誤解
廊下に西日が差し込み、赤みがかった空が見えた。
学校に西日が差し込む時間にいるのは、自分にとって珍しいことだ。
というのも、ネットやYouTube、TikTokをスマホやタブレットでダラダラと眺めて、とりとめのない話をして過ごすのを日課としているコンピュータサイエンス部に所属しているからだ。
つまり、実質的な活動をしない部活なので、気が向いた時以外に部室に行くことがない。
廊下の窓から見えるのは額に汗する野球部やサッカー部の姿で、活気のある声が聞こえてきた。
自分は音に触れるシナスタジアの影響で四六時中、何かに体を撫で回される感覚が当たり前となっている。
慣れてはいるけれど、平気なわけではない。
運動部に入らなかったのは、掛け声や叱咤の声、疲弊と気合、様々な感触を鮮烈に感じるのが耐えられなかったからだ。
音に触れる能力は音量も少なからず影響する。
本来なら大きな声の聞こえる場所には行きたくないのだが……。
山下の元へ足早に向かう桧川ひらきのショートヘアーが小さく舞っていた。
「早くしないと、りえピンが帰っちゃうよ!」
軽くこちらを振り返りながら桧川が言った。
「はぁ、はぁ、わかってるよ。だからもう少しゆっくり走ってくれないか?」
普段、運動をしないから体力がないのだ。
「だらし無いなぁ。美術部の私より体力ないの?」
結局、桧川ひらきは速度を緩めることなく山下のいるテニスコートへ向かった。
なんというか、容赦がない。
テニスコートは2面あり、男子と女子で共用だ。それを約30人の部員で分け合って使っている。
いつも思うのだが、ダブルスで最大4人までしか使えないテニスコートに、こんなに人がいて十分な練習が出来るのか疑問だ。
テニスは金持ちじゃないとできないスポーツだと思う。
考え事は好きだ。音や声と違って触ることができないからだ。
そんなどうでもいいことを考えていたら、テニスコートの前まで来ていた。
ここまで来てとある重要な事実に気がついた。
「ねぇ、ひらき……さん」
「“さん”はいらないよ。ひらきで良いって」
『下の名前を呼ばせたがるハラスメント』……彼女の言動にそういう感想しか出てこなかった。
「……ひらき、ここまで来て言うのもなんだが、山下に何て聞くつもりだ?まさかと思うけど、『腕時計隠したよね?』とかストレートに聞かないよな?」
桧川ひらきも走ったためか、肩が少し上下している。多少は息が切れたらしい。
「……まあ、私に任せてよ。その辺は上手くやるから。それより、りえピンの声しっかり触っといてよ!」
桧川と話すようになって、まだ20分程度の関係だが、嫌な予感がする。
そうは言っても自分も何も考えずにここまで来てしまった。
「はぁ、はぁ、分かった。ひらきに任せるよ」
桧川の口元がニッとした。
『任された』ということらしい。
不安しか感じないのに、頼もしいという矛盾した感情が自分に芽生えた。
テニスコートは後片付けがほぼ終わり、スポーツウェアの山下がタオルで汗を拭きながら、部室棟へ向かうところだった。
「りえピン!」
桧川は何故か仁王立ちしていた。
「あれっ、ひらきちゃん……と、悟くん?」
奇妙な組み合わせに山下りえが疑念の混ざったザラついた感触の声を出した。
「りえピンに確認したいことがあって来たんだ。ねえ、藤井くん」
虚をつかれて、思わず適当に相槌をうつ。
「あ、ああ、そうなんだよ、山下、ちょっと聞きたいことがあってさ」
「うん、何? 」
汗を拭きながら山下がそう答えた。
変な間が三人を包んだ。
思わず、桧川に目を向け、『おい、早く聞けよ』……と、目線を送った。
桧川はキリッとした顔で小さく頷いた。
「コホン……ねぇりえピン。う、腕時計……知ってる? 」
「……えっまあ、腕に着ける時計のことだよね?……あれっ、そういう話じゃなくて?」
「…………」
気まずい静寂が3人を包む。
「ヘッ……ヘッタクソかぁー!!」
自分で自分の声に驚いた。思いの外大きい声が出た。
炸裂する自分の声をもろに食らった。危うくよろめきそうになる。
山下の目が真ん丸になり、口が台形の形になったのを見た。
桧川は桧川でぎょっとした顔でこちらを見ている。
いや、いや、いや。何だ、その顔。
ぎょっとしたのはこっちだよ。
「主語をつけろ、主語を! 」
ようやく、正気に戻った桧川が一言。
「りえピン、藤井くんの腕時計盗ったでしょ?」
さらに目を丸くする山下。
瞬きをするくらいの僅かな時間、自分の頭は真っ白になった。
「ちっっっがーう!い・い・か・た!」
また出た。大きな声。
まるで他人事のように感じた。
自分の方を向く山下。さらに桧川に向き直る山下。
キョロキョロと顔を交互に見ながら、山下も少し正気に戻ったのか、
「ねぇ、何?どいうこと?……ひらきちゃん……」
ジトッとした目で山下は言った。
「……いや、悟くん説明して」
ピンっと張り詰めた重い空気。苛立ちと冷静が同居したような圧だ。
薄暗くなり始めた夕暮れの空にカラスたちの声が響いた。どうやら、そろそろ帰ろうと相談しているらしい。
そもそも、カラスの声に触れるためにこんな場所まで来たんだっけ。
山下と変な空気になるために来たんじゃない。
もう金輪際、ひらきとは関わらない…。
そう心に決めた春の夕暮れだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます