第8話 butterflyeffect 8
Stormだと、とヨーセフが言った。
奥歯を噛み締めたとても聞きにくい声だった。だから彼が何かしらを堪えて発言しているのがよくわかる。
感情は多分、怒りだろうと思う。
「あの狂犬どもを呼び込む気か!」
導師アースィムは動じない。
鋭い顎に讃えた髭を更に鋭く、細い目を輝かせてヨーセフを見ている。
「知らないのか?!Stormだぞ!関わったものは全て死ぬ、全てを奪って消し去る、それがstormという集団だ!あいつらから何かを掠め取ろうと思うな、奴らは奪うことしかしない!」
「それ以外に何か手があるか?!」
導師アースィムが低く唸った。
ヨーセフも負けずに答える。
「だからこそ!ゴーストマンティスの確保が肝要だ!奴さえ捕獲すれば、この戦争も終わる!やつの手には、ウルタニア、ランドマリー両国の内政干渉の証拠があるんだ!」
「確保の為の弾薬や食料は?!」
荒く肩で息をしながら、ヨーセフは沈黙をした。
そして、肩が上下するリズムのまま告げた。
「ないのか」
導師アースィムの目がランタンの灯りの中で閉じられる。
「冬は越せないだろう」
広い額に手を添えて唇を結んだヨーセフは、大きな背中を上下させながら考えている。
真冬なのに、彼の額には汗が滲んでいた。
「ならば弾薬と兵、食料をかき集めろ。ハーディの手帳を確保するんだ!今すぐにだ!最悪、俺が停戦交渉を行なってもいい。もう無理だぞ、アースィム!このままでは皆死ぬ!」
「そうだ、死ぬのだ」
流れるような静けさで導師アースィムが続けた。
余りに自然な静けさだったので、僕は思わず導師アースィムに目を向けた。
祈りの前だ。
導師はいつも祈りの前に、あの静けさを漂わせている。
そしてそれは僕らを不思議と納得させてしまうんだ。
「もとより我らは死ぬためにレジスタンス軍を結成した。ウルタニアなどに我らの神、我らの規律、我らの文化を渡してなるものか。勿論、ランドマリーにもだ。イムワットの血肉は我らの同胞の血肉だ。決して渡さない。決して」
灯りの中を抜け出た導師アースィムは月のような面持ちをしていた。
暗くて鋭くて何処かに悲しみがあった。
きっとその場所にいた兵士と呼ばれる人は皆、導師アースィムにこそ跪いたろう。
僕もそうだ。
「………ランドマリーとて、装備の整った蛮族にすぎない。だが彼らは約束したのだ、内政干渉は行わない、と。ウルタニアはどうだ。必ず自身の神、女権という法を我らに押し付けるだろう。この地で育まれた全ての文化、知恵、命が無に帰する。我々はそういう戦いをしているのだ」
「そのくだらん意地のために死ぬのか!」
更に大きくヨーセフが吠えた。
「そんなものは早晩破壊される!変わらないものなどないのだ、アースィム!わかってくれ、重要なのは生き残る事だ!個人の生命だ!思想じゃあないんだ!」
「死ぬ事は悪いことか?」
後ろのイレさんが震えながら声を出す。
振り返ったヨーセフは苦悩した顔のまま、イレさんの言葉を待った。
「俺は、俺はもう死にたいよ。今すぐにでも。あんたが俺を殺してくれるというならそうしてくれていい。俺は、早くナディアとホープのそばに行きたい」
言葉を探して選んで、ヨーセフは絞り出した。
でも焦ってる。
「………あんたが、………あんたの感情がわからないわけじゃない……」
間違ってると僕は思った。
ヨーセフがイレさんの気持ちなんてわかるわけがない。
「同じじゃないか。この戦争が終わったって、俺は死んだも同然だ。じゃ、今死んだって、明日死んだっていい。ならせめて、二人の仇を取りたいと思うのは間違っているのか?それとも、俺の自殺に自分を巻き込むな、そう言いたいのか?じゃあもう、あんたは異教徒だ。あんたに俺や導師アースィムの感情なんて解りゃしない。感情を共有できない奴はもう仲間じゃない」
イレさんの棍棒みたいな銃から何かが外れる音がして、銃口がゆっくり上がっていった。
先にはヨーセフがいる。
「敗北主義者には、死を。早いか、遅いかだけの話だ」
導師アースィムが暗い声で言った。
円を描くように部屋の中に流れたのは、多分安全装置を外す音。
ヨーセフを取り囲む様に、銃が彼に向けられている。
僕は安全装置を外さなかった。
ヨーセフはよくしてくれた。
僕を大事に育ててくれた。
何よりも、僕とルルワの婚姻をイムワットに伝えてくれた。
「アースィム」
手を上げたヨーセフが今度は懇願の色を持って声を出した。
まるで最期の言葉みたいだった。
「ここは俺の故郷だ。故郷が栄え、世話になった人達が幸せに暮らす世界を俺は求めた。だからこそ学んだ。ランドマリーに留学もした。体も鍛え、軍人として恥じぬ様、自身を律し続けた!だが今は此処こそが異国だ!ならば俺は何の為にこの努力を行なってきたのだ!」
答えはわかっている。
「死ぬ為だ」
導師アースィムはその時、全く正しかった。
ヨーセフの大きな背中が、悲しみに萎んで小さくなった。
「皆、死ぬ為に生きるのだ。だからお前も此処に帰ってきたのだろう、ヨーセフ。死んでイムワットの国に行く為に」
アースィムの静かな言葉を聞きながら僕はそれを本当だろうか、と疑った。
死ぬ為に生きる。
なんて悲しいのだろう。
僕達はそもそも生きてちゃいけなかったのか。
死ぬ為、死ぬことを考えて生きる。
そんな詰まらない時間、導師様のお話の時間より退屈だと僕は思った。
けどきっと、ヨーセフには大切な時間だったんだろうと思う。
彼は俯いたまま立ち尽くして黙っていた。
僕からは握りしめられた震える拳が見えたけれど、他の大人達には見えなかったろう。
やがて息を吸って前を見たヨーセフは、導師様と同じ様な低く静かな声で導師アースィムに告げた。
「………わかった。出ていこう」
踵を返して彼は歩き出した。
向かう先はきっと、自分の部屋だ。
僕はヨーセフの背中を見つめていた。
見えなくなるまで。
見えなくなったら不安になって、足がそわそわと浮き足だった。
「ヤヒム」
導師アースィムの声が聞こえた。「彼の見送りを」
許可された足が走り出した。
ヨーセフの銃には届かない、棒みたいな銃を振りながらヨーセフの背中を追ったら、ちょうど自室に入っていくところだった。
緑色の重そうなコートの端が揺れて、ヨーセフが僕を見た。
見上げたヨーセフの表情はとても穏やかで、僕を見て柔らかく微笑んでいた。
「ヤヒム」
こっちへ来い、とジェスチャーをされたので、彼の足元まで歩いた。
自室の中から、大きなリュックを彼は引き上げて、僕へ渡した。
重くて腰が抜けそうになった。
「これは何?」と僕が聞くと、「食料だ」と端的に答えた。
こっそりリュックの隙間から中を覗きこんだ。
中にはいろいろな種類のレーションの袋が詰め込まれてある。
思わず上がりそうになった頬の肉を引き留めて、ヨーセフを見上げた。
そして言った。
「ありがとう、ヨーセフ」
ヨーセフはやっぱりあの穏やかな笑みを崩さない。
緑色の厚い生地のコートは穴倉の中の小さな光を反射して輝いている。
ヨーセフの大きな手が、僕の頭に添えられた。
そして言った。
「ヤヒム。俺の言う事をよく覚えておけ。これからお前は様々な選択をする事になる。常に正しい事を選べるとは限らない。その時正しいと思っていても、後から考えれば間違っていることなどよくある事だ」
ヨーセフの言葉が、僕の記憶からハーディを引っ張り出した。
彼を信用した事は間違ってたと思う。
間違っていたけど、僕達、僕と母さんには他に手段がなかった。
「だがその選択を行う際、一つの基準となるものはある。一つ、たった一つだ、ヤヒム」
そう言いながらヨーセフの高い背がみるみる縮んで僕の前にやってきた。
けむくじゃらの顎髭、反対に何にもないツルツルの頭。
太い眉に高い鼻に、綺麗な目。
腰を落として膝をついたヨーセフが僕の肩を両手で抱いた。
香ってきたのは穴倉の埃とそれにも負けない、緑色のコートの香りだ。
「その先に死を含む選択肢だ。それはどんな場合でも間違っている」
そう言ってヨーセフは僕を見つめた。
綺麗なブラウンの目が僕の様々なところを見て動いている。
ヨーセフの大きな手がまた僕の頭に添えられた。
静かな時間が過ぎて、やっと立ち上がったヨーセフが歩き始めた。
大きな背中はさっきよりずっとしっかりしてる。
ヨーセフ。
僕は語りかけたかった。ヨーセフ。
僕は、貴方みたいになりたい。
ハーディでも父さんでもなく、貴方みたいに大きな、強い人になりたい。
でも言葉は喉から出てこなくて、二人とも無言のまま僕達はこのアジトの出口に向かう。
アジトの外は、ヨーセフの予想通り吹雪いていた。
寒さに、ケルベラのコートをぎゅっと握りしめた。
ついでに冷たい銃身が僕のほっぺに張り付いて、僕の背筋を震わせた。
そんな僕を無視して、ヨーセフは歩いていく。
吐く息は白い。
夜は、暗い。
「大切なものがあったんだ」
ヨーセフは言った。
「守りたかった。お前を代わりにしたかもしれなかった。すまなかったな、ヤヒム」
なんとなくわかってたよ、ヨーセフ。
言葉が出てこない。
雪を踏むブーツの音と、雪を吹き流していく風の音が耳の奥で響いている。
「ルルワを大事にしろよ。俺には、出来なかったから」
ヨーセフは立ち止まって、僕を見た。
真っ暗な吹雪の夜だ。
あかりはヨーセフの持つカンテラだけ。
そしてヨーセフは十メートル前方に僕を見て佇んでいる。
色々な考えが浮かんだ。
ヨーセフ、逃げようよとか、ルルワと一緒に国を出ようよ、とか。
ヨーセフを処刑しない未来を考えたけど、僕にはいい未来が考え付かなかった。
この後、僕の銃は調べられる。
そして第二部隊が、ヨーセフの死体を確認して、凍った泉の中に沈める。
ヨーセフの死体がなければ今度は僕が殺される。
僕が殺されたら、ルルワは誰の所有物でもない。
ルルワは、きっと、僕が考えつかないような酷い目に合わされる。
カンテラがヨーセフの顔を照らしている。
覚悟して銃を構えた。
でも指が、指が動かない。
寒いし、何より、ヨーセフが、僕の、二人目の父さんが、微笑んだままだから。
「ヨーセフ!」
やっと声が出せた。だから、覚悟も決まった。
「後ろを向いて。顔を見てたら、撃てない」
ああ、と微笑んで、ヨーセフの大きな身体が動いた。
大きな背中。綺麗な緑色のコート。もじゃもじゃの髭。ツルツルの頭。優しい眼差し。チャーミングな笑顔。低くて優しい声。丸太みたいな腕。
僕達は、多分同時に呟いた。
「アーレーイムワット」
銃声の後、ヨーセフの身体が糸が切れたみたいに崩れて雪の中に埋もれた。
詰まる喉を、寒さのせいだと言い訳して、僕はアジトに身体を向ける。
それから二日後、僕達アースィム反乱軍は、傭兵ギルド『 storm』に支援を要請した。
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