第40話 人違い?
――チョコレートマフィン、渡した?
誰かがそう言った。
それは辛うじて思い出せた前世の記憶。
バレンタインの翌日の放課後、憧れの先輩の様子を見に行こうとしていた時に背後から声をかけられて、びっくりして振り返った。廊下を歩いていたわたしに問いかけてきたのは、見覚えの男子生徒の姿。
「ええと……ああ」
わたしは一瞬固まった後、我に返って頭を掻く。「何のことかよく解らないけど」
そう笑って誤魔化しながら、逃げるようにその場を離れた後、彼――さっきの男子生徒の名前は何だったっけ、と首を傾げる。
そうだ、遠藤……何とか、って言ったっけ?
っていうか、何で知ってるんだろ? わたしが昨日のバレンタインに、先輩に告白しようとしてたこと。
見られてた? わたしがチョコレートマフィンを持って、昨日、うろうろと歩き回ってたこと。そして先輩が他の女の子にチョコレートをもらって、笑顔になっていたのを遠くから見て、軽くショックを受けて逃げ出したことも。
『遠藤、さっさと来いよ』
そんな台詞が頭の中に蘇る。
前世のわたし――末松亜季は、ある日の夕方、学校から下校しようとしている時に見てしまったのだ。痩せた少年の腕を引いて、学校の外に向かう男子グループの姿を。
痩せた少年が、助けを求めるように辺りを見回す。
でも。
近くに女生徒たちが数人いたけれど、関わりたくないのか目をそらして足早にその場を離れていく。
まあ、正直に言うとそれは責められない。その男子グループが何度か気弱そうな男子生徒からカツアゲしているという噂があったし、逆らったら暴力で黙らされるんだって言われてた。だから今回もそうなんじゃないかって誰もが思っていたはずだ。
誰もがとばっちりを食らうのが厭だと思う中で、わたしがそのまま職員室に向かって『報告』した。いじめを受けてる男子生徒がいるって。
でも、わたしが先生に言ったことを黙っていて欲しいともお願いした。
やっぱり彼らに逆恨みされたら怖いし、その辺りは……小心者だもの、わたし。安全な場所に立っていたかった。
それで。
結局、その男子生徒たちは親を呼ばれることになったみたいだ。まあ、親も親で、「うちの子がいじめなんかするわけがない」とか「カツアゲとか誰が言ったんだ、目撃者はいるのか」とか言っていたみたいだけど、先生たちはわたしの名前は出さないでいてくれた。
それで、最終的には厳重注意を受けて、次に同じ問題を起こしたら退学だって言われて大人しくなったみたいだけど。
まあ、いつまで大人しくしていられるかは怪しいよね。
「あの……君が助けてくれたって先生が言ってたけど。その、ありがとう」
その数日後、遠藤君がそう言ってわたしに声をかけてきた時、彼の腕や頬に痣があったのが見えたから、きっと暴力を受けたんだろうな、と眉を顰めた。
っていうか、被害者には伝えたんだ、わたしの名前。
出してくれなくてよかったのに。
ちょっとだけ、そこは不満。
「どうしてもお礼を言いたくて。あの時、先生に言ってくれなかったらもっと酷いことになってたはずだから」
彼は思いつめたような表情でそう言い、わたしに頭を下げてくる。こんな真剣な表情されたら、先生だって秘密にはしていられなかったのか。確かに、わたしが彼の立場だったら、助けてくれた人にお礼は言いたいかもしれない。
そこで、わたしは慌てて手を振って見せた。
「ううん。わたしは本当に大したことしてないよ。それにほら、ああいう時は権力を使うの。わたしの場合は先生に言っただけなんだし、だから気にしないでください」
権力を使うのはお父さんの教え。
わたしが笑いながらそう言うと、遠藤君は驚いたようにわたしを見つめ直した。
遠藤君は神経質そうな顔立ちをしていて、肌も白い。あまり健康そうな見た目ではないし、例の問題児たちも簡単にカツアゲできると考えたのかもしれない。
でもアレよ。
最終的には正義が勝つ。
そうよね?
……実際には、正義が負けることが多々あるんだろうけど、悪に勝たせたらいけないって思うもの。
「……そうか」
そこで、遠藤君は茫然と呟いた。
どこか、目の焦点が合っていないような感じで、急にわたしは怖くなった。
「やっと見つけた」
彼がそう呟いて、小さく笑う。「同じだ。君の台詞。君が、いや、あなたがジェシカ様だったんだ」
「は? え?」
「ずっと探していたんです。同じ世界に生まれ変わりたいと思って、もう一度出会えば解ると思って、立場が変われば僕たちも結ばれるんだと思って」
「え? えーと、何?」
わたしがじりじり後ずさりつつ首を傾げていると、どこか歪んだ笑みを浮かべた彼がわたしに手を伸ばしてきた。
「やっと見つけた」
やべえ人だ。
わたしはその場で勢いよく踵を返し、ダッシュで逃げた。
何だかよく解らないけど、ああいうのを中二病って言うんだろう。精神的にどこか遠くの世界に行っちゃってる人のこと。
大体、ジェシカ様って誰。
だって、それって外国人の名前でしょ? それともアニメか小説のキャラ? 何なの? わたし、バリバリの日本人よ? どこからどう見ても外国人には見えないよ?
いや、やべえ電波を受信している人なのかもしれないし。
偶然彼を助けた立場だけど、わたしはその後、彼に近づかないようにした。
だって怖いもの。
それに、わたしは憧れの先輩がいるし、他の男子生徒とは仲良くしたくないのだ! 誤解されたら訴えてやる!
そんな危機感の薄い考えを抱えつつも、わたしはその後、平穏な学校生活を送っていた。
だから気づかなかったんだ。
遠藤君が、わたしのことをずっと遠くから見ていたこと。
いや、観察していたこと。
わたしが『あの日』、見知らぬ誰かに襲われた直後、彼が『偶然』わたしたちの前に姿を見せた時は本当に何が起きているのか解らなかった。
多分、それは偶然じゃなかった。
彼はわたしの後をつけていたんだ。まるでストーカーみたいに。
そして。
二人の男がわたしを車に引きずり込もうとして、暴力を振るう。
地面に倒されて、それでも必死に逃げようとした。そこで、『彼』はわたしを助けようとしたんだろう。偶然を装ってわたしを助けて、ヒーローになりたかったんじゃないのだろうか。
でも、その前に一人の男がナイフを振り回した。その刃がわたしの喉元に当たって。
それから。
混乱する思考と、辺りに響く怒声。
気が付けば、誰かがその二人に向かって暴れている。
暗闇に見えた人影は、二人の暴漢に対して攻撃を与えていて、彼の手にはナイフが煌めいているのも解る。そしてその素早い動きが、妙に慣れているように思えた。何の躊躇いもなく、相手の身体に何度も突き立てる様子は――。
これは、現実?
夢ではないの?
それが遠藤君だと気づいたのは、自分が死ぬのかもしれないって覚悟してから。
彼は起き上がることができないわたしを見下ろして、こう言った。
「……手遅れか」
何で。
どうして?
「どうして、こう上手くいかないんだ」
遠藤君は乱暴に髪の毛を掻き回して唸るように続けた。「今度こそは、僕がジェシカ様を守ろうと思っていたのに。これがチャンスだと思ったのに。僕がジェシカ様の運命の相手になれると思ったのに」
何を言ってるの。
怖い。
何が起きてるの。
「今回は助けに入るタイミングが遅かったんだ」
わたしはただ、暗闇に浮かび上がる彼を見上げ、それが……狂人のように思えて怖かった。その目つきが、声が、ぎこちない動きさえ。
彼は手にしていたナイフをその場に放り投げ、わたしの頬に触れた。
やめて、触らないで。
そう言いたいのに唇を動かすこともできない。
お腹に力が入らない。
「ジェシカ様。次こそは、失敗しません」
彼は歪んだ笑みを口元に浮かべて続けた。「次の人生では。次の舞台では。ジェシカ様の望む世界で、僕らはもう一度出会いましょう。ジェシカ様が望むような男となって、僕はもう一度……」
何なの。
何が起きてるの。
「次こそは、僕があなたの救世主となる。今回はタイミングを見誤ったけれど、次はちゃんとあなたを助けますから。だから、次の世界では」
厭だ。
怖い。
目の前の彼は。
わたしを……見殺しにした?
そこで急速にわたしの目の前が狭く、暗くなっていく。
死ぬんだ。何で、どうして。わたしは何か悪いことをした? 殺されるような、そんな悪いことを?
違うよね。
何もしてないはずだ。
いや、何もしてないから。だから死ぬのか。わたしはまだ何も夢を叶えてない。この日本で生きて、恋をして、就職もして、結婚もして、何かこの世界に自分が生きた証を残すことすらできないままで、そうやって誰の記憶にもほとんど残らないままで死んでいくなんて。
そんなの、そんなの、不条理だ。
「大丈夫、次の人生はジェシカ様が好きだった世界を選びますから」
暗くなった世界に、彼の声が――わたしの耳元で響いて、悪寒が走った。でもそれも、あっという間に消えていく。
それから。
「可哀そうにね」
彼――遠藤君とは違う声が暗闇に響いた。
それは、恐ろしいまでに静寂の中に明瞭に広がった声だった。普通の人間の声の響き方じゃなくて、何だか。神様か何かのような感覚だった。
「大丈夫、君から寿命は取らないから。君が単なる人違いで巻き込まれたものだから、珍しく同情してるのかもね」
見知らぬ誰かがそう言って、小さく笑う。
人違い。
人違い?
そんなことを思い出して、わたしは。
「ジェシカ様って誰なのよ!」
わたしはそこで、ウォルター様を睨みつけて叫んだのだった。
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