第6話 ファームズヴィルの昼
ワシュフル先生の領地は、昨日僕が上陸したバスカブの港からファームズヴィルの沼地と丘、その周辺に広がる広大な草原とビナイ山脈への入口となる林の一部で、領主として治める土地としては小さなものですが、ワシュフル家として生計を立てるには十分すぎる規模であることが分かりました。
元々此処はポロの北西に有るバコタの港から、南に有るマクマへの中継基地として置かれたバスカブの港があるだけで、港を一歩出ると全くの未開地だったそうです。
それを二十年近く掛けて先生が開拓を進め今日の形に為した訳で、あの小さな村はその間にバスカブの漁村から移り住んだ人々なのだそうです。
バコタで揚がる水産物を陸路で運ぶにはポロまでの道が険しく採算が取れないので、船で沿岸を回ってマクマの港から整備された街道を通って持ち込む事になります。
そこで中継基地としてバスカブがある訳ですが、当初は夜間の停泊地でしかなかった港が、先生の開拓によって消費が増えたことから、積荷の何割かの水産物が荷揚げされるようになりました。
味の良い
それで、先生はマクマへ運ぶ堅身魚をバスカブで燻せるように燻蒸施設を作ったのです。
この漁期が秋で、今は燻製された四つ割りの身を天日に干す作業が最盛期を迎えています。
これが完成すると、仕入れに加工賃を加えて数倍の値段で売られる訳です。
昼食には、その堅身魚がミリアンの手によって薄くスライスされ、水に晒した玉葱と一緒に大皿の上に美しく並べられました。
その上にマイヨネッサという酢と卵を攪拌したものに塩、胡椒で味を調えたドレッシングが掛けられています。
それらをスライスした黒麦の硬いパンの上に乗せて食べると、堅身魚の旨みとドレッシングの酸味が調和して、玉葱のアクセントが効いたさっぱりとした美味しさでいくらでも食べられます。
「港からわざわざ届けて戴いたので、新鮮な内に戴いてしまうことにしました。夕食の燻製鱒と似た感じになってしまうのですが」
「なんの、なんの。ミリアンの料理はいつも素晴らしいよ。燻製鱒は全く別物だから当然夕食も美味しく戴くよ」
「僕も魚は大好物なので、毎食でも嬉しいです」
「まあ、良かったわ。そうそう、厚切りにした身をソイズに浸けて稲実蒸しと一緒に食べるのも美味しいわよ」
「ソイズですか?」
「ええ、塩漬けにした大豆を発酵させて作った調味料なの」
「ああ、ラルクさんの作業小屋で見ました。あれはソイズというのですね」
「ええ、稲実蒸しは分かる?」
「稲の実を剥いて蒸した料理ですよね、ちょっと粘りのある。チタ州では剥いた稲をマイ、蒸したり炊いたりするとマイスといいます」
「あら、言いやすいわね。先生、家でもそう呼びましょうか」
「ふむ、短くて良いね。これからはそう呼ぼうか」
「じゃあ、夕食にはマイスと堅身魚の切り身も出しましょうね」
「ふふ、楽しみが増えたね」
食後のハーブ茶を飲みながら、先生は背広の隠しから小さな水晶を取り出しました。
「これが最近もっぱら私の研究でね」
先生の手にある水晶は透明で、中心にほんのりと光が宿っています。
「時々イサリ川の支流で見つけるのだがね。これには神気が宿っているようなのだ。これを取り出して火術や水術が使える便利な道具にすることが出来ないかと考えているのだが、トビー君どう思うかね」
「此方の川は清澄で淀みがありませんから、ビナイ山脈に降った神気が良く行き渡っているようです。そうした状態が長年続いていると余剰となった神気が結晶することがあります。これはそうしたものじゃないでしょうか」
「ふむふむ、私の仮説と合っているね。で、この神気を取り出すことは可能だろうか」
「そうですね、例えば」と、言って僕は懐から精霊の導き玉を収めた水晶を取りだしました。
「これは僕の身体に馴染んだ神気を使って作った導き玉なんですが」
「いや、ちょっと待ってくれたまえ」
先生は目を丸くして僕を見つめました。
「その導き玉とやらにも驚いたが、君、それを一体何処から出したのかね」
「え、懐からですが」
「懐って、私には突然それが君の手に現れたように見えたのだがね」
「あ、いや、ちゃんと掴んで出しましたよ」
僕はもう一度水晶を懐にしまって、再び取りだして見せました。
「ばかな‥神気術に空間収納術があるというのか。君はどうやってそれを会得したのかね」
「会得と言われましても‥懐に物を仕舞っているのは僕だけって事じゃないでしょう」
そう言って三姉妹を見ると、三人ともフルフルと首を横に振っていました。
「ええ…これって普通の事じゃ…」
「いーや、普通じゃないのだよっ、トビー君」
先生は顔を紅潮させて、むふーっと大きく鼻から息を吹き出しました。
どうやら僕は懐に仕舞うという行為をこれまで思い違いしていたようです。
祖父と二人だけの生活だったせいで、祖父に出来ることは大抵自分にも出来ると思い込み、実際そうやって出来てしまっていたので、それが当たり前のように考えていたのです。
「大事な物は懐に仕舞っておきなさいと祖父に言われるままに、同じようにしたら出来たものですから」
「ふうむ。やはりグリザケットは違うということかねえ」
神気を扱い、神官向きとされる僕たちには他の種族には無い特性があるようです。
先生はこの後様々な物を僕に収納させ、空間収納と言われる特性を把握する為の実験を繰り返しました。
結局僕の空間収納には、先生が旅行に使う大型の革鞄が二つも入ることが分かりました。
しかも懐と定義しなくても身体の側なら、どこからでも取り出す事が出来るのです。
この結果に先生はいたくご満足で、おかげで僕の給金は二日目にしていきなり週二十シリングつまり一ポンドになったのです。
丁稚からいきなり執事の給金に格上げです。
「有能な助手にはそれなりの待遇を与えねば為らん」と先生は仰るのです。
その代わり、先生の研究に必要なありとあらゆる物を収納することになりました。
先生曰く、「いいかね、スキルというものは使わなければ成長しないものなのだよ。大いに使って成長を促しなさい。収納はいつもギリギリを心がけていれば、かならず容量は増えるはずだ」
こういった考えが僕たちには欠けているようです。
与えられた物を過不足無く使うというのが僕たちの生活で、先生のご本が出るまでは何百年も同じ生活をしてきたのですから。
つい百年前まで、僕たちは物々交換をして、着衣の習慣はありませんでした。
家は有りましたが、地方によって形も大きさも様々で、地域毎に家具や道具の価値も違っていました。
それで遠くの街ともあまり交流がなかったのです。
先生の提唱した長さや重さの統一と貨幣経済は、こうした僕たちの生活を一変させたのです。
食物の繊維から布を織ったり、衣服という新しい文化も花開きました。
これらからは新しいデザインを生み出すという考えもしなかった発想が生まれたのです。
もっとも僕たちの着衣は雨や埃除けという概念が一般的で、普段は袖なし前開きのジレを羽織り、幅広で短いパンツを履く程度です。
このように先生の恩恵は計り知れない物がありましたが、今また神気の扱いについても僕では考えもしなかったことを教えて下さったのです。
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