘われる度にイベントに行って靖幸のコンビのネタを観て、打ち上げで会話をするというのが2,3か月に1度ある程度だった。
それから大学を卒業して就職して間もない頃、仕事を終えた私は会社から駅まで歩いていると
「凜ちゃん!」
と軽快に呼び止められた。1年以上ぶりに会う靖幸だった。
彼は芸人になっていた。
私の務める会社と彼がよく出演している若手芸人の劇場が近かったから偶然の再会だった。
芸人とはいえまだメディアにも出たことはなく、若手中心の劇場で同じくらいのキャリアの人たちと競い合ってる状況だ。
嫌味のないさわやかな笑顔で「よかったら劇場来てよ」と言うので「もちろんだよ」と応えると数日後の自分達の出番のある日のチケットを2枚くれた。
「それ、自腹だからね。凜ちゃんだけやで」
「じゃぁ靖幸くん達のときはめっちゃ笑うね」
そしてその数日後、劇場に友達と行き約束通り少し贔屓目に笑い、その後彼と食事に行った。
大学の時以上に仲が良くなった私達は、頻繁に会うようになっていた。
靖幸のような劇場中心に活動している若手芸人は自分の出番の日のチケットを自分で売らなくてはならなくて ──いわゆる手売りの500円から1500円くらいのチケットをアタシは何度も買って協力した。一緒に食事に行くときは同級生だからという理由にして食事代を割り勘にしていたが、チケットを買ってくれるからという理由でたまに靖幸がご馳走してくれた。
私は少しでも名前のいい会社に入りたいだけの就職活動をして、第何希望かもわからないところに就職した。何か嫌なことがあったわけじゃないし、仕事がつまらないわけでもない。給料もそこそこよかったので不満はなかった。
だけどまだ青春真っただ中というような無邪気に夢を追いかけている靖幸が眩しかった。
彼は今はこんなネタに挑戦しているだとか、将来こうなりたいとか熱く語っていて、私はそれを聞いてるのが好きだった。
靖幸達のネタが面白いかどうかはわからなかったけど心から応援していた。
ある日靖幸がウチに遊びに来ることになり、その日がすべての始まりだった。
男女の関係になって彼はウチに泊まって、翌日私の出勤時間に合わせて帰って行った。
週に何回か来ていたので、歯ブラシや整髪料など靖幸のモノが少しづつ増えていく。
それを繰り返して1か月くらいたった頃、私は自分に合わせて彼を朝起こすのがかわいそうになって
「そのまま寝てていいよ」
と、帰る際にカギはポストに入れとくように言って仕事に出かけた。
仕事から帰るともちろん靖幸はもう仕事に出ていて、カギはポストに入れられている。
スウェットや着替えなどまた少しづつ靖幸のモノが私の部屋を侵食した。
そんな調子でまた1か月くらいたったある冬の寒い日だった。
私は仕事を終え自分のマンションの入り口にたどり着くと、道路わきの花壇に腰かけて寒そうにしている靖幸を見つけた。
ダウンジャケットのポケットに両手を突っ込んで背中を丸めながら私の方に歩んできて
「凜、帰ってくるの遅っ」
と、彼は震えながら少しふてくされた風に言った。
確かに今日は同僚と夕食に行ったのでいつもよりは3時間くらい遅かった。
「今日約束してたっけ?」
「いや、会いたかったから来ただけ。はよ入れて。」
私は靖幸の腕にしがみつき、ひんやりした体を寄せ合って自分の部屋へと階段を上がった。
「電話くれれば急いで帰ってきたのに」と言うと
「断られた嫌やし……」
と、私は断ったことないのに、かわいらしく彼は答えた。
真意はともかく、もう寒い中待たないで済むように私は彼に合カギを渡した。
そしていつの間にか部屋には靖幸のモノが溢れ、靖幸はどこへも帰らなくなった。
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