航海先に発つ

彁山棗

一日目 オーロラ

 波はようやく穏やかになってきたようだった。既に辺りは暗くなっている。俺はぐったりと舵に寄り掛かった。

出向してからかれこれ二十二時間。体力は底を突きつつあった。

 状況はお世辞にも良いとは言えない。嵐に遭い、流されに流され、今はどこにいるのか見当もつかない。ノルウェー海のどこかではあるのだろうが、分かるのはその程度だ。

 おまけに無線は故障しているので、俺は外界と連絡する手段を何ら持っていない。

 俺は半ば途方に暮れた。実際、この状況をどうにかする手段を何一つ思い付かない。どうしたらいいのだろう。小さな船窓から夜空を覗く。


 思わず、息を呑む。

 空が緑に燃えている。


 オーロラは生まれてからずっと、飽きる程見てきた。もはや風景の一部だ。今更何の感動も無いと思っていた。

 でも、これは違う。

 今空に出ているのは、オーロラじゃない。光の音楽だ。

 何百、何千の光の柱が北極星に向かって伸びている。その一本一本が音色となって、一六〇人の超大編成オーケストラを奏でていた。

 常磐色のストリングスに黄金の金管が混ざり合い、木管楽器は青銅色、赤紫のパーカッションが光るーー。

 俺は暫くの間全てを忘れた。そして、違う銀河からやって来たかのような光の大合奏に見入った。

 不意に、子供の頃聞いたサーミ人の古い言い伝えを思い出す。


 サーミ人とは主にスカンディナヴィア半島に暮らす先住民の事だ。俺は祖母がサーミ人だったので、そういった伝承の幾つかを知っている。


 確か、オーロラは火狐があの世からこの世へ掛けた跡だ、というものだった筈だ。

 それなら、今日こうもオーロラが明るいのは、火狐が何やら活発に動いているのだろうか。死後の世界からやってくる伝説上の生き物は、一体何を思い、何をしているのだろうか……。


 はっとした。急に現実が帰ってくる。今はこんな浮世離れした事を考えている場合ではない。何だか自分が怖くなった。俺の脳はもう、生存を諦めてしまったのだろうか……?

 それにオーロラが明るく見えるということは、それだけ街明かり=陸から離れているということではないか。もしかしたら、想像以上に遠くまで流されてしまったのかもしれない。

 いずれにしても、呑気に遊覧船気分をしているべきではないことは明白だ。

 死ぬのは怖くない。でも、彼女を想えなくなるのは嫌だった。窓辺の小さな写真立ての顔が、優しく微笑んでいる。

 気を確かに保たなければ。この先一秒一秒に、生きて帰れるかどうかが懸かっている。漂流生活はもしかしたら、随分長引くかもしれないのだ。

 俺は舵を握り直す。真っ直ぐに生存に意識を向けようとする。

 でも、何だか……。

 天井からぶら下がった裸電球が、瞬いて見える。

 何だか、酷く……。眠い…………。

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