第17話 そのころの九鬼家

 望月にそう答えて森山は受話器の向こうで内心舌を出した。

 すでに初音は解放どころか、最初から捕らえられてすらいない。

 アジトは弥助たちに占拠され、これまでの後ろ暗い工作の証拠まで全て押さえられてしまった。

 そのなかには、弥助を鬼山家の血を引いていないと証言させるために、帝国医大の医師に証言を強要したものも含まれており、それだけで鬼山家の当主の座が弥助に返還されるのは確実であった。

 あらゆる意味で鬼山魁は終わってしまったといってよい。

「こんな感じでよろしかったでしょうか? お坊っちゃま」

「貴方が言うと不愉快だから止めなさい」

「わかりました弥助様」

 媚びるように手を揉んで笑顔を浮かべた森山に、葉月は心底不愉快そうに絶対零度の視線をむける。

 しかしそんなことは全く意にも介していない森山の変わり身も、ある意味非常に力関係的にわかりやすいと言えなくもない。

 だから葉月も森山を引き入れることに表立って反対できないのだろう。

「御爺様は大丈夫でしょうか?」

「兼光の偽物ができるまで殺すわけにはいかないしね。今すぐ助けに行ってもいいんだけど、選定の儀は成立してもらわないと困るらしいから……ごめんね?」

「いいえ! 私は弥助さんを信じていますから……!」

 一見して明らかなほど恋する乙女の貌(かお)で、初音はあっさりと納得してしまう。

 初音に対しては少々思うところもあるが、さすがにそのチョロさはどうなのかと思ってしまう葉月であった。

 女学校生であり男との接触を避けて育てられた初音にとって、初恋の衝撃はそれほど大きかったというところであろうか。

 家格も、九鬼家には大きく劣るが、天目一族連枝に鍛冶主の孫であれば、なんとか釣り合わぬというわけでもない。

「ふう…………」

 ため息とともに葉月は瞳を閉じた。

 これ以上考えてはいけない。これは最初から覚悟していたことだ。

 ヒノモトに帰還し、弥助が鬼山家正統の主となれば、葉月の霧島家程度では到底釣り合わないことなど。

 もっとも、四鬼家をはじめ名門の当主には愛人がつきものなので、弥助が望むなら葉月としてもそれを拒む理由は…………。

「どうしたの葉月姉?」

「ひゃいっ?」

 少々危険な妄想に入りこんでいた葉月は、耳元で聞こえた弥助の声に文字通り飛びあがった。

 昨年ごろから声変わりをした弥助の声は低くて甘い。

 じんじんという甘い痺れを耳元に感じて、絶対に将来弥助は女泣かせになると葉月は確信していた。

 背を抜かされた当たりから、からかわれている感というか、乙女心をくすぐられる感というのが半端なかった。 

 弥助自身には女性経験はないはずなので、おそらくは前世での弥助が体験した手練手管というものなのだろう。

 やばい男にやばい武器を与えてしまったのではないか?

 葉月の懸念は正直なところかなり当たっていたといえるだろう。

 なんといっても仏生寺弥助は吉原の遊郭でそれなりに名を馳せた男であったし、幕末といえば新選組局長近藤勇は八人の妾を囲っていたと言われていて、初代総理大臣伊藤博文にいたっては二十九人の愛人がいたという。

 博文行くところ女あり、と噂され明治天皇に叱責されたのは有名な話だ。何の臆面もなく、「隠れてやるよりましでしょう」と答えた博文も博文だが。(しかも女遊びがすぎて破産している。家を失った博文を野宿させるわけにはいかないと建てられたのが今の首相官邸)

 その倫理観を弥助が受け継いでいるとすれば由々しき事態である。

「顔が赤いよ?」

「だだ、大丈夫です! 顔が近いです! 弥助坊っちゃま!」

 至近距離の弥助の唇を見て、葉月の脳裏にダンプ諸島の最後の一夜で弥助から奪ったファーストキスの情景が浮かんだ。

 耳を真っ赤に染めたこの初々しい葉月の反応を見て、初音もまた葉月の秘めた想いに気づいた。

「弥助さん、この後はどうなさいますの?」

 弥助と葉月の甘い空気に割り込むようにして、初音は弥助の袖口を引いた。

 ちょうど背の高さが同じくらいのせいか、袖口を引いたはずみで弥助の整った顔がすぐそばに近づいてしまう。

 危うく唇と唇が触れてしまいそうな気がして、むしろ逆に好機かもしれないと思ったが、当然のように初音の思惑は葉月によって阻止されていた。

「いい加減連絡しないと九鬼様が痺れを切らしますよ?」

「ああっ! いかん! 急いで連絡しなくては!」

 口元だけで笑みをつくって見つめあう初音と葉月をよそに、弥助とそれ以上に剛三が大いに慌てた。

 四鬼家の筆頭格であり、統合参謀総長として軍部の頂点に君臨する正宗は、剛三にとってかつての上司百目鬼将暉以上に苦手な相手であった。

 慌てて剛三は正宗の屋敷に連絡を入れるが、すでにそのころには夕闇が近づいていた。



 九鬼家は神田明神にほど近い区画に、六百坪以上の土地と大きな明治以来の屋敷を所有していた。

 その九鬼家に時ならぬ騒動が持ち上がっていた。

 来るはずの賓客――弥助たちが待てど暮らせど一向に姿を現さないのである。

「全く、連絡が取れんと聞いたときには焦ったぞ」

 弥助という存在は、後日天子の前で選定の儀を暴くためになくてならない切り札である。

 よもや鬼山魁に先手を打たれたか、と真剣に対応を検討したほどであった。

 といっても、その可能性はかなり低いとも考えていた。

 正宗が本気で焦っていたのはまた別の事情がある。というより現在進行形で頭を抱えていた。

「まさかこんなことになろうとは…………」

 客間の方から不吉な呪文が流れ出ている。

「弥助様弥助様弥助様弥助様弥助様弥助様弥助様弥助様弥助様弥助様弥助様弥助様弥助様弥助様弥助様弥助様弥助様弥助様弥助様弥助様弥助様弥助様弥助様」

「おい、あの焦点が合わない目で呪文を呟いている娘は誰だ?」

 それが可愛い孫の芙蓉であることはわかっていたが、正宗は尋ねずにはいられなかった。

 これには父親である達敏と母親である彩音も、苦笑いを浮かべつつ必死に視線を逸らすしかない。

 彼らも自分の娘にこんな闇が潜んでいるとは思わなかったのである。

「私は綺麗に綺麗に綺麗に綺麗にして弥助様をお待ちしております。お待ちしております。お待ちしております。いつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでも」

「ひいいいいいいいいいいいいっ!」

 幼いころは男勝りで、名門の淑女としてどうなのか心配したことはあったが、弥助と出会ったせいか可愛らしく楚々とした美少女に成長したと思っていた。

 こうした闇のオーラを全身から煙るように発散するなど、思いもよらぬことであったのである。

「ふ、芙蓉や。少し休んではどうかな? あまり根を詰めると身体によくないぞい」

「弥助様はどうしておいでなさらないのですか? 御爺様」

「う、うむ……何か問題が起こったのだとは思うが」

「では芙蓉も待ちます。いつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでも」

(あかん)

 ――――そのときであった。

「正宗様! 霧島剛三様よりお電話が!」

「おおっ! 来たか!」

 このときほど正宗は救われたと思ったことはない。

 護国の鬼として、参謀本部総長として、敵にも味方にも恐れられる正宗だが、可愛い孫の前には無力な老人にすぎなかった。

「…………俺だ。いったい何があった?」

 電話口の剛三は明らかに正宗の機嫌が悪いことを知り、冷や汗が剛三のこめかみをたらり、と伝う。

「少々面倒ごとに巻き込まれまして、魁の野郎、血迷って天目一族に手を出しやがりました」

「なんだとおおおおっ!」

 正宗ともあろうものが、驚愕に絶叫した。

 天目一族は帝国四鬼とほぼ同格。

 一族の長である天目象山は枢密院議長でもあり、天子の信頼はおそらく正宗よりも強いであろう。

 その一族を敵に回そうと言う阿呆がいるとは想像の埒外であったのである。

 下手をすれば軍部の大失態として追及されてもおかしくない。

 どこまでも愚劣で卑怯で迷惑な男だった。

「すんでのところで人質の御令嬢は救出しました。鍛冶主の天戸芳崖殿は捕らわれているようですが……おおかたは選定の儀絡みです。まだしばらくは大丈夫でしょう」

「そうか……だが、万が一ということもある」

「いえ、まずは選定の儀を成立させることが必要です。芳崖殿が対竜神具を完成させるまでは放置しておかないと将暉が、いえ、百目鬼中将が困ると思いまして」

「それは…………そうだな」

 選定の儀で鬼山魁の虚偽を暴くのは既定路線、ということはここで芳崖を解放してしまうとその後の魁の出方が読めなくなる。

 万が一、素直に嘘を認め天子の慈悲にすがるようなことがあると、失脚することは避けられぬまでも鬼山家という禍根の根が残ることにもなりかねなかった。

 正宗としては、この機会に鬼山家にすり寄る派閥を根こそぎ掃除したいのだ。

 そのためには予定通りに選定の儀が執り行われる必要があった。

 すなわち、鬼山魁には女郎兼光に匹敵する偽物がきちんと完成したと思わせなくてはならなかった。

「ならば……どうする?」

「怪我の功名といいますか……魁の手先の一人がこちらに寝返りましてね。奴らに気づかれないよう天戸芳崖殿は救出する予定です」

「おいおい、信用できるのか?」

「弥助が言うには、勝ち馬に忠実であるという点では信用できる、と」

 負けるとなれば裏切る。しかし常に勝つ側にいるかぎりは忠実に役割を果たす。そうした人材を正宗は心得ていた。

 困難な時にふんばってくれるのが本当に信用のできる人間だが、そうした人間はむしろ少ないのである。

 参謀本部総長ともなれば、そうした人材を活用し清濁併せ呑むことも求められるものだ。

「そんなわけで、奴らの動向を監視する必要がありまして。今日のところはここで、奴らのアジトなんですが待機するつもりです。明日には救出に向かわなくてはなりませんので」

「こちらからも兵を出すか?」

「あまり動くのはいかがなものか、と。現状、私たちが国内にいるのはお三方以外はご存知ないわけでして。私たちが動くのが最善でしょう」

 本来弥助や葉月はヒノモトにいるはずのない人間である。剛三もまた、書類上はダンプ諸島に今もいることになっている。

 下手に兵を動かすより、彼らを動かしたほうが機密は保たれることはすぐに正宗にもわかった。

「せっかく帰ってきたばかりなのに苦労をかけるな」

「めぐり合わせなのでしょう。さすが竜を殺した男、天運を持っています」

「確かにな」

 帰国したその足で、天戸芳崖の孫、初音誘拐の現場に遭遇する確率など天文学的なほど気の遠い数字であろう。

 だがそれにめぐり合ってしまうのが時代の風雲児、天運の持ち主というものだ。

 時代が大きく動くとき、そうしたカリスマが現われることを正宗は歴史に学んでいる。

「くれぐれも無理をしないように頼むぞ。特に弥助君は我らの切り札であり、希望の星なのだからな」

「万難を排して――といいたいところですが、心配するまでもなく弥助君を倒せる男などいませんよ。竜殺しの名は伊達ではありません」

「強いことは倒されぬことと同義ではないぞ。だからこそあの多聞も死ななくてはならなかったのだ」

 弥助という強い光に惑わされてはならない。

 正宗の言葉は、快刀乱麻の弥助にすっかり頼ってしまっていた剛三の精神に活を入れた。

 いかに強かろうと、いまだ十四歳の少年にすぎない弥助を守ることこそが大人の、仮初とはいえ家族の絆を紡いだ人間の義務であるはずだった。

「わが身の不明を恥じるばかりです」

「いや、貴様がそう思ってしまうほどの光を持って生まれた少年ということであろう。すでに百目鬼は百目鬼で動いておろうが、報告は絶やすなよ?」

「お任せください」

 そう言って電話を切った正宗は不意に背後に冷気を感じた。

「御爺様?」

「ふふふふふ、芙蓉! 御爺の電話を立ち聞きしてはいけませんと言っているだろう!」

「弥助様のことですわね?」

「…………それなのだが、今日はやむを得ぬ事情があって来れぬそうだ。何、またすぐに来てくれるじゃろう」

「弥助様の身に危険が及ぶと推察しましたが」

「これこれ、お前が心配することではないぞ。弥助を信じるなら黙って待ちなさい」

「いいえ! 弥助様に万一のことあらば私も生きてはおれません! 弥助様、待っていてください! 今から貴方の芙蓉が御傍に!」

「こ、こらっ! 早く芙蓉を止めよ! そもそもどこに行けばよいのかわかるまい!」

「きっと神様が導いてくれます!」

「思いこみが強いのはいったい誰に似たのだ…………」

「御婆様では?」

「ぐむぅ」

 三年前に亡くした正宗の妻、美唯は八歳にして正宗を見初め、見事に正宗の妻の座を射止めた。力づくで強行突破したともいう。

 あれよあれよという間に外堀を埋められ、まんまと心までも盗まれた青春の日々を思い出して、正宗はぞっと背筋を凍らせた。

(弥助、すまんが俺には止められんかもしれん……)

 亡き妻にはすまないが、あの女の執念から逃れられる気が全くしなかった。

 とはいえ、さすがに今回ばかりは黙認することはできない。

 書生たちに自室へと引きずられていきながら、芙蓉は最後の抵抗とばかりに絶叫する。

「御爺様なんて大嫌い!!!!!!」

「のおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」

 武力でも権力でも、ヒノモト屈指の力を持つ正宗でも、孫の大嫌いの前には無力な老人の一人でしかないのであった。

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