気の毒でもない話★★

2022年12月上旬

 二日前に父が勤務中に倒れ、救急搬送されたと母から聞いた。私がなかなか就活を始めないことに苛立った彼女との口論中のことだった。電話の向こうからすすり泣きが聞こえ、こちらはすっかり反抗の気を殺がれ、今月中にエントリーシートとやらを書くと約束してしまった。その日の午後は気分が萎えたままで、コーヒーをがぶ飲みしても趣味の散歩をしても駄目だった。最上階、角部屋、南向きという大学生にはもったいない条件の部屋に住めるのも両親のおかげだと帰宅後に気づいた。そして、この素晴らしい部屋の中で私は憂鬱を育てている。

 こんなことを書けばきっと読者は薄情だと思うだろうが、私は父のことが好きなのか嫌いなのかわからない。出張や単身赴任で家を空けていることが多く、家にいても私が目覚める頃に出勤し、眠る頃に帰宅した。一緒に食事を摂る時も父は子供達に学校での出来事や興味・関心について一切尋ねず、ビールを飲むのに忙しかった。我が子に構わないことを母に責められると、父はいつも決まった表情をこちらに寄こした。「俺達は言葉を交わさずとも通じ合ってるんだから、積極的に関われとか言われても困るよな」とでも言いたげな笑みを。しかし彼が実際に何を考えていたのかわからないし、何も考えていなかった可能性もある。彼は自分の両親に失敗した事業とともに借金を押し付けられそうになったことがある。その悪巧みに気づいたのは私の母で、彼女は夫が両親に愛されていないことよりもそれを当たり前だと受け入れている様子に驚いたそうだ。結局私達家族が祖父母の田舎を離れ、県外に引っ越すことになった。

 以来母の精神は不安定だった。父とは対照的に自分の両親とも兄弟とも仲が良かったので直接会えないのが辛かったのか。そうだとしても専業主婦だった時期にほぼ毎日電話を掛けていたことは今考えれば異常だ。子供の躾にも厳しく、食事中の姿勢だけでなく、例えば柄のついた茶碗を配膳する際にその柄が正面を向くように置くことを教えた。ゲームは土日だけ、一日四十分(キッチンタイマーで精確に計った)。放課後は遊びに行く前に宿題を済ませること(幸運なことに私も兄も成績が良かったので勉強や塾通いを強制されたことはない)。そして自分達の宗教を受け入れること。

 そう、「自分達の」宗教を受け入れること。母が人生で最も熱中したことだ。私は物心ついた頃から「おきよめ」や「祈言のりごと」、「御霊様ごれいさま」という語を大人達が真面目に用いる環境にいた。毎朝十分以上も正座のまま目を瞑って母から「お清め」を受けるなんて三歳児には難しい。でも神の加護を受けずに外出すれば大量の悪霊に取り憑かれるという。二十四時間しか持たない神の加護とは何だ。当時の私は何も疑うことができず、恐怖の、母の言いなりだった。彼女が本物の教義にどれだけ忠実だったのか知らないが、次の説明は傷つきやすい幼子の心を守る世界観としては最高のものだった。つまり、この世界に真の悪人は一人もおらず、成仏できない霊が生きた人に取り憑いて悪事を働かせるという説明だ。私が十三歳になるまで信仰を捨てることができなかった理由の一つでもある。

 兄は神のいない世界を早々と受け入れていた。そもそも私と違って彼は昔から健康でユーモアのセンスに恵まれ、学校では人気者だった。二歳年下の弟を揶揄ったり叩いたり命令したりして身に付けた、相手よりも優位に立つ技術が生かされた結果、全校生徒八百人ほどの中学校で一番の有名人になった。その影響力は弟にも及んだ。私が廊下を歩くだけで名前も知らない先輩から話しかけられ、全校集会中にトイレに行けば私の名前が囁かれ、同性の同級生からはやっかまれた。不特定多数の視線に晒されるこの環境が怖いと相談した時の母の言葉が今も忘れられない。「私も姉の友達から随分かわいがってもらったし、あんたもそうなんでしょう。喜ばないと。めったにないことなんだから」そうだ。めったにないことだ。ダンバー数に収まりきらない好奇の視線に晒されるなんて。よりによって秘密を抱える人間が。

 私は夜尿症だった。目覚めと同時に知覚するのはパンツを濡らす屈辱の冷たさだ。掛け布団を濡らさないよう慎重に蹴り上げ、特別に敷いたシーツに染みがついていないか確認する。それが終われば浴室に行き、浴槽から昨晩の残り湯を掬って汚れたパジャマのズボンとパンツを洗うのに使う。隣の洗面所で顔を洗う兄が笑っているのをよく聞いた。まもなく下半身丸出しの弟が出てくるのだから愉快でたまらなかったろう。台所で朝食を用意する母は私を見て溜息を吐き、「いつか治る」と言い続けた。全然治らなかった。「治す気があるのか」と責められる日が増えた。母は神に熱心に祈り、私にもそうするように言った。小児科や泌尿器科に連れて行ってくれたことは一度もない。中学一年生にもなって毎日漏らしていたのだからいい加減息子が普通でないことを認めるべきだった。が、母は妥協案として効果があるのかわからない柿の葉茶を飲ませ、苦労して手に入れた山羊肉を食わせた。それらも効かず、通販でおねしょアラームを購入した。これはパンツに取り付けたセンサーが尿の水分を感知すると、線でつながった機械からアラームが鳴る仕組みの装置だ。この装置は二つの事実を明らかにした。まず、私は午前一時台と夜明け頃の二回寝小便をしていること。そして私の部屋からリビングを跨いで両親の寝室まで届く音量のアラームが耳元で鳴り響いているにもかかわらず、私が目覚めないことだ。気絶に近い睡眠を取っている傍証があった。手足が冷えやすく頻繁に痺れること、立ち眩みを起こすこと、筋肉がつかず痩せていること。しかし血流に問題があるかもしれないとは誰も考えず、精神の問題に結び付けたがった。実際に精神の問題でもあったからだ。

 失敗しない人間などこの世に一人もいないが、一日の始まりとともに敗北感を味わう人間は少ない。しかもそれが幼稚さと結びついている。学校で新しいことを学んでも成長している気がしなかった。漢字コンクールで満点を取り続けたことで、厳しいことで有名な担任に褒められ、同級生に羨ましがられた時も私は彼らに勝ったとは思えなかった。やがて夜がやって来る。眠るのが恐ろしい。ベッドに入ってから一、二時間は寝付けない。そのまま日が昇るまで眠らず、漏らさなかったことを母に褒めてもらおうかと考える。いつの間にか気を失い、いつの間にか内腿が濡れている。小学五年生のキャンプには参加しなかった。出発の日の朝、アパートの下から何の事情も知らない友人が私を呼んだ。珍しく家にいた父が息子は風邪を引いてキャンプには行けないと説明しに下りた。学校では模範的な児童として通っていた私を当然のように班長に指名した担任はドタキャンに抗議した。六年生になっても担任は同じ人で、さすがに二年連続で宿泊研修を休むと怪しまれそうだと家族で協議し、修学旅行には参加した。同室の五人の同級生が雑談に興じている隙にトイレに籠り、生理用ナプキンを装着して部屋に戻った(月経については驚くほど何も知らなかった)。中学一年生の夏にもキャンプがあり、これは休んだ。同級生も馬鹿ではなかったので、キャンプを二度休んだ理由を尋ねる人もいた。随分苦しい言い訳をしたことだろう。

 以上のように私は自分が他より未熟で劣っているという意識に囚われていた。それは日々神に奏上する祈言のように反復され、私の精神の核として保存され続けた。自分との類似点を見つけることで他者を理解するというやり方に慣れていた私はその分周囲の変化に気付かなかった。同級生は恋をしていた。以前のように恋は恥ずべきもの、悪いものだという考えをほとんど捨てて異性と交流し、同性には辛く当たった。ある日隣の席の女の子が飼育しているトカゲの話を聞かせてくれていた時、傍を通りかかった別の女子が「二人は付き合っているのか」と尋ねた。今思えば単なる質問だったのに、当時の私は本気で侮辱されたと思った。それから爬虫類好きの女の子とは話さなくなった。男子はもっと質の悪い悪戯を仕掛けた。私が違うクラスの全然知らない女子と恋人同士だという噂を流したのだ。ただでさえ兄のせいで色んな人間から一方的にジロジロ見られるのに。私は数学の授業中に犯人の後頭部目がけて消しゴムを投げ、教師から指導を受けた。

 友人の中学デビューに泣かされたこともある。彼は一番遠いクラスでクールなヤンキー(?)的なキャラを確立していて、二年間ほぼ毎日遊んだ仲なのに、「馴れ馴れしく話しかけてくんな」とマジな調子で言った。冗談だと思って揶揄うと、制服を掴まれ、気付いたら軽く首を絞められていた。誰かを信じられなくなって涙を流したのはこの時が初めてだ。

 剣道部の部長とも上手くやれなかった。その原因はよくわからない。剣道に対する熱意の差、実力差、過酷な練習に対する忍耐力の差、性格の相性。兄の同級生である三年生の先輩が二年生の部長より私を気にかけていたこと。厳しい顧問が私の忍耐強さ(母仕込みの抑圧)を褒めてみせたこと。私が何か粗相をしたのかもしれない。あるいは私と無関係なことで虫の居所が悪かったのかもしれない。

 とにかく、学校は居心地の悪い空間だった。せめて部活だけでも辞めさせてくれと母に頼んだが、却下された。中学生は部活に入らないと不良になるから駄目らしい。こんな一般論に納得した自分が恥ずかしい。勉強するのは楽しかったが、授業の速度が遅い気がした。この違和感も無視した。深く考えれば考えるほど母の常識からかけ離れた結論に行き着きそうだった。不登校よりも自殺が手近に見え、心臓が痛くなり、私が死んだら兄の迷惑になるから止めようと思い直した。剣道の踏み込みでできた足指の肉刺まめから血が流れ、白い靴下を汚した。

 そうして十三歳の誕生日を迎えた幼児は神を見限った。神の御座所と仰いだ彼方に見つけたのは虚無。奉げた祈りは空しかった。悪霊のいなくなった地上も随分と汚れた場所に見えた。人は悪意を持ちうる。自分の意志で怒り、敵意をみなぎらせ、害する。信仰を捨てる前と後のどちらが快適な世界なのかは今もわからない。ただ、私を見詰める視線が二つ(母の宗教では二柱居られるようなので)消えたことで、ほんの少し気が楽になった。

 剣道部も辞めた。最後の練習の日、いきなり私の退部の旨を知らされた部員達はそれでも妙に納得して、しかるべき言葉を掛けて帰った。ある女子の先輩は目を潤ませて私を抱き締めた。他人であり異性であり先輩である人の抱擁は中学生として生きるために必要なレベルまで自尊心を高め、ほどなく寝小便をしなくなった。


 今では詳細に思い出すことがめったにない惨めな過去を述べ立てたのには訳がある。大学生になってから起きたいくつかの出来事がそれらを別の光の下で見るよう促したのだ。昨年の秋、母方の祖母が亡くなった。数年前に頭を打って入院してから記憶があやふやで、そろそろ死ぬと言われ続けた祖母が。そうなんだ、と納得し、私はその日大学で受けた講義の内容と最近の読書の傾向をするする語った。当時も今も執筆中の小説の主題についても何か言った覚えがある。電話は無言で切れた。数日後に改めて私の薄情を責める電話が掛かって来たが、その時初めて宗教は彼女が死に備える役に立っていないことに気づいた。今も思い出せる若干の教義に依ると、善良なご先祖様はその子孫の守護霊を務めるそうなので、毎朝三時から祈言を唱え、平和と安寧を求めた祖母は母の傍にいることになる。そういう慰めを買うために入信したのかと思っていたのに、反応は全然違った。

 今年の夏の出来事もショックが大きい。父の運転でクロワッサン専門店に行った時のこと。駐車場はどこも埋まっていて、店内から客が出てくるのを待つ状態が続いた。この店は普段あまり混まないらしく、予期がはずれたと母は助手席で舌打ちをした。舌打ちをするのはいけないことだとして子供達に禁止したのは母だった。彼女は弁解しなかったし、悪びれてすらいなかった。やっと客が出てきたが、急いで車を発進せず、中でクロワッサンを食べ始めた時、彼女は悪態を吐いた。自分の母親の死に狼狽えている姿より醜いと思った。宗教とは、誰にとっても避けられない死に恐怖する心を宥めるための教えであり、血の繋がらない人々にも寛容であるための教えではなかったか。心を豊かにするために信じる嘘ではなかったか。祈りを奉げた歳月の腐臭で吐きそうだ。

 母にとって宗教は離れて暮らす親族や過去との絆を感じるための道具でしかなかった。父や私達兄弟に押し付けた「家族の形」は幸せだった幼少期への固執だ。親が子を愛し、子が親を愛す。自分が慣れ親しんだパターンを私達相手に反復しようとした。その際個性なぞ残酷なほど切り捨てられる。父がその両親に好かれず、祖母に世話されてきたことも自分の姑からの嫁いびりとして聞かされ、十分知っていたはずなのに、父が自分の過去を反復することには反対した。

 父と母はよく言い争い、幼かった兄は友達付き合いに慰めを見出した。もっと幼く、人一倍劣等感にまみれ、外に出たがらなかった私は母の愚痴に付き合わされた。寿命が許す限り幾夜でも越えて行ける才女のしつこさで語られる物語むかしばなし、とりわけ化け物しうとめが登場する話は「悪霊理論」を挟まなければ心がもたない。悪霊のせいにできなくなった今、父の親族は悪い人達ばかりで、父自身も親失格のろくでもない男ということになる。父の父は「孫にお年玉をやる夢を見たから」と言って大学生になった私に三万円をくれた。しかし彼はその同じ手で過去に自分の息子に、私達家族に借金を押し付けようとしたことがあるのだと思い出す。母の顔が見れなかった。

 私は十九歳になるまで父の誕生日を知らないと言って通した。我が家でその日を祝ったこともあったのかもしれないが、全く思い出せない。毎年誕生日から一週間ちょっと経過した頃、母が何気ない口調で「そういえばこの前お父さんの誕生日だったこと気づいた?」と訊き、「気付かなかった」と私が返すのが二人の儀式だった。兄は欠かさず贈り物をしていたというのに。


 書いているうちに思い出したが、保育園に通っていた頃は父のことが好きだった。兄が喘息で数日ほど入院していた期間に私を園まで送り迎えしてくれたのは父だった。二人だけの朝食でチョコチップ入りスティックパンを好きなだけ食わせてくれた。兄の退院日に園まで迎えに来たのが母だとわかったときには特別な時間が終了するのが名残惜しくて泣いた。この涙を母は自分と会えなかったのが淋しかった証拠だと何年も(今も?)誤解したままで、私が増え続ける語彙で何度訂正しても駄目だった。私は高校生になってからもこの出来事をほじくり返した。


 相変わらずネガティブに神経質に生きている。それなりに偏差値が高い大学に入り、好きな分野を学んでいるが、キャンパスライフはさっぱり駄目だ。他の学生と並んで歩くのさえ恥ずかしく、早々に一人を選んだ。共学出身者特有の気取り、異性に媚びる感じ、聞えよがしの悪口、大して面白くない人間同士でつながっていること、貧弱な考えに華やかな声を纏わせる感じ、インターネットミームの乱用、テンションの乱高下、講義に対する的を射ない批判、感情の吐き癖、議論好きな学生達は今日も世界の変革にご執心。なるべく他の学生の会話を聞きたくないからキャンパスに出かける時間が遅くなった。当然遅刻も増えた。そのまま授業をすっぽかし、水溜まりの縁の煌めきを見つめて現実逃避することもある。そのうち出席率が危うくなり、渋々出向いた講義室には愚痴が、悪口が、下品な笑いが溢れていた。日本語もまともに喋れない日本人が英語の習得も諦め、第二外国語に手を出すことに何の意味があるのかわからない。嫌な考えがぐるぐる回る。海外の映画のセリフを翻訳して字幕を付ける楽しい授業も同じグループの学生が頻繁に作業を中断し、その場にいない先輩の悪口を言い散らすので進行が遅い。帰宅後発散しようのないストレスをそれでも発散しようとして自慰に手を出す。貧血を起こしたのか体が痺れ、気絶するように眠る。次の日には動悸がする。横断歩道をふらふら渡る。どうして目には目蓋があるのに、耳を塞ぐには両手が要るのか。遠いご先祖様が生き残るために役立てたゴシップ脳が私にヒトの声を聞かせる。気を逸らすためには音楽が必要だとわかった。昨日はウォークマンでインスト曲を流しながらホフマンスタールの詩を一つ訳した。


 ようやく母は次男が特殊な人間であることを受け入れた。世の中の大多数が普通の人間だからそちらに合わせるよう言い添えて。そうだ、平凡な人間が多数派なのだ。平凡であることは悪いことじゃない。それは理解者に恵まれているということだ。語らずとも通じることが多い。考えずとも上手く行くことが多い。自己弁護やら自己表現やら有能の証明に追われる少数派とは違う。マイナスから一日を、人生を始めることもない。

 お前の母は毒親か。そう尋ねる人があればこう答えよう、彼女は他者の境遇を思う熱意と冷静さと想像力を欠いたただの凡人だ、と。

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