夜半に散る
赤い町が広がっていた。
屋根の上では、夜半遊郭の燃え盛るような赤の具合が、よくわかる。
あの妓楼、あの遊女屋のどれかに、母がいたのだ。夜ごと招いた客に抱かれ、屏風の内側で嬌声をあげ、父親のわからぬ子を産んだのだ。
彼女は、うしろめたかったのだろうか。安物の薬を服用していたら、あっけなく孕んでしまったことが。ろくに金もないのに、おろさず赤子を産み落としてしまったことが。
母親の資格もないのに、それでも我が子の顔を知りたがってしまったことが。
親子の持つ決定的な相関性。その意味をいまだ知らぬ小娘のまま、それでも母は、母になってしまった。ゆえに知った。自分といたのでは、この子はしあわせにならぬ。
そんな一方的な判断で、彼女は握る手を離した。ついぞ子宝に恵まれなかったという老齢の金持ち夫婦に、ひとり息子を託したのだ。
去り際、彼女は目を腫らして、おさない息子をその腕に抱いた。
「わたしを許さないで、わたしのかわいい子。わたしはきっと、死ぬまで男と踊っている。あなたがおとなになったとき、きっといつか、わたしに会いに来て。そして、わたしを……」
すぐ間近、最後この目に焼きついた、母の瞳の、その湿潤。
子は、親の言うことを聞くものだ。
だから彼は、いつも母親に会いに行く。
あの、かろやかに擦れる下駄の音。だれよりも優雅な立ち姿。マスクの下の流し目と、果汁のごとき芳醇な女のかおりを求めて、会いに行く。
そうだ。母は死ぬとき、初めて幸福そうに笑った。
彼は、初めて孝行ができた。
その亡骸がすっかり冷えるまで、初めて満足に、子がそうするように、肉親を抱いたのだ。
幽霊左近は、屋根の上から飛び降りた。
場所は、遊郭の中心地。人工の川が伸び、商店が並ぶ表通りだ。
欠けた刀を突きのかたちに構えて、とある閉店ちゅうの店舗のガラスを割った。周囲にまばらにいたひとびとの悲鳴を気にも留めず、刀屋へと押し入る。
店内には、何本もの得物が飾られていた。
そのうちの一本を、ろくにたしかめずに手に取った。
刀身が欠けてさえいなければ、頓着はなかった。
店の外に出たときには、すでに追跡者は追いついていた。
黒犬の面をかぶった、ごく小柄な粛清官。その素顔は、ついぞみていない。その本当の声も、いちども聴いていない。
それでも彼は最初から、この小柄な剣客が一線級であることを見抜いていた。
最低限、それだけで好感が持てた。
自分が一目を置きたくなるような剣士に出会えたのは、初めてのことだった。
「ここでいいのか」
そうとだけ、相手は言った。ああ、と彼は答えた。
「すぐにひとが集まるだろう。が、それよりも先に、終わる。きみも、わかっているだろう」
互いに承知しているはずだ。
次の交わりで、いずれかが死ぬ。
幽霊左近は、ふたたび居合いを構えた。低く低く、どこまでも低く、力を凝縮させるかのように。
わずかだけ刀身を曝す剣の、その柄を掴みきらずに、念をこめる。
周囲を舞う砂塵粒子が、色濃くなっていく。
死者に使えば、一部を生者に戻す能力。生者に使えば、果たしてどんな作用なのか、医学を修めた彼にもわからなかったが、肉体は活発化し、神経パルスの伝達速度が異常に上昇する。
それが可能とするのが、この神速の居合いだ。
だれにも止められぬ。そういう、自信がある。
凪を迎えたこころで、幽霊左近は、斬る相手のからだを捉えんと、白霊の仮面を上げた。
そのとき、静けさはわずか揺らいだ。
相手の構えもまた、居合いに近しい型だったからだ。
視界の端、弱いほうもまた追いついてきた。けなげにも銃口を向けようとする彼女を、相手の剣士は、信じられぬことに、片手をあげて制した。
――好機。
刹那の時、それごと裂くような煌きで、彼は刃を薙いだ。
ほぼ同時に、粛清官もまた、抜刀した。
新品の太刀影が提灯に照り、赤い町を輝き映したときには、すべて振り終わっていた。
それきりだった。
この世のことわり。結果を知覚できるのは、つねに生者だけだ。
目を見開いたまま、嗤ったまま倒れたことに、彼は最期まで気づくことはなかった。
*
勝負は、終わった。
五重塔を背に、シンは、自分が斬り伏せた殺人鬼の遺骸を見下ろしていた。
「こいつ、噂ほどではなかったな。にどめは、さすがに目が慣れた。粛清官がふたりがかりでやられるほどだとは思えないが、まあ、うまくふいうちでもしたか……」
彼はパートナーの視線に気づくと、ふと顔を上げた。
「けがはなかったか、シルヴィ」
「……ええ」
「それにしても、ようやく一件落着だな。とにかく、支部に知らせるか。あの女、ことの真相を知ればおどろくだろうな」
シンが刀身の血を振り払い、納刀した。
カチンッ、という金属音がしたとき、シルヴィはたしかに身を震わせた。
このとき彼女は、骨の髄から理解した。
自分が組むことになった粛清官の、その底抜けの強さを。
それは、彼我の遠ささえも測りかねるほどの遠景。
まるで、今宵の霧と雲が作るおぼろ月のように、どこまでも遠いすがただった。
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