018●第三章④労奴《レイバント》の悦び。


018●第三章④労奴レイバントの悦び。



 僕は慌てて身を引こうとしたが、少女の唇は吸盤のように密着し、その舌先がぬめらかに臍窩さいかのくぼみをえぐる快感が、瞬時に下半身を痺れさせた。腰が抜けそうだ。

 チラ、と少女は上目遣いに我輩を見上げた。

 憂いに満ちた視線の切なさが、俺の理性を溶解させる。

 淫に乱する私をどうかお許し下さい、猊下……と。

 僕が気づいたとき、少女は僕の下穿きブリーフの上端をクイッと噛んでいた。

 そして一気に引き下ろ……されるところで。

「待って」と僕は言った。

 僕の両手は少女が髪に差している、えんじ色の地味なカチューシャを左右から押さえていた。

 間一髪だった。少女のくちびるの数ミリ下では、男性の欲情が固くこわばっていたのだ。

「待って」と僕はギリギリの緊張感にあせって繰り返した。少女の髪が醸し出す、あでやかな大輪に開く直前の、ひそやかなつぼみの香りに幻惑されながら。

 そのとき我輩の頭の中には、“ハニトラ”……ハニートラップの一語がドーンと浮かんでいた。これを意識するのが一瞬遅かったら、少女のなすがままに、取り返しのつかない淫靡いんびの底なし沼に溺れていただろう。

 前世記憶ぜんせきおくに残るいくつかの苦々しい失敗談が、脳裏で警告していた。

 少女が、我輩に対して仕掛けられた甘く濃厚なハニートラップだとしたら?

 両手にかせをはめた無力な少女を、煩悩のままに蹂躙する枢鬼卿すうきけいの淫らな行いが、何者かによって撮影、録音されていたとしたら?

 枢鬼卿すうきけいには天敵に等しい政敵がいるはずだ。破廉恥な画像と音声を公開すると脅されれば、そこから僕の破滅が始まるだろう。

 生き延びたければ、ここで止めるのだ。

 少女は僕の下穿きブリーフをくわえたまま、見上げた。僕はつとめて優しく声をかけた。

「君の名前、聞いてなかったね。教えてくれないかな?」

 はっと表情を変え、一秒、二秒……と、少女はためらった。ためらいながら迷い、ふるふると眼差しが揺れ、答えるのに相当な決意を要したことがわかった。

「……トモミ……と、もう……します……」

 声が潤んでいた。哀しさだ。偽名かもしれないが、だとしても本名に匹敵する通称だろう。彼女は嘘をつくことに激しい心理的抵抗を持っていると、僕は直感していた。

 自分の名を相手の男に告げたことで、少女は今、あられもない姿で男の劣情を誘っているのが、夜伽冥奴よとぎメイドという製品名の一個の肉体人形でなく、かけがえのない人格であるトモミという自分自身であることを自覚するしかなくなった。

 それは哀しくて、辛い真実だったはずだ。

 自分を偽り、一個の肉体人形に心をとしてこそ、屈辱的な性的慰安の苦痛に耐えることができる……と、トモミは自分に言い聞かせていたはずだから。

 その決意に反して、トモミという自分を取り戻してしまった少女に、僕は言った。

「トモミちゃんか、いい名前だね、やわらかくて、まるい響きがとても優しい」そして我輩は付け加えた。「お父さんとお母さんが、君の幸せを願って、つけてくれた名前だ」

 ある意味、残酷な宣告だった。しかしここでハニートラップを崩壊させるには、トモミをトモミ自身に引き戻すのが一番だ。

 トモミの背中がぶるぶると震えた。泣きべそを隠すために、うつむく。絨毯にぽつ、ぽつと涙のしずくが落ちる。

「シェイラ!」と俺は呼んだ。「近くにいるんだろう? 出てきて、トモミちゃんを自由にしてあげてくれないか!」

 ここを欲望から理性の場に変えるのだ。そうすればハニートラップは成立しない。

 衝立の背後から、すっとシェイラは現れた。足音一つしない。やはり女忍者だ。

 しかし表情は陰鬱だった。

 夜伽冥奴よとぎメイド夜伽冥奴よとぎメイドとして“使用”し、個性あるトモミという人物として扱ってほしくなかったのだろう。

 前任のスケベ枢鬼卿すうきけいは、毎夜、日替わりの夜伽冥奴よとぎメイドの名前など聞かず、ただの慰安用家具として使い潰していたのだ。しかしトモミという固有名詞に目覚めた少女は、もはや性的な虐待にその心が耐えられない。

 壊れる寸前のポンコツ性処理家具と化したトモミを冷たく眺めると、シェイラはあくまで恭しく忠告を述べた。

「しかし、猊下ご自身の御手みてにて、それがなされることを、夜伽冥奴よとぎメイドは心底から願っております。猊下が手ずから手枷の戒めを解き放ってくだされば、彼女にとって、これ以上の喜びはありません。この夜伽冥奴よとぎメイドを哀れと思し召しでしたら、どうぞ、たっぷりと情けをかけてやってくださいませ」

 トモミは後ろ手に拘束されたまま、うなだれ、ひざまづいていた。まるで斬首を待つ無実の罪人だったが、透明な薄衣うすぎぬに包まれた肢体は桜色に紅潮し、生気せいきにはち切れそうだ。

 抱きたい! 抱かせてもらいたい!

 俺の本心はそうだったが、僕と我輩が全力で色欲の暴発を抑えた。

「僕にはできないよ。だからシェイラに頼んでいるんだ」

「そうですか」シェイラは失望の色を隠さない。「猊下のお気に召しませんでしたか、自分の名前を告げるような夜伽冥奴よとぎメイドでは、さぞや興醒きょうざめになられたことでしょう。私の責任です」

 シェイラは折れて、トモミを立たせると衝立ついたての後ろに引き入れた。数秒もせずして、カラリと手枷の外れる音がして、自由を取り戻したトモミが歩み出てきた。

 トモミは両腕を前に降ろして透明な衣の前でV字形をつくり、もじもじと身体の局所を隠している。

 当然の仕草だったが、生まれたばかりの美神ヴィーナスを思わせる。十八歳とはいえ、小柄な体つきなので、さらに若そうに見えていた。完璧なまでに、それは、歩く背徳の天使だ。

 シェイラは各種の天使を展示する博物館の学芸員のように、トモミを解説した。

夜伽冥奴よとぎメイドは、特殊慰安業務の契約を正式な書面で交わした労奴レイバントです。すべて彼女の自発意思で、あらゆる特殊慰安を暴行、傷害、姦淫の区別なく受け入れ、それを喜びとなすべく特別な報酬を約束しておりますので、どうぞご心配なく……と、お勧めの逸品だったのですが、彼女は本名を明かしてしまいました。これは労奴レイバントとして肉体的な慰安で猊下にご奉仕するよろこびを拒否し、自ら“勤労意欲”を無くしたことを明示しますので、重大な契約違反であり懲罰に値します……トモミ!」

 びくっ、と少女はのけぞり、反射的に下を向く、恐怖にかられたのだ。

 シェイラの手には、しなやかで長いむちが現れていた。

「折檻します。そこで四つん這いになり、お尻を上げなさい」

「はい、シェイラ様、よろこんで」

 トモミはそうした。真っ白なつるつるの下着が、非の打ちどころの無い蠱惑こわくの山となって、天を向く。

「シェイラといえど、このに暴力は許さない、やめたまえ!」

 怒りをにじませて、我輩は制止した。しかしシェイラも口答えする。

「お言葉ですが猊下、猊下の御前おんまえでお尻を鞭打たれる行為も、彼女との労奴契約に含まれております。鞭打ちの回数に応じて、報酬が加算されます。夜伽冥奴よとぎメイドはすべて了解しております」

「打たれて喜ぶというのかい? トモミちゃんが?」

 シェイラはトモミに促した。「喜びか苦しみか、自分で答えなさい、夜伽冥奴よとぎメイド

「はい、とても嬉しいです!」とトモミはためらいなく答え、シェイラは確認する。

夜伽よとぎひなペンギンちゃんは、鞭打つと可愛いさえずりを聞かせてくれるというが?」

「はい、シェイラ様、お尻を振ってピイピイと泣くほど……嬉しいです」

 トモミは破廉恥な言葉とともに、みずから手を尻に回して、下着をつかむ。

「パンツを脱ぐのはやめてくれ、トモミちゃん!」

 トモミは一瞬で固まった。シェイラは無表情に続ける。

「猊下、契約は契約です。トモミをこのまま帰しますと、特殊慰安業務が遂行不能となり、鞭打ちによる報酬加算も無くなりますので、彼女が公王府パラティヌスの会計から支給される報酬額は極めて僅かとなります。何しろ、一つもまともに仕事をしていませんので。唯一、“ヘソしゃぶり”の件で、学生アルバイトの三時間分ほどになりますか、それでいいんですね、トモミ」

 トモミは床に頬ずりしそうなほどにうつむいたまま、子供がいやいやするみたいに顔を振り、か細く、声を絞り出した。

「お金、欲しい……です……お仕事、させてください、お願いします……」

 僕は胸をえぐられる思いで、黙るしかなかった。これが現実だ、我輩がこれまで数多く転生してきた異世界もそうだった。事実上の奴隷にされる人々。この世界も他の異世界と同じで、「基本的人権は金で買える」のだから。

 にしても、トモミが生活破綻ギリギリのデッドラインにあったとは意外だ……。

 我輩の不覚だった。トモミはそこまで困窮していたのだ。

 シェイラは慈悲深く声をかけた。

「それではトモミさん、お仕事を与えます。枢鬼卿すうきけい猊下はこれから御就寝ですから、おみ足が汚れていてはいけません、指の間まで、徹底的に綺麗にして差し上げてください」

「はい! おおせのままに!」

 チャンスを逃すまいと、トモミは四つん這いのまま、嬉々として我輩の足に飛びついた。

 今度ばかりは離さないとばかりに、僕の片方の足首をつかむとビロードめいた起毛のスリッパを脱がせて、足の甲をべろべろと舌で拭く。親指から小指まで順番にくわえ、舌を丸めてちろちろと舐めまわす。指の間にも舌先を差し入れて、磨くように、しごく。

 我輩も俺も僕も、何も言えなかった。

 これが労働であり、これでトモミは少なからぬ報酬を手にすることができるのだ。

 しかも、誠意を込めた熱心な仕事だ、そう直感した。

 トモミはきっと、心から喜んでやっている……。

 足指から全身にめぐる恐るべき快感に我輩はふらついて、ソファにどっかりと腰を落とす。それでもトモミはフットケアの仕事をやめようとしない。

 見おろせば、透明なメイド服の少女が、その裸体もあらわに、他人の足指を舐めて奉仕している。お尻を上げ、心なしか左右に振りながら。

 これは天国だけど、地獄でもあった。

 これは間違いなく……罪だ。

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