公爵令嬢は逃げ出すことにした
佐原香奈
メインストーリー
彼への恋心を自覚したのは、彼が妹へ恋をした時だった。
いつだって3人仲良く遊んでいた私たちの関係が変わったのはあの瞬間だ。
月1回の婚約者であるヘンリーとのお茶会は、最後は必ず妹と3人で鬼ごっこをして遊んだ。
「キャー!こっちに来ないでー!」
楽しそうな声がこだまする庭園で、鬼であるヘンリーの手がアリーの腕を掴む。
その時、腕を掴まれてアリーはバランスを崩した。
「イタタタ…大丈夫?アリー」
アリーの体の下敷きになったヘンリーが地面に手をついて上半身を起こす。
「ヘンリーごめんなさい」
倒れたヘンリーに抱きつくように倒れたアリーも顔を上げる。
2人の顔がくっついてしまうんじゃないかと思うくらいの距離だった。
駆け寄ろうとしていた私の足は止まる。
2人は暫く、その距離で見つめあっていたからだ。
見たことのある光景だと思った。
「大丈夫?」そう声が掛けられないほど、2人の間に今までと違う空気が流れていた。
「まぁまぁ!お二人とも大丈夫ですか?」
庭園の隅で眺めていた乳母が、2人の元に駆け寄った。
すると2人はそこでやっとその距離の近さに気づいたとばかりに顔を赤らめて距離を取る。
しかし、2人は何度も顔を赤らめたまま視線を交わしていた。
少し離れたところでたったまま、自分は全く同じ人生の二度目にいるのだという自覚を持った。
その光景は紛れもなく、過去の私も見ていたからだ。
あぁ、見てはいけないものを見てしまった。
そう思う自分の他に、醜く光る感情を押さえつける自分がいた。
記憶の通りに、その日を境にアリーのために始めた鬼ごっこはすることはなくなった。
「エリー、そろそろアリーも呼ぼうか?」
月一度のお茶会は、2人の交流を深める為のものだったが、ヘンリーはいつもお茶を一杯飲み終わると、アリーを呼んだ。
私のお茶はまだ並々と残っている。
「私よりもアリーとお茶を飲みたいようね」
もう6年もこんなことを続けていると、たまには本音が口に出てしまうこともあった。
ヘンリーがアリーの名前を口にした途端、今日もダメだったかと負けを認めることになる。
「そ、そうじゃないよ!君の妹じゃないか」
ヘンリーはいつも私を優先するふりをするけど、最後は結局アリーのこと気に掛けていた。
「そう、婚約者の妹なのよ。アリーは」
こんなにも簡単に口に出せてしまえるのなら、もっと早くに言っていればよかった。
そうすればこの地獄のようなお茶会も参加しなくてもいい。
好きな男が他の女を大切にしているところを見るのなんて今日限りだ。
「当たり前じゃないか。嫉妬しているの?エリー」
嫉妬なんて言葉、正しくない。
これは諦めだ。
「私はこれで失礼するわ。アリーとどうぞお楽しみください。これからも永遠に」
つい先ほどまで柔らかく微笑んでいたはずの自分の顔は、もうピクリとも動かなかった。
婚約は破棄してもらおう。
そう思って席を立った。
「お姉様ーーー!ヘンリーー!」
無邪気な笑顔で帽子を押さえながら手を振るアリーを、眩しいと思った。
公爵家に生まれながら純真さを忘れないその振る舞いは惹かれるものがあるのはわかる。
でもその笑顔は、決して社交界で通用する類のものではない。
「あらアリー、ヘンリーがお待ち兼ねよ」
「え?お姉様、戻られるの?」
心底不思議だという顔で見上げる妹が可愛くないわけではない。
しかし、空気を読めない妹に疲れているのも事実だった。
「えぇ。ヘンリーは貴女とお茶を飲みたいみたいだから」
「そ、そんなこと言ってない!ちょっとエリー!?」
「もうヘンリー、私にそんなに会いたかったの?ふふふふっ可笑しい!」
婚約者の不在のお茶会が始まる。
屋敷のドアを閉める前に、ふっと庭園に目を向けた。
そこには顔を真っ赤にした婚約者がクシャリと笑っていた。
「お父様、私の婚約を解消していただきたいのですが」
その日のディナーの席で、私は父を真っ直ぐ見据えた。
「急にどうしたんだ」
急に、などとどの口が言っているのだろう。
これまで幾度となくアリーとヘンリーについては進言してきた。
これはこの6年間だけではない。
私の命は6年前に25歳にして一度終わった。
公爵家の後継者としてヘンリーと結婚した私に待ち構えているのは地獄だ。
アリーは私の母であるナンシー亡き後、公爵が連れてきた後妻との子供だ。
私と2歳しか変わらない妹は、今でも世の中の恰好の話題となっている。
後継者としての教育を私に叩き込む一方で、アリーは両親に甘やかされ、公爵令嬢と名乗るのも恥ずかしい出来栄えで、お茶会に呼ばれなくなることも多い。
その上、学園に入学してからは、学年も違うヘンリーと一緒にいることが多く、婚約者だったのは妹の方だったかしら?と笑われる始末だ。
「急だなんてまさか」
つい本音が口からこぼれた。いや、こぼれさせたのかもしれない。
「アリーが可愛いのなら、アリーを後継者として家に残せばいいでしょう。これ以上利益のある縁談はないというのなら、ヘンリーはアリーと婚約させればいい。簡単なことでしょう」
そう、簡単なことなのだ。
この先の未来、娘可愛さに縁談を断り続ける両親と、妻の妹に懸想し続ける夫に軽んじられるのも、今なら簡単に抜け出せるのだ。
「お姉様、もしかして他に好きな人でも出来て我儘を言ってらっしゃるの?」
「そうなのか?」
「まさか、これが私の我儘だと?公爵家の名誉のための提案ですわ。躾のなっていない妹の後始末を、婚約解消でしようと、そう言っているのです」
やんややんやとうるさく怒り始めた父を横目に、エリーは席を立った。
「まだ話は終わっていないぞ!」
「優秀な後継者が欲しければ、アリーを教育しなさい。私は家を出るわ。さようなら、除籍の手続きは適当にしてくださいませ」
あぁ、やっとこの吐き気がしそうな屋敷から去れる。
そう思うと足に羽が生えたかのようだ。
領地の仕事をさせるためだけに後継者として飼い続けられる日々を思い出して笑いが込み上げる。
全てこれから起こるはずだった未来だ。
恋焦がれ、自分を見てほしいと必死に努力してきた日々は未だに胸を突くが、ようやく自分を解放してあげられる。
自分で腕を抱き締めると、エリーはそのまま門をくぐった。
公爵家の馬車は使わなかった。
辻馬車で学園に寄ったエリーは、ロッカーの中に入れておいた宝石達を取り出す。
25歳で死んだ前世ではアリーに渡ってしまった母の遺品達だ。
「お母様、私…幸せになってもいいですよね?」
しんみりしてしまったが、今は急がなければならない。
ロッカーの奥深くに仕舞い込んだ服に着替え、重いドレスをロッカーに押し込む。
「この学園も二度と来たくないわ」
アリーとヘンリーが2人で座っていたベンチを窓から眺めてため息をついた。
それでもしつこくヘンリーを想っていた気持ちが込み上げてくる。
今もなお、彼を愛しているというのだろうか。
そうだとしたらなんて馬鹿らしいことだろう。
そう思うのに胸の痛みだけはなくなってくれなかった。
「どこかへ逃げ出そうとでもしそうな格好だな」
窓から外を見ていたエリーは飛び上がるほど驚いて後ろを振り返った。
「言っておくけど、先にここにいたのは俺だからな。急に入ってきて着替え始めたのがお前だ」
信じられない。この服に着替えるのにコルセットも外していたのに、それを全部見られたというの?
「こんな時間にどうして…」
教師すら帰るこの時間に校舎の中に入れたのは、生垣の隙間と教科準備室の窓の鍵が壊れていることを知っていたからだ。
この夜中に校舎の中に人がいるなんて思いもしなかった。
「いや、たまに寝過ごして取り残されることがあるんだよ。さっきまでそこの長椅子で寝ていたんだ。物音がして起きたらまさかのストリップが始まるから夢かと思ったぜ」
月明かりの中でぼんやりと笑っているのが確認できた。
「マーティン殿下、どうか見逃してくださいませ」
「見逃す?もう見てしまった後だが?」
「それはもう忘れてください!」
この人はいつもそうだ。真面目な返答がきたことなんてない。いつも揶揄ってくる。
誰に対してもおちゃらけていて、信用ができない。
「エリザベス、こんな遅くにどこに行くつもりだ?」
ひどく真剣な声にハッとして殿下を見ると、すぐに見上げるほど近くにいることに気がついた。
「わ、私もう時間がありません。これで失礼します」
「待て」
このままではあの家に帰らなくてはいけないかもしれない。
逃げるのは今しかないのに。
そう思って殿下の横を通り過ぎようとしたが、腕を掴まれてしまう。
「どこかへ行くんだろう。俺も一緒に行こう」
彼はそう言うと、私の手から小さな鞄を取り上げ、片腕で私の腰に手を回して持ち上げる。
「ちょっと!殿下!」
「いいじゃないか。夜は男と一緒の方が安全だろう」
暴れてバタバタと手足が体にあたっても、彼はビクともしなかった。
「お前の行きたいところはどこだ?」
「下ろしてください!」
肩に担がれたエリーは、なす術なくポカリと彼の腰を殴る。
「しょうがない。ほら、右と左、どっちに行きたい?」
地面に下ろされたが、バッグは取られたままで手を握られて逃げることは叶わなかった。
「殿下はそろそろ帰られないと大変な騒ぎになるのでは?」
一国の王子が帰らないとなればどれだけの騒ぎになるだろうか。
今でも騎士の1人もつけず、街を歩いているなんて警備体制を疑うほどだ。
「そうだな。なら一緒に俺の国に帰るか」
彼は二つ隣の国の第三王子だ。
いくつかの国で遊学して国に帰る予定だと聞いたことがある。
聞いたことがある程度で、深い面識があるわけではない。
ただ、公爵令嬢という身分故に、何度かパーティで挨拶したことがある程度だった。
「お前が望むなら別の国でもいい。お前の行きたいところ、どこへでも連れて行ってやれるぞ」
「どうしてそんなことを?」
「ん?どこかへ逃げるんじゃないのか?」
私の目的を正しく理解している。
夜中に平民のようなワンピース一枚に着替えていたら当たり前か。
「まずいな、あれは君の追手だろう」
そう言って私の手を掴んだまま、彼は走り出した。
心底楽しそうに笑いながら、途中で私を抱き上げて、まるで物のように担ぎながらも、どこへ行くかと話し続けた。
誰も私を助けてくれる人なんていないと思っていた。
どれほど辛くても、誰も助けてくれなかったから。
逃げ出したいと思いながらもただそこにいて、苦痛の日々が過ぎ去るのを願っていた。
「あなたが私を抱き上げた時、私は救い出されたの」
「君が自分の足で飛び出してきたんじゃないか」
彼の胸はいつだって温かい。
じんわりと肌に温度が伝わるのがとても心地いい。
一度目の人生は、ヘンリーは私に気を使うふりをして初夜にも訪れなかった。
夫婦の寝室に訪れることは一度もなく、私もその扉を開くことは無くなっていた。
夜、どこにいたのかは屋敷の者はみんな知っていただろう。
私の最後の記憶である25歳の冬、アリーは子供を産んだ。
心底嬉しそうに涙する家族に、私は含まれていなかった。
「表向きはお前の子供だ。大切にしなさい」そう言われた私はその夜、一度目の人生を終えた。
ただの公爵令嬢になす術はなかった。
二度目の人生もまた、蔑ろにされる日々だった。
それが今ではマーティン殿下の腕の中で眠る初夜を迎えている。
「エリザベス、明日はどこへ行こうか」
「あなたはいつから私をエリザベスと呼ぶようになったのだった?」
「君がドレスを脱ぎ捨てた時からだったかな」
「ふふっ。明日はどこにも行かず、あなたとずっとこうしていたいわ」
マーティンの腕の中で胸の音を聞いていると、自分が生きているのだと感じられた。
彼の温もりが、氷のように冷えた心を本当に少しずつ少しずつ溶かしていったのだ。
彼が私を救い出した。
いいえ、私も自分を救い出したのだ。
彼の従者に紛れ込みながら国を出て、いろんな国で語学を学びながら、最後は彼の国で私は亡命貴族の1人として彼の国に籍を置いた。
そして今日、私は再び公爵家の一員となった。
公爵令嬢ではなく、公爵夫人として私は生きていく。
25歳の冬を過ぎ、春を迎えていた。
「マーティン、私…生きているわ。明日も、明後日も、あなたと」
アリー、あなたもきっと幸せなのでしょうね。
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