楽園殺し外典: Grinning Ghost

呂暇郁夫@書籍5冊発売中

プロローグ

嗤う亡霊

 仮面の下には恐怖が張りついている。


 その事実を、彼はよく知っている。

 だから彼がもっともおそれるのは、まさしく仮面を剥ぐ瞬間だった。ごくりと息を呑み、おそるおそる、手を伸ばす。

 表面に描かれしは牡丹の水彩画。口紅のように真っ赤な花弁は、その種の手練手管に長けた女であることを――いうならば、とうのたった遊女であることを、おのずと示している。

 彼は最後の躊躇を断ち切ると、死体のマスクを取り払った。


 女の見開いた瞳が、どこともいえぬ虚空をみつめていた。

 濁ったような白目には、氾濫した川のように血管がびっしりと這っていた。

 中心の円は、若菜の色をしていない。

 それでも。


「……ああ」


 死体を抱きながら、かれはつぶやく。

 また会えたね、母さん。

 はぁぁ、と息を吐いたのは、深く深く、心の底から満足したからだった。


「――出たぞ!」

「例の辻斬りだ!」

「おぉい。ここに、幽霊左近をみたものはあるか!」


 突如、蔵の外から声がして、彼は弾かれたように立ち上がった。

 あらわれたのは、三人の男だった。この区画の自警団の所属を示すマスクをかぶっている。それぞれが持つ懐中電灯が、蔵のなかを照らした。

 この場の惨状があらわとなった。血まみれの室内に、絶命した女の、無惨に斬り裂かれた肉体。その亡骸を片手で抱える、ひとりの白装束の男。

 なにより特筆すべきは、砂塵であった。

 殺人者のからだから揺蕩う、嫌な感触をまとわせた、濃ゆき色の塵。

 ひゃっ――と、相手が声をあげたときには、彼はもう動き出していた。


 出入り口が塞がれていると知るや否や、間髪入れず、男は跳んだ。蔵の小窓に向けて跳躍すると、刀の切っ先を窓につきつけ、草履の足裏で蹴り抜いた。

 窓が割れたときには、すでに、男は外に脱出せしめていた。


「逃げたぞ、幽霊左近が逃げたぞおっ!」


 背後から怒鳴り声がする。銃声が鳴り、背後に向けて撃たれた銃弾が、塀や灯篭にぶつかる。すぐ前からライトが当たり、八方ふさがりだとわかると、彼はふたたび跳んだ。

 めざしたのは、瓦屋根の上だった。

 彼は民家の上に跳び乗ると、猫科動物のようにすばしこく、次から次へと屋根を飛び越えていく。追手たちは、その曲芸技に唖然とするばかりだった。

 逃げることなど、朝飯前だ。もう何年ものあいだ、こうしているというのか。

 いや、もうやめだ。

 こんなことは、金輪際やめにしよう。かならず、そうしよう。


 げに赤き町、今宵は深々と霧が包み、遠ざかる男の影を薄らげては、消していく。

 遊郭の夜を、咎人が駆け抜ける。

 白霊を模した仮面の下に、そのゆがんだ素顔をひた隠しにして。

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