ワシュフル先生とわりとチートな灰猫の助手
漣翠
第一章 チートな助手はチートの自覚の無いネコだった
第1話 訪問
僕がファームズヴィルにある先生のお宅を訪ねたのは十一月の霧の深い夕刻でした。
小さな港へゆるゆると注ぐイサリ川は昼間温められた川面から、日が落ちかかると途端にぐんと冷える川岸に向かってミルクのように濃厚な川霧を流し込んでいました。
小さな帆船でバスカブの港に着いた僕は、ふわふわと前方を漂う精霊の導き玉に従って、ひたひたと足下に押し寄せる川霧をかき分けるように、川沿いの道を上流へ向かって歩いて行きました。
街を離れるとすっかり人通りも無くなり、馬車の轍だけが続く寂しい田舎道です。
夕陽に映る山の頂付近が僅かに薔薇色をしているのは、もう雪を被っているせいなのかも知れません。
ふいに導き玉が灌木の繁みに吸い込まれるように消えたので慌てて辺りを探ると、厚く積もった落葉の中に小さな道が続いているのを見つけました。
導き玉はその少し先で光っています。
小道を少し下ってから低い土手を上りきると、目の前が急に開けて小さな沼が点在する湿地帯が広がっていました。
沼地を避けて長い木道が掛けられ、穏やかな曲線を描く丘へと続いています。
僕は木道を渡り、日がとっぷりと暮れる寸前に丘を上りきることが出来ました。
頂上に立つ大きな切妻屋根の家は、古びてはいるけれど巌のような石材と太い木材を組んでがっしりと造られていて、まるで丘に根付いた大木のようです。
その古城のような偉容に圧倒され、僕はお屋敷を見上げたまま暫しの間、茫然と佇んでしまいました。
こんな立派な邸を持つ方に田舎者の僕なんかを受け入れて戴けるだろうかと、不安に駆られてしまったのです。
しかし、閉じられた鎧窓の隙間からは、仄かに暖かな灯りが漏れ出しています。
その穏やかな光に誘われるように僕は意を決して重厚な扉をノックしました。
ややあって、細長く開いた扉の隙間からこちらを覗きこんだ影が、「どなた?」と尋ねました。
僕は鹿追帽を脱ぐと胸に当て、丁寧にお辞儀をしました。
「ワシュフル先生を訪ねてチタ州から来たトビーと言います。先生はご在宅でしょうか」
「あら、随分遠くからいらしたのね。少々お待ちくださいね」
カチリと内鍵を外す音が聞こえると、オレンジ色の光が溢れ出し、玄関前の木床に四角い光が落ちました。
現れたのはルトロ人と呼ばれるカワウソ族に起源を持つ女性でした。
大変手先が器用で、お針子さんやアクセサリーの加工職や、こうして家政婦になる方も多いそうです。
「まあ、まあ、すっかり夜霧に濡れてしまったのね。さあ、中にどうぞ」
僕は暖炉が赤々と燃える室内に招き入れられました。
もちろんそこで身体を震って水滴を飛ばすような無作法はしません。
二重回しの外套を脱ぐと、すかさず乾いたタオルを差し出され、代わりにルトロ人の女性は濡れた外套と鹿追帽を受け取って、暖炉の側に掛けてくれました。
すっかり水滴を含んでしまった耳と顔を拭っていると、女性はまじまじと僕を見つめています。
「灰猫さん…なのかしら」
僕の毛並みは濡れていたし、暗がりだった為に黒っぽく見えていたのかも知れません。
「ええ、グリザケットです」
猫族起源種は体格や毛色によって様々に分化していますが、僕は体色から灰猫と呼ばれるグリザケット人です。
「まあ、本当に珍しい。今、先生にお知らせしてきますね」
ルトロの女性は小走りに部屋を出て行きました。
ここはどうやら外からの客を迎える部屋のようで、暖炉にテーブルといくつかのソファが置かれただけの簡素で清潔な設えです。
大きなお屋敷にはよくある応接玄関で、この部屋の向こうに家族が暮らす居間やキッチンがあるのでしょう。
テーブルに編み掛けの毛糸が置いてあるので、この部屋は来客の対応がてら普段はあのルトロの女性が使っているのかも知れません。
僕が部屋を見回していると、重い足音が近づいてきて扉が開き、大きくて丸っこい人族、ガストルの男性が姿を現しました。
耳が頭の側面にあり、尻尾の無い種族で異世界から女神のヴェールを抜けて訪れた『お客人』という意味でガストルと呼ばれています。
背丈は六フィート近くあるのではないでしょうか。
四フィートに満たない僕からは、見上げるような高さです。
品の良いツイードのジャケットを着て、首元にはシルクのスカーフを巻いた、丸い眼鏡を掛けた優しそうな目をした方です。
「やあ、これは可愛らしいケットの子だね」
先生はよく通るバリトンで穏やかに話しかけられました。
「はじめまして。ワシュフル先生でいらっしゃいますね。僕はチタ州から参りましたトビー・グリザケットです」
僕は右の掌を胸に当て、左手を背中に回し、先生に敬意を表す正式なお辞儀をしました。
「おお、これはご丁寧に。私はリチャード・サ・レ・ワシュフル。真理探求の学徒です」
僕は先生の差し出された手の丸っこい指と握手しました。
「さあさあ、暖炉の側にお掛けなさい。随分と長旅のようだったね。メリアン、トビー君に何か温かい物を差し上げてくれるかな」
「はい、先生」
ルトロの女性はメリアンという名のようです。
僕と先生はメリアンさんの淹れてくれたミルクティーを飲んで、ほうと息を吐きました。
先生は遠路を旅して来た僕を労い、足置きやら膝掛けやら何くれと無く居心地の良いようにしてくださいました。
おかげで僕は暖炉の温みと座り心地の良いソファに深く身体を埋めて、とてもリラックス出来たのです。
「それでトビー君、早速だが我が家を訪ねられた訳を話してくれるかね」
先生はぐいと身を乗り出して、僕を優しくみつめました。
「はい、少し長くなりますが、お話しさせて戴きます」
それから、僕はここへ来るまでのいきさつを話し始めたのです。
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