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学校の社会科資料室は、明るい陽差しで
資料室の隅に積まれている椅子の一つを日向に出し、腰掛けた膝の上に本を置く。大判の紙面に、小さな字が隙間無く詰められたそれは、百科事典だった。小和には少し難しい本だが、それでも、図説や、断片的に読めるところを手がかりに、読み進めていた。たくさんの知らないことが載っている本だ。小和は目を細めて字を辿る。
笹岡は、今日は授業で資料室にはいなかった。平日の手伝いでは、こういうこともよくある。お遣いがてらに整理を引き受け、しかし今の小和にできる分が終わってしまうと、あとは軽い掃除くらいしかやることがなくなった。以前は掃除が済むと中井に伝言を頼んで帰っていたのだが、最近は、この資料室の本を、時間の許す限り読んでから山を下りることにしている。
最初は、資料室の中でも比較的簡単な、尾羽の町の昔話を読んでいたのだが、途中で知らない言葉を見つけ、辞書を探しているうちに、この百科事典を見つけた。
煉瓦色の分厚い装丁、金箔で綴られた表題、スケッチだけでなく、写真もふんだんに使われた百科事典は、りくやおかみさんのところにはない、豪奢で膨大な、知識の塊だった。その濃厚さに魅了されて、小和はここしばらくはいつも、まずこの百科事典を読むことにしていた。多くを理解はできずとも、絵で補いながら文字を追うのは、りくのところでの読書を思い起こさせた。
傍らには読みかけの民話集と辞書、足下には
ふ、と。
日向に影が差す。雲が太陽を隠したのだと、小和が窓を見上げると同時に、中井のベルの音と、ざわざわとした囁きが耳に届いた。今までよりも大きなそれに、どうやら長い休憩に入ったらしいと悟る。生徒たちが教室から出てくる音がした。
もうお昼の時間かと、小和が読んでいた本を片づけていると、資料室の戸が開いた。笹岡が、脇に教材を抱えた姿で、顔を覗かせた。
「お疲れ様です、小和さん。もうお帰りですか? お昼は」
「お疲れ様です、先生。大丈夫です、お弁当を持ってきていますから、帰りの道中でいただこうかと」
小和が答えると、それなら、と笹岡が頬笑んだ。
「よろしければ、ここでお昼をご一緒しませんか」
教材を抱えているのとは反対の手で、笹岡はハンカチ包みを掲げる。
「あ、奥様の」
「ええ。お恥ずかしながら、愛妻弁当です」
弁当包みを掲げた手で、照れたように頬を掻く笹岡の、深くなった目尻の皺が黒縁眼鏡の奥に見えた。
笹岡は単身でこの尾羽に赴任しているが、月に一度、帝都に残した奥さんが、様子伺いにやってくる。さすがに山中の職員寮では不便なため、先日から尾羽の町に宿をとっていて、明日にはまた帝都に帰ってしまうことを、小和も知っていた。
「おかみさんからいただいた『
笹岡が、教材とともに抱えていたそれを、教員机に置きながら言う。小和の持ってきた茶菓子だった。『茶白』は、この時期に咲く白い茶の花を模した練り切りで、真ん中に大きな黄色い
笹岡は、教員用の椅子を机の奥から引っ張り出して、小和と同じように日向に置く。ハンカチ包みの中は、竹で編んだ行李弁当で、おにぎり、たくあん、卵焼き、それに、焼いた栗が入っていた。小和も、竹皮に包んだおにぎり二つを、膝に広げる。
「明日は僕もお休みですから、妻と二人で、帰る前に碧水屋に寄らせていただこうと思っています。毎月、あそこのお茶を帰る前にいただくのが、妻も習慣になっているみたいで」
「そんな風に言っていただいて、とても嬉しいです。心を込めて、おもてなしさせていただきます」
小和が居住まいを正して頭を下げると、笹岡もつられたように姿勢を正して、ありがとうございます、と頭を下げた。
笹岡が卵焼きを箸で摘まむ。
摘まんだまま、ふと思い出したように、言った。
「ところで、三角なんですけどね、」
「はい」
小和はおにぎりを口に運ぶ途中で手を止める。
「りくさんが、予防薬を処方している、と聞いたのですが。三角は、薬で予防ができる病なのですか?」
「あ、ええ。白い粉薬で、お湯に溶かして飲みます」
「それは里の方々みなさん?」
「いえ、元々あまり人には
「ふぅん、それじゃあ、季節風邪とはやっぱり違うのかな」
「――え?」
聞き返して、小和は、しまったと思った。
笹岡は、卵焼きを咀嚼しながら、小和の声など聞こえていない様子で、ぶつぶつと小さく呟き始める。
「三角は草木の病気と人の季節風邪が時期を同じくしていたために同根のものと思われたのかと考えていたんだが……予防できるとなると違うのか、いや、そもそも、人にはあまり罹らないんだった」
小和は、中途半端に浮いていた手を、下げた。
「罹りにくいけれど季節性のある病気、それとももっと別の病気がたまたま混同されたのか……中井さんにもう少し詳しく聞いてみようか」
――これは。
――これ以上を、多分、話してはいけない。
指先に当たっている米が、朝、自分で握ったはずのそれが、やけに冷たく感じた。
小和に視線を向けることなくぶつぶつと呟き続ける笹岡に、気付かれないように、小和はおにぎりを包みに片づけて、手早く風呂敷の中にしまって立ち上がる。
「すみません、先生、あの。そろそろ、お
小和がそう言って笹岡に頭を下げると、笹岡ははっとして、小和を見上げた。
「あ、すみません、ついまた考えにふけってしまって」
「いえ、あの、お昼の途中ですのに、すみません」
「いえいえ、もう食べ終わっていたのにお待たせしてしまって、申し訳ない」
笹岡の勘違いには胸が痛んだが、それでも、小和は笹岡に頭を下げて、そのまま資料室の扉へと向かった。
あ、でも、と何かを言いかけた笹岡を、申し訳ないけれど聞こえなかったふりをして、入り口の戸に手をかける。
引こうとして、その直前、扉はガラリと開いた。
「えっ」
「……あら」
扉を開けたのは、少女だった。
襟に白線の入った紺色のセーラー服。
同色のリボンに、黒のメリヤス、革の靴。
左右に編み下ろされた長い髪に、真っ白でなめらかな頬、黒目がちで切れ長の瞳が、小和を見てゆっくりと瞬いていた。
「もしかして、小和さん?」
その、
温めたミルクのようなまろい声が、紡がれた。
「え、」
「ああ、
遅かったですね、と、小和がろくに返事もできないうちに、笹岡が後ろから声をかける。小和の横に立って半身を向けると、お帰りになる前にご紹介しますね、と、手のひらで彼女を示した。
「こちら、舘川さん。以前からここの本を借りに来たいとおっしゃっていたんです。ここの生徒の中では唯一、僕の授業に興味のある人で」
初めまして、と、少女は頭を下げた。
「
す、と顔を上げて微笑む。
それはまるで、まっさらな雪の中に咲く、
何をどう返事して、資料室を出たのか。
ただ、焦燥感に追われるようにして、小和は枯れ色の山道を下っていた。
赤銅色や金茶に染まり、常緑の中にまだらに乱れてざわめく山の一本道を、足早に進みながら、小和は落ち着かない胸に手を当てる。
――あの学校の生徒と、直接顔を合わせたのは、初めてだった。
それは、小和が何となく避けていたことだった。女学校の生徒たちは、長期休暇の前以外、滅多には町に下りてこない。それが、上流家庭の子女としての振る舞いなのか、それとも別に理由があるのかは分からなかったが、小和は――否、恐らくは町の大人たちも――それに少し、安堵していたのだ。
町の外の人たちは、お山のことを、何も知らない。
それは、知らないというより、存在していないことなのだと、小和は気付いていた。
碧水屋の姉さんたちは、お山に薬師が住んでいることは知っていても、何故お山に住んでいるのかは知らない。お山のことを薬師に聞くのは、単にりくが山に住んでいるからだと、それだけのことだと、疑っていない。
まだ年若い町の名士の息子が、お山に学校を建てようと言い出したとき、町の古老たちはかなり渋ったことを、小和は知っていた。
けれど村人の数は年々減っていたし、学校を建てて外の人を誘うのは、お茶と養殖が産業の尾羽には利益になる。町の年寄りたちが何度もりくのところへ相談に来て――幼かった小和はその場には立ち会わなかったのだが――、最終的には、りくが「構いませんよ」と言ったことで、決まったのだった。
お山に学校が建つことによる、全てのことに、りくが「構いませんよ」と。
だから町の人たちは、決して学校の人を避けてはいない。
立ち寄れば丁寧に対応するし、笹岡のように熱心に通う人を心配して、世話もする。おかみさんにしたって、他の町の大人たちにしたって、小和に何かを言い含めるようなことは、一度だってなかった。
ただ、いつものように、器用な知らない振りを、続けているだけで。
けれど。
笹岡は、研究者だ。
小和は、町の大人たちほど器用ではない。おかみさんに誤魔化すときは、向こうも深くは聞いてこなかったし、姉さんたちに誤魔化すときは、おかみさんがそれとなく話題を逸らしてくれていた。笹岡に嘘をつくように言われなかったことは、小和にとっては、救いにもなったけれど。
でも、もっと。
もっと慎重に、話す内容を、選ばなければいけない。
笹岡の持つ研究書を、覚束ないながら読むのは楽しかった。その内容を、純粋に面白いと思ったことだってある。
でも、その度に。
そう、先ほど、笹岡が呟いたような話を聞くたびに。
何か大事なものを失ってしまいそうな。
そんな気が、していた。
だから、学校の生徒とだって、個人的に顔を合わせるのは避けていたのに――
――何者か。
冷たい風が、木の葉を揺らしている。薄ら寒い季節になってきていた。もうすぐ秋の茶会で、その頃には、お山は一年で一番装いを華やかにする。色を変え始めた楓や欅の葉が、ざわめきを小和の胸に落としていく。
――何者か。余所者か。
――余所者に話すか。ならぬ。お前は何者だ。
ぞくりと、悪寒がして、小和は立ち止まった。
背中を冷たい汗が伝い落ちていく。
ひゅ、と息を吸おうとして、胸を圧迫されるような重い空気に、喉が詰まった。
山の。
清冽なる、重く息苦しいほどの、濃い翠と湿った土の匂い。
「……りくの元で、世話になっていた者です」
喉を引き絞るようにして、小和は呟いた。
「お山のことは、りくの許可がない限り、話しません」
――約すか。
「お約束いたします。山深きところの方」
話しているうちに、視界はどんどん暗く、目眩がしてきていた。頭がぐらぐらする。まともに話せているか自信がない。汗を掻いているのに身体は震え、頭の芯はぼんやりと熱を持っていた。気分が悪い。吐き気がする。
ああ、まずい。
三角だ。
とうとう膝をついて、俯いて吐き気を紛らわせているうちに、小和は気を失った。
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