玉ねぎの皮★★★

「暇なら玉ねぎ剥いてくれない?」

 母がキッチンから声を掛け、僕ら姉弟は顔を見合わせた。姉が何を考えているかなんて普段ならわからないはずだけど、今回はわかった。

「姉ちゃんが『暇してるからやりたい』だって」

「言ってないわよ、そんなこと」

 彼女がソファからぱっと身を起こして否認した。それから顎をしゃくって意味不明な合図を送り続ける哀れな装置となり果てた。

 ほろり、と心で涙を流す僕。弟としての義務感で。UFOキャッチャーのアーム並みにおとうとい働きをした僕は読書を再開した。

「あんたも暇なんだからやってきたら? というか、やってこい。ほらいけ」

 いけいけいけと、水辺が恋しい蛙を真似て鳴く姉に被せて母が叫んだ。

「どっちでもいいから早く」

 リビングの角で三角座りしている僕からは見えないけど、母はそろそろサラダ用の野菜を切り終えるのだろう。今日の晩飯はカレーだと聞かされていた。昼食中にいきなり次の食事の献立を紹介された時は、我が親の頭の中には食べ物のことしかないのかと呆れていたけど、まさか手伝いの要請だったとは。しかし、だらしなく生きているだけの姉と違って勤勉な弟には知識を蓄え、成績を上げ、一流大学に進学し、卒業後は大企業に入社するという将来設計がある。今はページをめくる手を止めることができないけど、きっと未来の僕がふんだんに親孝行してくれるよ。だからさ、向こう十年は手伝いを免除してやってもいいと思うんだ。

 中学生には似合わない、大人びた考えを育てていると、ページに影が落ちていた。至近距離で姉が邪悪な笑みを浮かべている。こちらが悲鳴を上げる間もなく本を取り上げ、キッチンを指差しこう言った。

「私がしおりの役をするから、皮むいてきなさい」

 世にも奇妙な怠け者! 檻に入れて見世物にしたい。が、そんな思いもぐっと堪えて僕は立ち上がった。

「今度アイス奢ってね」

 やっぱり僕はクレバーだ。「海老で鯛を釣る」を実演するなんて。我ながら末恐ろしい。


 僕が駆け引きの才能の片鱗を示してから二か月が過ぎた。その間玉ねぎの皮むき代行を二十三回こなした。どうして正確な回数を覚えているのかというと、姉に対する貸しは全てノートに正の字を書いて記録しているからだ。彼女は馬鹿だから借りを実際よりも少な目にしか覚えておけない。弟だから許してやれないこともないけど、たるんだ意識と貧弱な記憶力の犠牲となるのは何も僕一人ではない。彼女は中学校では色物キャラとして先輩からも後輩からも声を掛けられる。今のところは好意を向けられているようだけど、いつ連中が手のひらを返し、牙を剥いてきてもおかしくない。そうならないためにも人から受けた恩を忘れずに返す習慣をつけるべきなのだ。全ては姉のため。僕は心を鬼にする。どうかな。わかってくれた?

「いや、わかんないけど」

 斜め前で弁当を食っていた増田尚樹が答える。彼が「こいつの言ってることわかった?」と他の班員に振ると、田中と鈴木が「さっぱり」とハモる。

「てゆーか、先輩って馬鹿だったの? 二年生の中じゃ成績上位だって聞いたけど」

 僕は奴の問いが想定済みの質問リストの一個目と合致したことを喜びつつ、「試験監督は生徒の袖の蔭まで確認しない」と返した。腕に公式やら英文の和訳やらがひしめいている光景を想像してはっとしたのか、鈴木が口に手を当てた。まずは一人目。

「そんな手口何度も通用しないわ。それに追試や謹慎のリスクを背負ってまですることじゃないし」

 隣の席の田中が口に物を含んだまま言った。友達の目を覚ますためなら自分の品位を下げることも厭わないその姿勢、嫌いじゃない。寧ろ好きだ。惚れ惚れする。田中オブザイヤー。今年のクリスマスは我が家に来ないか? そこで表彰してあげるよ。

 しかし、まもなく「皮むきごときで貸しだなんて、青木も器が小さいわね」とクチャクチャ聞こえてきたので、浮ついた心も地に墜ちた。

 そうこうしている内にお昼の校内放送が佳境に入った(実は始めから流れていたのだけど、僕はなるべく意識しないようにしていた)。お悩み相談のコーナーだ。今回匿名の生徒から届いた悩みはダイエットに関係することで、どうも運動がきつくて続けられないらしい。

〈この生徒は文化部なのでしょうか。う~ん、よくわかりませんけど、少しずつ挑戦してみては? 少しずつ食べる量を減らして、少しずつ運動強度を上げて。そうやって気長に自分の限界を高めていけば痩せるかもしれませんね。私だったら弟を引っぱたくところから始めてキック、関節技という具合に……〉

 爆笑が起きた。普通に放送事故じゃん、というツッコミが掻き消えるほどの。教室中から集まる視線がこそばゆい。僕は咄嗟に弁当箱を持ち上げ、存在しない米粒を掻き込んだ。ざわめきが収まるのを待って箸を置くと、増田のにやけ顔が目に入った。

「お前ら、ほんと仲良いよな。羨ましい」

 怨めしいよ、放送室の女が。今日までのツケを払い次第くたばってしまえ。


 火葬の段取りを復習しているとあっという間に放課後がやってきた。昇降口に行き、怨敵の靴が残っていることを確かめた復讐者は細く安堵の溜息を漏らした。そして壁に凭れかかり、運命の瞬間を待った。

 仇は来た。左右にお供を侍らせているが、見たところ弱そうだ。やれる、やれるぞと、己を鼓舞し、ズボンのポケットから尖りに尖った鉛筆(道中何度も腿を刺した)を取り出そうとした時、連れの片方がこちらに気づいた。

「弟君じゃ~ん。どうしたの。お姉ちゃんに用事?」

「用事っていうか、その、えっと……」

「やっぱ愛華に似て可愛いね。今日は二人で帰るの?」

「てゆーか、お姉ちゃんのこと、普段は何って呼んでるの?」

「『愛華ねえ』でしょ。そうだよね。ね?」

 それからも先輩二人による尋問が続き、ただただ頷くしかなかった(「ええ、家でも姉はしっかり者です。今日は姉と帰るのにうってつけの日です」)。彼女らが満足して先に出たのを見送った後も当の姉は下駄箱前で傍迷惑にも腹を抱えていた。

「さっさと帰るよ。立って」


 校門を出た後は黙って歩いた。十月も中旬に差し掛かった現在も依然として蒸し暑い。一日ついたちから冬服への衣替えが促されているけど、当然誰も従っていない。夏が血みどろに生きながらえている。誰か介錯して差し上げろ。

「スーパーに寄りましょう。アイス買ったげるわ」

「うん」

 これだけ。帰り道に二人が交わした言葉はこれ限りだ。店内で冷気を浴び、汗が背中の溝を滑り落ちるのを意識したら、貸しとか復讐とかどうでもよくなった。


 二十三回の皮むきと羞恥と残暑。恨みは断末魔の叫びに帳消しにされ、そして———— 一皮剥けた少年が残った。

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