29 新しい香料

ピーターラビットのお父さん注意報です。


*ー*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-* 


 頭の上から大きなため息が聞こえた。

 カミーユはキッチンの椅子の上で、背すじをピンと伸ばした。

 もちろん着替えてきている。


「君の脳内のママンは、夜はベッドで寝るように言うのでは?」

「言います……」

「薄物を着て男の前に出ない、男に抱きつかない、は?」

「……それは言われたことありません」


 ローザハウスでは皆子供の頃から一緒で、家族みたいなもんだったし。

 抱きついたことはなかったし。

 フィンが眉を上げた。


「あ、でも、朝起きたら調香の前にまず身だしなみ、は言われます」

「当然だな」

「でも、今回は夜から、だったから……」


 フィンにじろりと見下されて、カミーユの声がだんだんと小さくなった。

 こんなのはマズイ言い訳だとわかっている。

 頭がスッキリとした今は、なんてことをしちゃったんだ、と思う。

 

 フィンは工房で突っ伏した自分を見て慌てたはずだ。

 扉を叩いても気づかなかったという。

 焦って合鍵を探しに戻り、薬箱を抱え、入ってみたら酔っぱらった自分が抱きついたのだ。

ええ、それはびっくりしたでしょう。

 はがされないようにギュッとして、楽しかったとしか覚えていないけれど。

 

「本当に申し訳ありませんでした……」


 森の素材、エターナルフロストタルトから香料を作ることは成功した。

 でもやっぱり魔力酔いは避けられなかったらしい。


「こうならないために、一緒に香料を作る予定だったと思うのだが」

「はい……。でも、成功しました! 成功しました! 酔っちゃったけど」

「気をつけなさい。本当に。自分が魔力酔いを起こしやすいことに注意して。誰彼構わず抱きついたら、大変なことになる」

「はい」

「……朝も食べていないのだろう? スープと卵はないが、前に約束したシルヴァ・ラビーナのパイを持ってきた。昨夜の残りだが」


 なんとフィンはカミーユが身支度を整えている間に、朝食まで取りに行ってくれたらしい。

 それも風味がいいというラビーナのパイだ。

 パイ皿のカバーが外され、ふわんと香りが漂ってきた。すぐ食べられるように温めてくれたらしい。

 途端にお腹が空いてきて、カミーユはお皿を取り出すとイソイソと座りなおした。


「あ、ええと、フィンさんは?」


 フィンはパイを切り分けたが、カミーユの前にしかない。


「私の朝食は済んでいる。……そうだな。カフェーをもらおうか。ああ、立たなくていい」


 カミーユが指した戸棚には、カフェーの缶が並んでいる。


「えっと、ヘイゼルナッツは試しましたよね。 その隣からシナモン、ヴァニラ、カラメルです」


 フィンが驚いて振り返った。


「これもフレーバード香り付きか?」

「知らないカフェーが手に入ったので、試したくて。ヘイゼルナッツは香りに厚みがでます。シナモンはそのカフェーの香りを引き立てるし、余韻がいいです。ヴァニラとカラメルは甘すぎると感じる人もいるかも。でも、ミルクを入れたらイケます。お薦めはヘイゼルかシナモンです」

「……本当にカフェーが好きなんだな」


 カミーユはあいまいに頷いた。


「好きは、好きですけど。もとは安いカフェーでも香りを付けたら、おいしく飲めるかなっていう実験だったんです。うまくできたら、ギルドで登録したいと思ってて」


 話しながらカミーユは思い出した。

 その話もプリムローズとする必要があった。


「そうか」

「あ、それはちゃんと高い、いいカフェーですよ。パン爺のお店で見つけて」

「パン爺?」

「屋台の、えーと、チェルナム商会、だったかな?」

「ああ。……パン爺。なるほど」


 商会を一代で大きくした、目利きでやり手の主を、パン爺。

 フィンはふっと噴き出したが、パイに集中し始めたカミーユには聞こえなかった。



「おいっしい! コクがあって、でも重くなくて。りんご? りんごのせいかな!」


 叫ぶとカミーユは、また大きな一口をほおばった。


「コクはたぶんベーコンだな」

「臭みもない」

「ああ。それがシルヴァ・ラビーナだ。りんごも入っているが、りんご酒で煮てある」


 カミーユはコクコクと頷くと、ゴクリと飲み込んだ。


「風味がラビーナと合いますね。このパイ生地もパンみたいで、ふかふか。おいしい!」


 おいしいと頬張るカミーユを見ながら、フィンはミルをゴリゴリと回した。





「これなんですけど」


 香料を一滴垂らした試香紙ムエットを渡され、フィンは鼻を近づけた。


「すごいな、これは。森の、あの水辺の雰囲気そのままだ。……ああ、カミーユ、君は吸い込み過ぎないように」


 カミーユもムエットに鼻を近づけると、フィンが慌てて止める。

 すうっとひと嗅ぎして、カミーユは首を傾げた。


「これ、昨夜はもっと甘かったような気がするんですけど。この短時間で香りが変わるなんてありえない……。魔の森の素材だから?」


 フィンがもう一度嗅いだ。


「甘くはないな。どちらかというと甘みのない、みずみずしい花そのものだと思うが。よくできている」

「ですよねえ」


 カミーユは首をひねりながらも、よくできているの言葉に、思わず頬をゆるめた。


「……もしかすると、甘く感じたのは酔ったからではないだろうか。酔いを香りとして感じるのは珍しいかもしれないが」


 カミーユは大きなため息を吐いた。


「そうだとして、毎回酔っ払いは困るなあ。せっかく森の香りを集められそうな場所にいるのに」

「毎回困るのは私のような気がしているが。……森の香り? 木か?」

「ええ。木も、苔も、シダも、樹脂も、です。だいぶ集めましたけど、アルタシルヴァは特殊なのがありそうですから。いろいろ試して、オリジナルの奉納香を作りたいんですよ。この街らしい、この土地に似合った」

「ああ。すごいな」


 フィンは心からそう思った。

 カミーユはまだ学生だが、その姿勢はしっかりと調香術師だ。

 フィンの知る先代の調香術師にも、どこか似ている気がする。

 仕事に対する態度や、理想や、好奇心が旺盛なところも。


「奉納香はもちろん大事なんですけど、その香りがいいってなったら、この街にすごい調香術師がいるって広まるかもしれないじゃないですか。そしたら個人の調香の依頼も来るかもしれない。一人一人に似合う香水とか、作ってみたいですもん。……虫除けばかりじゃなくて!」


 カミーユはキラキラと目を輝かせて、夢を語る。

 フィンが肩をすくめた。


「残念だが、虫除けはこれからが本番だぞ。暖かくなれば虫が増えて、需要も伸びる。……ああ、香りを求めて森に入るなら今のうちがいい。そのうちアレがでる。カサカサして飛ぶアイツが」

「うひぃいいいいっ」

 

 早めに森へ行こう。できるだけ早く。そして暑くなったら入らない。

 カミーユはそう誓った。

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