39 アントジアント

 カミーユは、ぞわりと髪が逆立つのを感じた。

 大蟻の触覚がせわしなく動き、何でも挟めそうな大あごはカチカチと音を立てている。

 どこを見ているかわからない眼はすべてが見えているようで、慎重に取り囲もうとしている探索者を振り返っては、ガチンと齧ろうとする。その動きは巨体のくせに素早い。


「ひっ! なにアレ、なにアレーーーっ!」


 出て来た瞬間は唖然としたが、カミーユは飛び降りられるように体勢を整えた。

 すぐに逃げられるようにしなければ。


「アントジアント、でかい蟻っす」


 いつの間にかカミーユの近くに戻ってきていたジャックから、いつも通りの、のほほんとした声が返ってきた。


「蟻はわかる。蟻はわかるけど、でかいにも程があるっ! ど、どうするのっ。逃げても追いつかれる……?」

「大丈夫です。でかいだけです。偵察隊だけのようだし、落ち着いて」

「アレに慣れてない者は下がるよう言われましたが、そうしてもいいぐらい十分に人手がありますから」


 ジャックとともに、バートとジーンも下がってきている。

 三人とも普段と全く変わらない。声に焦りも恐怖も滲んではいない。

 他にも若手の探索者たちがカミーユの近くまで下がって来ているが、皆、落ち着いている。剣や槍を手にしたまま、アントジアントから目を離さずに警戒している。


 その様子にカミーユも少しほっとして、前方を見据えた。


 蟻は全部で四匹。

 絶対逃がすなよ。そっちだ。と、声を掛け合い、皆が蟻の周りを大きく囲んだ。


「この辺りで見るのは珍しいっすね」

「ははっ。マルモッタだけじゃなくて、アントジアントも呼べたんかあ」

「すっげえ甘かったもんなあ」

「そりゃあ気になって偵察にも来るか!」


 探索者たちの声は笑っているが、カミーユはピタリと固まった。

 前回のようなことが怒らないよう、激甘に作った魔獣寄せだったが、今回も何か依頼からズレていたのかもしれない。

 調香のとき、蟻のことは考えもしなかった。もし思い浮かんでも、気にもしなかっただろう。

 あんなモノを誰が想像できるだろうか。


 ここはアルタシルヴァ。確かにカミーユの知らない魔の森だった。

 

「……ごめんなさい。香りが甘すぎたんですね」


 探索者たちが慌てた。


「いやいや、問題ねえよ。あの数ならかえってありがてえし」

「そうそう。いい素材なんだ。鍛冶屋が喜ぶ」

「うんうん。マルモッタも多く呼んだし、目的は達成してる」

「偵察隊を逃がすと、数十匹連れて戻るっすよ。でもあれさえ仕留めれば平気っす」


 ジャックに言われて、カミーユは戦闘の続く方を見た。

 蟻を囲み、足を落とそうと切りかかっているのだが、その度にキーン、チン、といった高い音が響く。


「なんか硬質な音ですね」

「硬くて厄介なんです。だから脚の関節部分、細くなったとこを狙うんですけど、うまく入らないとダメで」


 ジーンが戦闘から目を離さないままに答えた。


「でも硬いぶん、いい素材なんっすけどね。あっ、よっしゃー!」

「いいぞ! アルバンさん!」


 アルバンが前足が切り落とし、一匹の身体が左にガクンと傾く。

 その大蟻の向こうに、剣を構え、蟻を睨むフィンの顔が見えた。


「えっ」


 カミーユは慌てた。

 そう言えば彼は下がって来ていない。薬術師があんな最前線で何をしているのか。


 その手の剣が赤く輝き、フィンが踏み出した。

 赤い線を描いた剣は、蟻の本体で大きな音を立てながら振り抜かれる。

 アントジアントの首が揺れて傾き、ゴトンと落ちた。


「一撃だ! すげえっ!」

「うおぉ! フィン先生やった!」


 頭を失ってつぶれた蟻に、カミーユの周りで探索者たちが騒ぐ。


「いい剣だなあ。アントジアントを一撃かあ」

「それこそアントジアントの粉でも加えてあるんじゃね?」

「あれ、火魔石入りか?」

「いや、直に魔力を流してるって聞いたことあるっすよ」

「薬術師……」


 カミーユがポツリと漏らした言葉に、ジャックがくすりと笑った。


「フィン先生は、戦う薬術師っす」

「探索もできる。薬術もできる。どっちも腕利きだ」

「うんうん。シルヴァンヴィルの薬術師だからな。ああでなくちゃ」


 盛り上がる探索者たちの横で、カミーユは調香術師にも戦うすべが必要か、しばし考えた。




「あーっ! くそっ! 登りやがった」

 

 はっと見れば、最後の一匹が木をスルスルと登っていく。

 剣は既に届かず、槍を伸ばせば、アントジアントは幹の反対側へ動いて、更に上へと昇った。

 探索者たちがガンガンと幹を叩くが、もう届かない。


 全員が木を取り巻くわけではなく、探索者が何名か下がってきた。

 その中にフィンとアルバンもいる。


「しばらく降りてこねえんじゃねえか?」

「一匹なら逃しても……」

「あー、ダメダメ。こんな森の浅いとこまで大群に来られちまう。見張るしかねえな」

「……下がれっ!」


 突然一人が大声を上げた。


 幹の陰からアントジアントが尻を突き出している。


「逃げろっ」


 木を取り囲んでいた探索者が慌てて逃げだす。

 大蟻はムズムズと尻を震わせると、探索者たちにビュッと液体を飛ばした。


「うおっ!」

「大丈夫かっ! かかった奴はいるかっ!」

「避けた、避けた」


 近づくなというように、更に数回。

カミーユの鼻にも、ツンとした、でもかすかに甘い香りが届いた。

 本体は幹の裏に隠れたままで、器用なことである。


「まずいな。早く仕留めないと。あまり飛ばされると仲間が嗅ぎつける」

「フィン先生に丸ごと焼いてもらえば? 今日湿っぽいし」

「うーん。万が一燃え広がったらなあ。見張ってなんとかするしか……」


 うおっという声とともに、少し前にいた探索者たちが両側にパッと割れた。

 その跡地にバサバサと枝が落ちる。

 飛ばしたのはアントジアント。あの大あごなら納得だ。


「ほんっとに器用」


 カミーユはじっと木の方を見つめて、早口で聞いた。


「アレは魔獣ですけど、生態は小さな蟻みたいなものですか?」


 アルバンがカミーユの質問に答えを返した。


「似ていると思うぞ。巣穴に住み、雑食で、なんでも食う。まあ、好むのは蜜や肉だと思うが。それ以外のことは、実はあまりよくわかってねえ」

「それならイケるかも。混乱させましょう。そしたら落ちるかもしれないし、落ちなくてもチャンスになるかもしれませんし」

「混乱?」


 カミーユは頷いた。


「ローザ畑では害虫に酢を使うんです。蟻は退治できないけど、グルグル、フラフラしてたから嫌いな香りのはずです。蟻の出す匂いも消えますし。えーと、お酢はないけどベルガモータはあるし、確かリモーナの香料も……」


 伝えながら、急いで鞄のふたを開けた。

 ローザにジャスミナ、リモーナ、ミンツ、ヴァニラなど、カミーユの鞄にはいつでも数種類の香料や調香済みの香水が必ず入っている。

 

「あ、俺、酢を持ってますよ」


 ジーンが自分の腰に下げた袋に手を突っ込みながら、声をかけた。


「でも、量はないけど……」


 小さな陶器の容器だ。


「いえ、助かります。少しでもあれば、私が楽できます。水よ、玉となり留まれ。『ウォータードロップ水滴』」


 容器の栓を開ければ、濃いピンク色をした酢の玉が、カミーユの目の前に浮かんだ。

 片手をかざせば、その手の通りに動く。


「え、ピンク?」


 そこにいた皆の目が、ジーンに向かった。


「……今日の昼はローストビーフなんだ」

「なるほど?」


 うまいのか、パン屋のか、俺にも味見させろといった周囲の音を気にせずに、カミーユは続ける。


「『アナライズ分析』。……よし、ちゃんとお酢。ラスプベッリー入りかあ」


 カミーユはちょんと玉をつついて、ペロリと指を舐めた。


「風味もよし! これならイケる。ふうん、ローストビーフ」

「……ローストビーフと蟻退治、どっちにイケるのか、さっぱりわからねえな」

「どっちもじゃね?」


 カミーユはひとり納得しているが、周囲は眉根を寄せ、首を傾げている。


「カミーユ、香料が抽出できそうか? 急いだほうがいい」


 冷静なフィンの声が聞こえた。

 少しでも探索者が近づけば、アントジアントから牽制され続けている。


「いえ。このままイケそうですし、増やします」


 酢は原料由来と発酵過程の香気があって複雑だ。

 時間もかけられない。


「……増やす?」


 カミーユは浮かぶ酢の玉を見つめ、息を吐いた。


「『アナライズ分析』。『ウォータードロップ水滴』」


 再度分析し、もう片手で円を描くようにすると、新しく透明な水の玉を出した。


「天の慈愛。大地の富饒。

 力強き大麦、清らかなるクラーレ、瑞々しき果実。

 時は形作る芳醇の一滴」


 魔力が引きだされ、そのまま水玉に纏わりついた。

 水の玉が、カミーユの言葉に合わせて色づいていく。

 黄金に、薄紅に、そして濃く赤く。


「地に香り、天に満ちよ。馥郁とした香を女神に捧げよ。歓喜とともに。『クリエイト創造』」


 お腹に力を入れて集中した。

 創造の術はカミーユの得意とする技だ。

 調香術の中でも一際難しいと言われているが、前世の記憶まで使ってカミーユは技を使う。

 難点があるとすれば、とにかく魔力が吸い出される。

 今日は見本があるだけマシだが。


 深く呼吸し、水玉の変化を見つめる。

 身体の芯に熱を感じる頃、水玉が輝き、薄い光が天に昇った。


「できたっ! あーっ、でも、どうしましょう。ミストだと、蟻に届く前に皆がお酢あえになります」


 呆然と見つめていたフィンがハッとして、首を振った。


「……私がやる。ドレッシングはごめんだ」


 フィンがカミーユの前に浮かぶ、二つの赤い水玉に手をかざした。


「ん?」


 カミーユは首を傾げた。

 フィンの魔力が被さるのはいい。そのまま持っていってもらえばいいのだ。

 なのになぜ目の前の酢が、沸いているのだろう。

 酢の香りがより濃く、強く、むわりと広がる。


「えっ⁉ 水だけじゃなくて、まさか、火魔法も?」

「これの方が強力だ」


 酢の玉からプツンとカミーユの魔力が切れた。

 二つの玉が一つに合わさる。


「『ウォーターボール』」


 フィンがかざした手をブンと振れば、熱々の酢の玉が勢いよく飛んでいく。


「おぉっ!」

「行けっ!」


 玉はアントジアントのいる木に命中し、飛び散った。

 

 予想は的中だ。

 大蟻は上へ行き、下へ行き、そして幹のこちら側へも身体を出した。

 そこに数本の矢が射かけられる。

 堪らなかったのだろう。大蟻が滑り落ちた。


「よしっ!」

「仕留めるぞっ!」


 探索者が慌てて駆けていく。

 

 カミーユは鞄から取り出した、噛みつき豆を三粒まとめて口に放り込んだ。

 魔力がジリジリと回復するのがわかる。


 カミーユはフィンに視線をやった。

 戦う薬術師は剣を手に、平然と討伐を見ている。どれだけ規格外なんだろうか。


「ありえない。水と火を一緒なんて」


 ポツリとこぼせば、フィンもチラリとカミーユを見た。


「それはこちらのセリフだ」

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