第15話 馬が駆けるほどの波に

 クラス分けテストはあまりできなかった。なぜなら会話中心の学習をしていたから、書くと言うことがほとんど出来なかった。喋れても、書けない、読めないという…。でも会話のテストなんてないので、私は初級クラスに入った。


 初級クラスではほとんど喋れない日本人が多かった。若い学生さんが夏の間だけ、ニースのように先生に連れられて来ていた。

 

 トゥーレーヌ学院はトゥール大学所属の語学学校で、先生たちは外国人にフランス語を教える資格を持っているプロだった。だから、今まで日本の語学学校とは全然違う。日本の語学学校の先生はただフランス人であると言うだけで、フランス語を教えてくれていたが、外国人にフランス語を教える資格を持っていると言うだけあって、ものすごくわかりやすかった。


 そして私はNHKフランス語講座を聞いていたので、当時の杉山理恵子先生が優秀で、声も可愛くて聞き取りやすく、脳内にいろんなことが残った。それが役に立ったことがあった。


「フランス語の女性名詞と、男性名詞ってどうやって判別つくか知ってる?」と聞かれた。


(おぉ。それ、知ってる。理恵子先生言ってた。単語の最後にEがつくと、ほぼ女性名詞。もちろん例外あり)


 自信満々の顔をしていたのだろう。私は当てられ、そしてかなりのドヤ顔で理恵子先生直伝の子答えを言った。もちろん正解だ。

 NHKフランス語講座、そして理恵子先生、本当にありがとうございます、とトゥールから感謝した。


 そんなこんなで初級クラスでは楽しく授業が送れた。授業はほぼ会話で、あまり文章を書くとか、読むとかしない。

 なので、会話できる私はフランス語できる! みたいな認識になり、後々、苦労することになった。


 日本人の学生も多く、そこで私は学習院大学フランス語学科卒業の環と出会う。もちろん環の方がクラスが上だが、私の方が年が上だ。(いや、なんの張り合い?)

 どうやって知り合ったのか実ははっきり覚えていないけれど、なんか可愛い子がいるなーと思って、声をかけたと思う。

 あ、思い出した。


 学校にお菓子の自販機があって、フランスのお菓子の自販機は必ずしも出てくるとは限らない。それは外国人だからと言うわけではなくて…(以下略)。

 お菓子がバネのようなものに挟まっていて、お金を入れると、押し出されるのだが、バネに引っかかって、落ちてこないことが割と頻繁に起こる。(CMでそれにキレちらかしていたフランス人と言うのをみたことがある)

 環もお金を入れたが、出てこなかった。引っかかっているのが見える。

 ここでできるのは

 1,諦める

 2,もう一回同じお菓子を買う。(そうするともう一度バネが伸びて、次こそは出てくるはずだ。二つ出てくることになるけど。もしかしたら運が悪ければ、次のお菓子も出てこないことも)


 思わず、その行く末を見学してしまった。彼女は2の選択をし、見事二つのお菓子をゲットしたが、少しも嬉しそうではなかった。


 そんなわけで彼女と少し話して、気が合う友人になった。

 環は英語も喋れて、フランス語もできるので、いろんなことを教えてもらった。一月だけいて、あとはロータリークラブの奨学金でノルマンディーの大学に一年行くらしい。


 そんな環との珍道中を話したいと思う。


 フランスのモンサンミシェルの遠足に参加した時だった。モンサンミッシェルの教会より名物のオムレツに心惹かれる二人組。それが私と環。ランチは自由時間だったので、有名なお店の前に挑むことにした。

 しかし予約なしでは入れないという。

 男前の男性受付にそう言われた。環はそこで諦めたが、私はなぜか諦めきれなかった。だってもう二度とモンサンミッシェルなんて来れないよ。いや来ようと思わない。(なぜに断言? しかしこの時かぎり、行ってない)


「このオムレツをめっちゃ食べたいんです」と私はフランス語でお願いした。

 渋い顔を一層渋くしたお兄さんはため息をついて、席に案内してくれた。


「え? いいの?」


「でも決まったコースだけだからね? アラカルトとか無理だからね」と言われた。


 フランスは扉を押すと開くことがある。


 そして美味しいスープの前菜に喜び、メインのオムレツがきた。ふわふわのフワッフワ。でも…塩辛かった。(あれ? なんか思ってたんと違う)多分、ワインとかに合うものだったかもしれない。

 でもデザートが本当に美味しくて、私と環は満足していたが、その時、すでに集合時間に十五分ほど遅れていた。


 慌てて集合場所に行くと、もうすでに教会内部に先生引率のもとみんなは入っていった。慌てて、その後にしれっと並んだが、フランスでは点呼を取らないから、自己責任で行動しなければいけない。

 モンサンミッシェルは満ち潮の時は海になって行けないが、引き潮の時は地続きで歩いていける。しかし海の満ち引きが早いので、命を落とす人もいたらしい。

 馬が駆けるような速さをまさか体験することになろうとはその時は思わず、「まぁ、死んでしまう人もいたなんて」と他人事のように思っていた。


 モンサンミッシェルを堪能した後はもう一つの近くの海べに行くというコースだった。サンマロだったか思い出せないが、すぐ近くだったはず。


 そこのケーキ屋でミルフィーユがあったが、ミルフィーユは通じなかった。ミルフィーユはパイが幾層にも重ねれたお菓子で、1000枚も葉っぱが重なっているような、つまり1000の葉っぱという名前だ。しかしながら1000はミルでいいのだが、葉っぱはフォイュになる。そして面倒なことにフィーユは娘さんという意味になるので、「千の娘ちょうだい」と言ってることになり、店の人の困惑振りが窺える。

「あ、そっか。ミルフォイュだ」と間違えたことによって、フランス語を覚えるきっかけになる。

 そういうわけで、日本でいまだに千の娘で通っているミルフィーユを見る度に「こんなに浸透してしまったものが訂正される日がくるのだろうか」と思わずにはいられない。


 そんなお菓子を買って、海べに向かった。はしゃいだ人たちは波打ち際をチャプチャプしていたが、私と環は砂浜にあった大きな岩(一メートル以上はあった)に登って、ぼんやりしていた。環が持参していたるるぶフランスを借りて熟読していた。波の音が心地いい。しばらく二人は無言で海を感じていた。


「ねぇ、綾ちゃん」

「ん?」

「ここ、海だった?」

「海?」

 岩の下を見ると、海だった。でもまだくるぶしまでの海だ。


「ねぇ、今なら間に合うかな?」と環が言う。

「行こう。今すぐ」

 岩の上で靴と靴下を脱いで、砂浜を目指すことにした。最初は歩いていたが、少しも水のラインが変わらないどころか

「ちょっと、深くなってない?」

「走ろー」

 慌てて走った。私たちの後ろにも人がいる。砂浜まで通り着くのに必死になる。海から必死で逃げる。モンサンミッシェルを目指して命を失った修道士の話が蘇る。

「待って、待って、まさかここで海に飲み込まれるとか」

「まさか、いや」

 砂場にいる人たちが呑気そうに笑っている。悔しい、と思いながら、必死で砂浜を目指す。ようやく辿り着いて、買っていたミネラルウォーターで足の海水を流した。


 振り返ってみると、私たちが座っていた大きな岩は見る見る間に海に飲まれていった。


「あそこに座ってたら…沈んでたね」

「帰って来れなかったね。環ありがとう」

 命の恩人、環と砂を払って靴を履いた。


 帰りのバスで各国の歌を歌うというリクリエーションがあって、日本人のノリのいい男の子が指名されて、歌ったのは「クマの子見ていたかくれんぼ〜お尻を出した子、一等賞」だった。なぜか他の国の人も盛り上がってくれた。


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