第5話 サディアナ


 高地に建つ自宅の扉を開けたサディアナは、空に浮かぶ月を視界に入れると、嫌悪の表情を浮かべた。その細身に不釣り合いな剣を腰から抜くと、慣らすように剣を振るう。最後に振ったのは数時間前なので、そんなことをしなくとも体は覚えているが、サディアナは日課であるかのように剣の振り心地を確かめた。

 現実から目を逸らすかのように月から視線を外すと、眼下に広がる赤色を見て更に顔を顰めた。不快──それ以外の何物でもない光景に歩み寄ったサディアナは、躊躇うことなく剣を突き刺し、そのまま目一杯の力を込めて薙ぎ払った。

 ふと、何処からか明るい声が聞こえてくる。手を止めて辺りを見回すと、そこには何人かの村人の姿があった。


「あぁ、そっち。ごめんごめん……えっ?」


「いやいやいやいや! そんなことないですって!」


「作ってやろうか? まだ素材が余っているから」


「ごめんごめん、嘘。冗談。どんな反応するかなと思って。ちょっとした好奇心」


 彼方此方から、村人の声が聞こえてくる。その声と姿を認めたサディアナは、不愉快そうに溜め息を吐いた。

「いい加減に見慣れたとはいえ、やっぱり不気味なものは不気味」

 そう呟いて村人から視線を外すと、再び赤色に向かって剣を振るい始める。

「あの人達には、あれが、どう見えているのかしらね」

 何度目になるか分からない返答のない問いを口にして、その行為の無意味さに自身への嫌悪を滲ませると、切り替えるように深い溜め息を吐いた。



 深い闇が覆う空、煌々と光を放つ丸い月が浮かぶ夜。そんな夜に突然、その赤色は現れた。村の真ん中に、たった1つ佇む不気味な赤色は、まるで最初から、そこにあったかのように鎮座していた。

「なにあれ……」

 そう呟くも、サディアナの言葉に返答する者はいなかった。

 その赤色は、ほんの1週間程度で、数え切れない量に増えていた。分裂したのか、知らぬ間に何処からかやってきたのか。突き止めようとしたこともあったが、どれだけ見張っても増える様子は見られず、それでも気付けば何故か増えている光景を幾度となく目にしたサディアナは、とうとう諦めて調べることを辞めてしまった。

 赤色が現れた日から、この村には朝が来なくなった。空を覆い続ける闇と、何時間が経過しても僅かにすら動くことのない月。最後に朝が来たのは、この目で太陽を拝んだのは、どれくらい前だっただろうか。サディアナは既に、照らす太陽の姿を思い出すことすら出来なくなっていた。

 ある日、突如として現れ、増殖を続ける赤色。太陽が昇らず、明けることがなくなった夜。それだけでも不気味だが、最も奇妙なことは他にあった。


 村人達が当然のように、その赤色と共存し始めたのだ。


 その奇っ怪な姿を恐れるでもなく、この怪奇現象に畏怖嫌厭を覗かせるでもなく、当たり前のように受け入れ、当たり前のように言葉を投げかけている。

 サディアナには村人の言葉が会話の言葉に聞こえるが、聞こえてくるのは村人の言葉だけだ。僅かに粘性のある液体が滴る音と、生々しい固体の擦れる音。その不愉快な音が村中から聞こえてくるばかりで、それが声に聞こえることはない。

 だからこそ、村人達には、あれがどう見えているのか。サディアナは疑問を抱くばかりだが、それを村人へ問うことも出来ない。

 初めて現れた赤色に平然と話しかける村人を見た瞬間、その不気味さにサディアナは恐怖を抱いた。彼等は既に正気ではないと悟った瞬間、それ以降、村人に話しかけることも、近付くことでさえもしなくなった。



 村の中央に、たった1つ現れた赤色。初めて見た時から嫌悪を抱き、そして誰もが当たり前のように受け入れていた赤色。斬っても減ることなく増えていき、斬らなければ更に増えていく赤色。


 それは──赤黒い血を全体から滲ませた、人の背丈程もある肉の塊だった。


 口どころか顔すらなく、そもそも人の形すらしていない。巨大な生物の脳味噌を思わせる塊は、表面に皺があり、そこから滲ませた赤黒い血のような液体から、強烈な腐敗臭を漂わせている。

 村中を埋め尽くす肉塊。生々しい光沢を放っているそれは生命体なのか、ひとりでに蠢いては村人の周りを彷徨いている。襲うでもなく、追いかけるでもなく、捕食するでもなく、ただ辺りを彷徨い、村人の周りを徘徊し、そして凄まじい勢いで増殖していく。

 何が目的なのか、そんなことは分からない。どうすれば、この状況から抜け出せるのか……それも分からない。それが分かるならば、疾うに、どうにかしている。



 何かが終わる時というのは、こういうものなのだろうか。

 悲鳴の1つも聞こえない、それどころか楽しそうな笑い声すら聞こえてくる地獄のような光景。阿鼻叫喚とは無縁の静寂に嫌悪を滲ませながらも、まるで世界に独り取り残されたような寂寥を覚えながら、サディアナは独り、己の感情から逃れるように剣を振るい続けた。

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