九十九里浜の惨劇

鷹山トシキ

第1話 6月15日

 第208回国会会期末。

参議院本会議で、こども家庭庁設置法と、こども家庭庁設置法の施行に伴う関係法律の整備に関する法律が賛成多数で可決、成立。一部の規定を除き、来年4月1日施行。

 

 矢吹陽介は九十九里浜を散策していた。

 千葉県東部の刑部岬(旭市)から太東岬(いすみ市)までに及ぶ太平洋沿岸に面しており、全長66キロメートルにも及ぶ砂浜である。北側から旭市、匝瑳市、横芝光町、山武市、九十九里町、大網白里市、白子町、長生村、一宮町、いすみ市の5市4町1村に跨る。


 九十九里浜を中心にして円を描くと、南西諸島を除く北海道から九州までが丁度半円内に収まり、犬吠埼とともに日本列島を扇に見立てた要の位置にある。また日本列島に沿って北上する黒潮がここを境に離れる個所でもあり、「黒潮文化」の北限に位置している。だがその一方、九十九里平野中央を流れる栗山川は「サケの回帰の南限の川」とされ、親潮の影響を受ける南端の地域でもある。


 刑部岬(飯岡灯台)は日本の朝日百選、日本の夕陽百選、日本夜景遺産、日本の夜景百選、関東の富士見百景に選定されており、九十九里浜全景や漁港町を見渡せる絶景スポットとなっている。古くからの保養地・療養地であり、遮るものもなく雄大な海岸線はかつて数々の文人、墨客が訪れ、「文豪の地」として親しまれた。海岸線沿いは歌碑、詩碑が立つ。


 九十九里の古名は玉浦(玉の浦)である。


 九十九里の地名の起源は、石橋山の戦いに敗れ房総に逃れた源頼朝が、家臣に命じ太東岬から1里ごとに矢を立て、99本目で刑部岬に達したという伝承から、「九十九里」と言われるようになったとされ、中央とされる山武市蓮沼ハには箭挿神社がある。またその故事に因んで、「矢指ヶ浦」とも呼ばれる。


 沿岸の栗山川/椿海水系には、日本全体の40パーセントに相当する80例にのぼる丸木舟の出土があり、万葉集に詠まれた海上潟は下総国の海上郡にあった潟ともされ、九十九里浜は香取海とともに危険な犬吠埼沖を通過を避けて設定された、四国・近畿地方から東北地方を結ぶ水上交通の要衝であった。北東側の下海上国造の領域には、古墳時代当時の海岸に面した高台にしゃくし塚古墳、北条塚古墳、御前鬼塚古墳などが築造された。その後、壬申の乱に敗れた大友皇子の妃耳面刀自媛が父藤原鎌足の故地鹿島を目指し上陸したが、病に倒れ亡くなったといわれ、匝瑳市野手には媛の墓とされる内裏塚古墳がある。


 また平安時代、アテルイに敗れた征東大将軍紀古佐美が真光寺を建立、征夷大将軍に任じられた坂上田村麻呂は蝦夷征討の途中松崎神社に参拝したと伝えられる。天慶2年(939年)、承平天慶の乱に際しては、寛朝僧正が難波津から下向している。なお、奈良時代東国巡錫のおり行基が海難防止のため一宇を建立したことに始まり、平安時代に空海によって改修されたと伝わる不動院長勝寺は、その後に幾度かの改修を経て維持され続け、文化遺産として現存している。


 東京湾側に比すべきではないが、多くの貝塚などの遺跡が分布し、横芝光町にある縄文晩期の姥山式土器の標式遺跡である山武姥山貝塚は、縄文中期から晩期にかけ2500年にわたって続いた村であり、200体以上の人骨とともに骨角器のペンダントや腕輪など多数の遺物が出土した茂原市の下太田貝塚も縄文晩期まで続いた「死者の谷」とされ、長期かつ永続的な営みが認められる。また、丸木舟の出土数は突出しており、古くから水上交通を通した文化圏が形成されていたとみられている。


 5世紀以前、この地域は、現代の千葉県中部から茨城県、埼玉県、東京都にかけての一帯を支配した「大海上国」ともいうべき勢力圏の一部であった。6世紀に畿内の大王の有力な外戚である和珥氏の一族武社国造が進出、大海上国は上海上国造と下海上国造に分割され、衰退したとする考えもある。文献史料によるものとして、正史である『日本書紀』卷7景行天皇40年10月の条は、日本武尊が「海路をとって葦浦を廻り、玉浦を横切って蝦夷の境に至った」とし、茂原市本納には弟橘媛を祀る橘樹神社がある。また『続日本後紀』承和2年(835年)3月16日条の物部匝瑳熊猪改姓記事には、「昔、物部小事大連、節を天朝に錫し、出でて坂東を征す。凱歌帰報。この功勳に籍りて下総国に始めて匝瑳郡を建て、……」とあり、日本武尊東征のほか物部氏も進出したとされ、小川台古墳群を物部氏の奥都城とする説もある。『日本書紀』卷18安閑天皇元年(534年)4月1日条には伊甚屯倉献上の記事があり、南側の夷隅郡市を中心とする地域に屯倉が設けられたが、九十九里浜南部の地域も屯倉に含まれていたと考えられている。


 古墳時代が終わり仏教が導入されると、下総国では現在の匝瑳市に大寺が置かれた。匝瑳市大寺にある龍尾寺には香取海上流の龍角寺とともに印旛沼の龍伝説が伝えられ、古代の官寺があった地であることをものがたる。また奈良時代上総国では、宝亀5年(774年)に上総介となった藤原黒麻呂が、現在の茂原市付近の牧を開発、初期荘園藻原荘が成立している。


 平安時代になると、坂上田村麻呂や文室綿麻呂による蝦夷征討後は、小事の子孫とされる物部匝瑳氏が、足継・熊猪・末守の3代に亘って鎮守将軍に任ぜられ、この地は陸奥国への要衝であり朝廷の蝦夷経営の拠点であった。また、寛平元年(889年)、宇多天皇の勅命により平姓を賜与され臣籍降下した平高望は、昌泰元年(898年)に上総介に任じられ子の良兼ともに上総国に下向、武射郡の屋形を本拠とした。なお、当時の上総国の国府は茂原市付近にあったとされる。奈良時代に藤原黒麻呂が開発した藻原荘は、曾孫の菅根等によって寛平2年(890年)興福寺に寄進された。この功績の他、菅根は左遷を諫止するため参内しようとした宇多上皇を内裏の門前で阻み、菅原道真の大宰府左遷に果たした功績もあり、後に参議に任じられ公卿に列するが、雷に打たれて死亡。「道真の祟り」と噂された(清涼殿落雷事件)。


 雷が遠くで鳴っている。嵐になる前に宿に戻らないと……。

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