第24話 幕間4:ユリシーズ・ヴェスタ

「子供がいるのに浮気とか、最低な親だなぁ」

 明らかに軽蔑の感情を孕んだその台詞は、そこまで大きな声ではないというのに辺りにはっきりと響いたようだった。

「貴様……」

 父の低い声と、騎士たちの恫喝らしき言葉が頭上を飛び交った。茶髪の男は口元を楽しそうに歪めたまま、さらに何か言おうと口を開いた瞬間、ギルドの人間らしき他の男性がその口を背後から塞いだ。

「すみません、こいつ、血の気が多いんで! 後で血抜きして大人しくさせますんで、ここはひとつ穏便に!」

「ひゃなせ」

「やめろ、ギルド長に殺されるぞ。おいこら、噛むな!」


 あまりにも騒々しいので、だんだん僕は頭痛を覚えて目を閉じる。そうしている間にも、何度か聞きたくない言葉が僕に突き刺さった。


「とにかく、この化け物……呪いを解くようにギルドに依頼を出すから何とかするように」

「しかし、呪いを解く方法はありませんが……」

「解けなければ『それ』は化け物のままだぞ? 我が屋敷に置いておくわけにはいかない」

「うわ、最低」

「おま、黙れって」


 ――化け物。

 それは僕を指し示す言葉。信じたくなかったけれど、何故か父は僕のことをそう思っている。今まで、厳しいけれど確かに僕を愛してくれていた、と思っていたのに。

 僕が何とか目を開けて、自分の右手を目の前に持ち上げた。

 鋭い爪、うっすらと手の甲を覆っている黒い産毛のようなもの。今までの自分とは違う、人間とは思えないそれは――。


「呪いなんぞ、どうでもいいだろ。うちのギルド長だって熊だぞ、熊」

「ギルド長は関係ねえどころか、逆にあの見た目だから役に立ってるけどな。お貴族様ってのはそうはいかんだろ……」

「見栄か」

「貴様ら、煩いぞ! これだから平民は礼儀知らずだと」

「何だとこら。ケンカなら買うぞ、銅貨二枚くらいで」

 僕がのろのろと手を下ろし、ぼんやりする頭で必死に考えようとする。でも結局、そこで意識が遠のいていって、その後のことは曖昧だ。

 ただ、地面が揺れるような衝撃があったことだけ、うっすらと覚えている。


 後に噂で聞いたのだが、僕――俺が意識を失った後にひと騒動あったらしい。血の気の多い茶髪の男が父に食って掛かっていき、その場に飛竜に乗って現れたギルド長とやら――呪いを受けて巨大な熊の格好をした男が止めに入ったんだとか。

 そして結局、その場は一応の決着がついた。

 父はギルドに呪いの解明をするようにと依頼をかけたが、その依頼は何年たっても完結することはなかった。


 俺は呪い持ちの身となり、空っぽだった体内の魔力が回復すると共に、腕や足に現われていた獣の毛は消えたが、猫型の耳と尻尾は残ってしまった。

 父は幾度か、この耳と尻尾を切り落とし、治療魔法をかけることで人間の姿にしようとしたが、それも何度やっても元通りになることを確認するだけで終わった。


 そうしているうちに。


 俺の存在は侯爵家に取って邪魔なものになり果てたのだ。

 父は俺に話しかけるどころか見ようとしなくなったし、食事の場に呼ばれることもなくなった。使用人たちも呪いが移ると考えているのか、俺に近づくこともなくなった。俺は自分の部屋に閉じ込められ、会話する人間もいなくなったのだ。


 シェリーはあの後、赤ん坊を出産したんだという。その赤ん坊は健康な女の子で、どこかに養子に出されたらしいが、シェリーがどうなったのかは知らない。知りたくもない。ただ、父はやると言ったら間違いなくやる人間だ。シェリーに対して『処分する』と言ったのだから、何らかの対処をしたのだろう。

 俺はその頃には完全な人間不信になっていて、自分から屋敷の人間に話しかけることもなくなった。呪い持ちだからという理由で、それまで親切だった人間たちが一斉に笑いかけてくることがなくなったどころか、怯えたような視線を向けてくる。


 寂しいと思ったし、苦しいとも思った。

 だが、シェリーに暗闇の中で連れ出されたことが原因なのか、裏切られたと感じたことが精神的にショックだったのか、俺は女性を恐怖の対象として本能が認めてしまったらしい。近づかれただけで心臓が震え、冷や汗が出る。だから、女性たちから避けられるのはありがたいとも言えた。


 父が俺のことを侯爵家の恥と公言して憚らないことも、俺の精神をさらに追い込んでいったのだろう。

 俺は早々に諦めることができたのだ。

 侯爵家の跡取りとして、光の当たる場所を歩くことを。


 どうせ、いつか俺は父に見捨てられるだろう。俺より役に立つ男子が親類に生まれれば――いや、父が他の貴族の女性と新しい命を育めば、そこで終わりだ。あの見目の良い父のことだ、女性を落とすのは簡単だろう。


 正直に言えば、この諦めるという行為にはかなりの苦痛を伴った。

 俺は呪いを受けた時には親の愛情を欲する子供であったし、時折、無性に何かを攻撃したくなったり、自分自身を痛めつけようともした。悪夢を見て夜中に飛び起きることもあったし、それが厭で一晩中起きていることもあった。

 生きている目的を必死に考え、自分の呪いを解くために魔道具の研究に打ち込むことで、何とか立っていられるようなものだった。

 エーデルシュタイン魔法学園に通うことになった時、躊躇いなく学園の宿舎に入ることにしたのは、屋敷で暮らすよりもずっと楽だろうと思ったからだ。

 あの屋敷から逃げたかった。

 新しい環境で生活すれば、これからの生活が少しはマシになるかもしれないと考えた。だが結局、どこに行っても呪い持ちに対する人間の態度は変わらないと実感するだけだった。

 学園内で魔道具に関する研究が順調に進んでいることだけが、唯一の心のよりどころになっただけで。


 そんな中で出会ったのが、ディアナ・クレーデル男爵令嬢だ。薄紅色の髪の毛の、どこか庇護欲をそそるような儚げな外見の少女だったが、口を開くとその印象が変わった。どこか強かで、自分の意思がはっきりしている。

 最初は他の女の子たちと同じで、近づかれるのが怖かった。関わりたくなかった。

 それなのに、気が付けば――。


 俺は彼女のことを怖いと感じていないと気づいて、自分自身のことなのに驚いた。何故、どうして。どうして、彼女のことは怖く感じないのか。


 そして気づいたのだ。

 俺が恐れていたのは、俺を拒否する『目』だったということを。俺の存在を否定する奴らのことが怖かったのだ、と。


 だから、俺のことを嫌悪の目で見ないディアナ嬢が――苦手ではないのだ。


「正直、お前の両親が羨ましいよ」

 俺は彼女にそう言った。

 呪い持ちである彼女の父親は、幸せな家庭を築いている。

 彼女は、いや彼女の家族全員が、使用人たちですら、彼のことを呪い持ちだといって態度を変えていない。普通の人間として向き合い、普通の生活を送っている。

 俺が欲しかったもの、そのものだと言える。


 どうすれば自分も『そう』なれるのだろうか。

 彼女の父親みたいに強くなれるのだろうか。


 彼女の父親が、昔、俺に対する父の態度に怒りを見せてくれた茶髪の男性であったことはびっくりしたし、いつの間にか彼も呪い持ちになっていたことも予想外だった。

 だが彼は、呪いを受けても悲観していないし、むしろ呪い持ちの肉体を喜んで活用しているようにも見えるのだ。俺もそうなりたいと願ってしまう。強くなりたいと、呪いなんて本当にどうでもいいと思えるくらいに強くなりたい、と。


 そしていつか、あの父と対等にやり合えるようになれば、自分に自信が持てるだろう。いつになるか本当に解らないが。


「ユリシーズ・ヴェスタ」

 俺が放課後、学園の廊下を歩いている時に背後から声をかけられて足を止める。振り返ると、そこには背の高い白髪の教師が立っていた。ミルカ・ノルディン、エルフの血を引く男だ。

「何でしょうか」

 俺が眉を顰めて彼を見ると、ミルカは苦笑して見せた。

「いや、最近、ディアナ・クレーデル嬢と一緒にいるだろう?」

「何か問題が?」

 俺が警戒して低くそう訊き返すと、彼は軽く手を上げた。

「問題はない。君が彼女と一緒にいる分には、ということだが」

「……?」

「彼女は優秀な生徒だが、現在、SクラスからAクラスに落ちた。私は彼女を少しだけ気にかけているんだが、私以上に彼女に目を付けている奴らがいる」

「目を付けて――」


 それについては心当たりがある。

 俺が借りている研究室に彼女が飛び込んできた時、追跡用の魔法が扉にぶつかっていた。あの時は彼女に関わりたくなかったから、詳しく聞かなかったが。


「私が担当するSクラスに在籍していれば、それなりに監視できるんだが、今はそうではない。いや、別の人間は監視できるが……どうも、様子がおかしい」

「様子が?」

 ミルカ先生は何か懸念しているかのように眉根を寄せている。それを見ているうちに、俺も僅かに胸の中に不安が生まれるのを感じた。

「ですが、俺は学年が違いますから……ディアナ嬢を見ていられるのは放課後くらいですが」

 俺が歯切れ悪くそう言うと、ミルカ先生も困ったようにため息をこぼした。

「……確かに、同級生ならよかったんだが」


 ――同級生なら。

 俺は少しだけそれを残念に考え、そして残念に思ったことを驚いた。


 しかし、ミルカ先生がディアナ嬢を気にかけているのも意外だったと思う。ミルカ先生は教師として優秀だが、血が半分だけとはいえエルフ族ということもあって、どこか人間らしい感情を見せない印象があった。それなのに、ディアナ嬢には興味を持つというのが――少しだけ、何と言うか。


 その時生まれた不可解な感情を、俺は持て余していたのだった。

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