冬のカブトムシ★★
カブトムシが飼育ケースの壁を引っ掻くような音がして目覚めた。今は二月で、もちろん僕は虫一匹飼っていない。毛布を剥がすと、冷気が身を撫で、意識がはっきりする。音はまだ鳴っていて、よく聞けば、カブトムシが立てる慎ましいけど切実なキシキシというものではなく、ガチャガチャと荒っぽい感じだ。僕は気になって部屋を出た。
リビングの時計によると夜中の一時を過ぎていた。僕が来た時には照明が点いていて、ソファでおっさんがルービックキューブを遊んでいる。ガチャガチャと鳴る音の正体がわかった。胸を撫で下ろし、再び夢の世界へ帰ろうとドアノブに指を掛けた時、背後からボソボソ声がした。たぶん「おやすみ」だ。僕は年長者への敬意を込めて聞こえた通りに「もわずみ」と返した。この夜の話はこれでおしまい。
それからも連夜例の音が聞こえて来て目を覚ました。隣で水を飲みながら聞いた話によると、彼はここ二週間我流でルービックキューブに挑んできたが、一度も揃えたことがないらしい。僕は受験勉強の合間に、この世のどこかに存在する愛好家達のレクチャー動画を視聴し、攻略法をものにした。キューブの全面を揃えて見せてやった時は彼も自分のことのように喜んだ。そして、僕は「コツを教えてくれ」と頼まれて気を良くした。
さらにそれから数日経った。彼はまだキューブを揃えられなかった。溜息とガチャガチャ鳴るのを交互に聞いた。僕はおっさんを放って何度も寝直そうかと考えたが、夢を見るのが怖くてやめた。内容はいつも同じで、まず二次試験対策のために教室に集まった生徒達が問題を解いている。ページをめくる音とシャーペンの滑る音だけが聞こえる。しかし、時間が進むにつれて呻き声が混じり、別の声が旋律を真似て輪唱へと発展し、一番最初に発狂した生徒が窓から飛び降りようとする。そちらには校舎すれすれに金網がめぐらしてあって、目論見は失敗する————かと思いきや、余裕でパンチが通る。腕力は鬱力の関数なのだ。人ひとりがすり抜けられる穴ができる頃には皆解答を止めており、窓際から廊下側まで行列を作っている。そうして彼らは順番にノイローゼからも人生からも解放される次第だ。ちなみに夢見が悪いことは誰にも話していない。友達はもちろん、母にも妹にも。
だから妹が起きてきた時まずいことになった。彼女は人間が出来ているので、受験生の兄さんの睡眠を妨害するような真似はやめろとおっさんに頼んだ。「たとえ他に人生の楽しみがなくてもよ」と念押しまでした。彼は全く驚いた顔をしてこう零した。「お前って高校三年生だったのか」。耳聡い妹がゴミを見るような目を彼に向ける。溜息。瞑目。溜息。瞠目。「自分の子供の年がわかんないほど馬鹿だったとはね」と吐き捨て、彼女は部屋に戻った。おっさん、いや父は大分傷ついている風だった。ついでに僕の心もグサリと刺された気分だった。僕なんて父の年齢も誕生日も知らないし。別に知りたいとも思わないけど。
男親の誕生日を祝ったことがないまま高校を卒業し、家を出た。大学の近くにアパートを借りて一人暮らしを始めたが、これがなかなか楽しい。好きな時間に目覚め、食事を摂り、散歩し、眠る。かつてない自由を満喫した。時々家族から電話が掛かってきたが、こちらが会話に乗り気でないことが伝わったからか頻度が減った。特に母からの電話は気が滅入る。父にお使いを頼んだら、クルトン入りのコーンスープの素の代わりに抜きの方を買ってきたとか愚痴るから。同じようなミスを何遍もやらかす父もその度に愚痴る母も大概にしてほしい。通話を終えた後はぐったりしている。何も聞きたくないし見たくない。毛布を被り、眠りを待つ。眠ったら変な時間に目覚めることになるけど仕方ない。
単身者にならわかってもらえるだろうけど、自分の名前を呼ばれる機会が減ると、たまに自分の生い立ちすら忘れる。夢の最後のシーンに続くのが天井だろうと壁だろうとそれらは自分の正体を知る手がかりにならない。空腹や喉の渇きがあれば起きられるが、そうでなければ寝床を抜け出せない。こういうことが頻繁に起きるようになって危機感を覚えた僕は日記をつけ始めた。日記は闇に光を当てる。散歩のルートや季節の移ろい、通行人の装い等ありふれた記述の中に我が目を疑うような文章が混じることがあって、一番ひどいのは「三限目の終了後、講義棟A棟一階の女子トイレに東条さんが入るのを目撃した」という一文だ。帰宅後早々に勢い込んで書いたからか字が汚い。東条さん以外の女子がトイレに向かうのを数え切れぬほど見てきたにもかかわらず、こんなことを書いたのは初めてだ。よくわからないけど、きっと彼女は特別な存在なのだろうと目星をつけ(彼女が秘密の誘惑術を扱う魔女だと証明することによってこちらの罪を軽くしたいと願い)、その後もチラチラ観察を続けた。容姿の印象としては肌の白さが目立つ。同じ太陽の下で生きているとは思えないぐらいには白い。手足はすらりとしていて、胴体も含めて痩せている。けれどもフェミニンな装いのせいか、しっかりとやわらかさを感じさせる。肩甲骨のあたりまで届く茶髪は艶があり、日頃の努力が偲ばれる。前髪を左右に分け、時々正面に戻って来る分を両の小指で掻き上げる仕草は色っぽい。顔立ちも遠くから見た限りでは整っている。正面からまじまじと鑑賞できれば瞳の色を教えて差し上げることもできたろうに。だけどまあ、僕は大胆さよりも慎重さを重んじる観察家なので勘弁してほしい。その代わりに(?)彼女が教室で発した声という声を余さず聞いた。若干掠れた甘ったるい声からあざとい咳に至るまで。滑舌がそれほど良くないので慣れるまではこちらの集中力の八割を持って行かれた。僕は自分に話しかける男子学生に「うん」、「へえ」、「それな」と相槌を打ちつつ遠くから聞こえるK-POPやら日焼け止めクリームの話に注意を向けた。これで僕に友達ができなかったら彼女には責任を取って結婚してもらおうと八つ当たり気味に考えたこともある。ただ、僕には本来やるべきことから目を背けがちな人間であるという自覚があるため、結婚には向かないだろうと思い直す。「東条さんに結婚願望はあるのかな」と自宅の壁に問いかける。壁は「ドンドン」と返す。「そういえば誕生日はいつなんだろう」と訊いても「ドンドン」と返って来る。壁にリテラシーを期待した僕が馬鹿だった。
東条さんと一言も口を利いたことがないにもかかわらず、共通の話題などないと判断した僕は接触を諦めた。ただ遠くから彼女を見守るだけでいい。ぎこちない、いかにも笑い慣れていない彼女の笑みを見るだけで満足だ。そう思っていたある冬の日、僕と彼女は目を合わせてしまった。授業開始まで大分余裕をもって講義室に着くと、ちょうどそこから出てくる彼女と出くわしたのだ。妙に頬が赤くて目をトロンとさせた彼女がそこにいた。そして不自然なほど自然な笑みをこぼし、僕を中に通した。観察家としての勘と経験が、彼女が異様な興奮状態にあると告げていたので、講義室を隈なく
僕ら二人が知り合いになってからまもなく大学は長い冬休みに入った。もっと早くに話しかけて仲を深めていれば気軽に遊びに誘うこともできたかもしれなかった。恋バナを期待した読者を失望させたことは謝ろう。すまない。たぶんまだ説明していなかったと思うけど、僕は男子校に通った三年間ラブコメや恋愛小説(男女)を徹底的に遠ざけた。そうでもしないと正気を保てなくて。ただ、勉強づくめの毎日だと心に潤いがなくなるので百合を嗜むことを自らに許した。こういった事情から僕が異性に話しかけるハードルは高いし、正当なアプローチをまるで知らない。並みの中学生よりも恋愛下手だろう(泣きたい)。ズキズキ痛む胸を押さえながら期末レポートを仕上げ(つまり僕には腕が三本ある)、高校時代の友達に連絡を入れた。そんなわけで僕は久しぶりに地元に帰ったのである。
傷の舐め合いのことしか頭になかった僕は家族のことを失念していた。相変わらず仲が悪い両親のことは置いといて、妹は受験の最中だった。彼女は僕よりも賢いのでこれまでの模試でもA判定をもらってきたはずだが、慢心することなく赤本を解き続けた。「国・数・英の過去問十五年分を三回以上解いた」と聞かされた時には逆に妹を心配した。夜中に睡眠を妨害されることがないため精神を病んだりしないそうだ。夜な夜な父はマンションの駐車場まで下りてゆき、めちゃ寒い車内でルービックキューブをガチャガチャ言わせていた。物分かりの悪い犬に芸を仕込むような過程がこれまでにあったのだろう。僕の方はというと、受験生に配慮できる立派な大人として
父の受難はまだ続く。彼が娘の卒業式に参加するかどうかをめぐって
「幸せって何だよ」
悩める青年が空に放って、
「水浸しの靴に新聞紙を詰める時に感じるやつさ」
嘘吐きが正直に言い捨てる。
「おっさんはこれからどうなるの」
気分屋が疑問を上らせ、
「臨終のもがきをあと十年」
神様気取りが審判を下した。
問答問答間髪入れず問答。問、おっさんはルービックキューブ揃えられたの? 竹、さあ…… 問、東条さんはお父さんと仲良いのかな 合、……わかりません。でも、そうだといいですね。
「うん、そうだといいね」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます