閑話 僕の受験と部屋探し


 大学の校舎を出た僕は、受験生同類の流れに逆らわず正門を出ると、坂道を降り始める。

 坂が急なので自然足元に意識を向けなければならないのが煩わしい。朝登ってきた時の疲労感に比べれば大分マシだが、来年度から四年間この坂道と付き合うかもしれないと思うとうんざりする。

 せっかくなのでキャンパスをひと回りしようかとも思ったが、試験を受けたことによる精神疲労で億劫になったので辞めた。少なくとも今日試験を受けた校舎はけっこう綺麗だったから他も大丈夫だろう、たぶん。

 それにどうせキャンパスの印象など関係なく、ここに受かったなら問答無用で通うことになるし受からなかったら無駄になるのだ。

 なにせ偏差値が手ごろかつ英語のテスト抜きで試験が受けられる大学がここしかない。無論他の大学も受験しているが、英語の成績が致命的によろしくない僕にはここにしか受かる望みがないのである。

 ……まあ、地元から逃げ出す口実であることも否定はしないけれど。

 どうせ地元が田舎の人間が実家に住みながら自分に合った大学を選んで通うなんて無理な話なのだ。県内で選ぼうが遠くに行こうが一人暮らしには変わりない。

 ならば、自分のことを誰も知らない土地に行くのも悪くはないだろう。

 ……そんな後ろ向きな理由にお金を出してくれている両親には申し訳なさを感じなくもないけれど。

 せっかくそれなりの手応えで本命の試験を終えることができたのに、ネガティブなことばかり考える自分にため息しか出ない。

 明日も別大学の試験だ。日程の都合が付いたから受けるだけの記念受験みたいなものだが、ホテルに戻って最後の悪あがきをしなければ。

 気持ちを切り替えて顔を上げると、いつの間にか坂道は終わっていてもう駅前の繁華街に入っていた。ずいぶんとぼんやりしてしまっていたらしい。

 せっかくなのでどこかでご飯を食べてから帰ろうかと、駅まで続く人の列から逸れて店の物色をする。懐は暖かくないので高い店には入れないが、できれば地元にはない店を選びたい。

 そんな事を考えつつ店の看板を眺めながら駅前のロータリーに沿ってふらふら歩いていると、目の前を歩く人の速度が鈍った。自然、僕の歩調も緩むことになったが、やがて足を止めざるを得なくなる。

 目の前の人物が、ふらりと倒れ込んでしまったからだ。


「おばあちゃん!?」


 倒れ込んだ老婦の隣を歩いていたポニーテールの女の子が悲鳴のような声を上げつつも、咄嗟に老婦の身体を支える。

 老婦は呼吸を乱しつつ胸を抑えている。

 あまり前を見ていなかったが、老婦に体調不良の予兆はなかったように思える。心臓の病気か何かだとするとちょっと不味いのではないだろうか。

 だが、老婦の孫娘らしき女の子は突然の事態に狼狽えて老婦に呼びかけるばかりだし、周囲の人々は何事かとふたりに目を向けることはあっても足を止めるものはいなかった。

 残念ながら自分の時間を食い潰してまで他人を助けてくれるような奇特な人物は近くにいなかったらしい。

 しかし、あまりに突然の事態だったので避けて歩くこともできず、ふたりを見下ろしながら立ち尽くす僕はまるで当事者みたいな立ち位置だ。その実、ただ後ろを歩いていただけの赤の他人だというのに。

 僕の脳裏では、ゲームかなにかのようにいくつかの選択肢が浮かんでいる。

 周囲の人々と同じように横を抜けて行くのは今さら気まずすぎるし、かと言って女の子に声をかけるのもまた躊躇われる。動揺する女の子に声をかけてもどうにかなるわけでもないだろう。

 ……けして緊急事態とはいえ見知らぬ女の子に自分から話しかける勇気がないというわけではないのだ。うん。

 とりあえずこんな事態にかちあった義理として救急車ぐらいは呼んでおこうかと考えスマホを取り出そうとすると、ふいに顔を上げた女の子と目が合った。

 倒れた老婦の横に無表情で立ち尽くす男の絵面が色々とまずい気がしてきて、咄嗟に愛想笑いを浮かべて誤魔化す。

 そして改めてスマホを取り出すと、彼女にそれを示して救急車を呼ぶことを伝えた。


「あ、ありがとうございます!」


 さっさと立ち去るという選択肢が取りづらくなったことに内心ため息を吐くと同時に、僕は頭を下げる女の子に後ろめたさを覚える。

 身内が倒れて大変な彼女に対して、成り行きで手を貸しながらも僕はどこまでも他人事だ。

 もっと彼女の気持ちに寄り添うことができているならば、へらへらと愛想笑いなぞ浮かべていないで倒れた老婦に駆け寄っているだろう。

 ああ、こんな感覚を覚えたことが前にもあったなと記憶を呼び起こしそうになったけれど、そこで思考をカットして機械的にスマホに救急の番号を打ち込む。

 繋がった通話相手に人が倒れた事を告げると、詳細を確認される。現在地が駅前なのでよそ者である僕でも答えることができたが、患者のことについて問われると何も答えることができない。

 結局電話口で聞かれたことをポニーテールな女の子に伝達し、答えを電話口に伝えるメッセンジャーにしかなれなかった。

 今のところ僕がいなくてもなんとでもなるぐらいには役に立っていない。

 そして、電話が切れることで訪れるのは尋常じゃなく気まずい空気だ。

 なにせ僕と彼女たちは赤の他人。共通の話題がないどころか、お互いのことを何ひとつ知らない。

 今のこの大変な状況で下手な世間話も振れないし、その勇気も僕にはない。

 結果倒れている祖母を心配そうに見つめる孫娘とそれをぼけっとして見ている不審な男の図が完成した。どうにかこの場から逃げ出したいが、それじゃ僕はこれで、なんて言えるような空気ではない。


「おばあちゃん、大丈夫ですよね……?」


 身内が危険な状態である女の子にとっても、そこに立ち会ってしまった僕にとって地獄のような雰囲気の中、不意に彼女の口から声が漏れる。

 それは小さくかすれたような声で、危うく聞き逃すところだった。

 ぐったりとしている老婦を何となしに見ていた僕が女の子に視線を移すと、彼女も老婦をじっと見つめたままだ。先の言葉は僕に向かって言ったのか、それとも不安からつい口をついて出た言葉なのかは判然としない。

 僕の内心では、これにどう対応するべきか様々な案が浮かんでは消えていく。

 数瞬間の間を置いて僕の口から出た言葉は、大丈夫だよとか、すぐに救急車を呼んだから絶対に助かるよとか、ありきたりで陳腐なものだった。

 表面上笑みを形作りながら、僕は自己嫌悪に陥いる。

 こんな言葉、気休めにもならない。ただこの場に出会しただけの医療の医の字も知らないど素人の言葉にどんな説得力があるというのか。

 僕自身こそが人が死ぬ時のあっけなさを身をもって知っているというのに。

 ……それでも僕は浮かべた笑みを絶やさない。

 今悲観的な観測を彼女に伝える意味はかけらだってない。それならば今彼女に落ち着いていてもらうためにも、気休めだろうが上っ面だろうが、少しでも安心させられる言葉を吐き出した方がいくらか建設的だろう。

 どうせ今ここだけの一期一会だ。結末がどうなるうと最後まで僕が関わることではないのだから。

「……そうですよね。きっと大丈夫ですよね」

 僕の空虚な言葉に、女の子は自分に言い聞かせるようにつぶやく。例えそれが何の約束にもならない空手形だとしても、今の彼女はそれに縋るしかないだろう。

 それから救急車が到着するまでの数分間、僕は女の子に安っぽい気休めの言葉をかけ続けた。むろん、彼女の気が紛れるようになんて殊勝な意味はなく、会話の後の沈黙に先ほどまで以上の気まずさを覚えたからだ。

 救急車が到着して老婦と女の子がそれに乗り込んだ時点で、僕のお役目は完了した。

 それじゃあ頑張ってね、なんて何を頑張れというのか自分でもさっぱりわからない言葉をかける僕に、女の子は救急車の後部が閉まるまでぺこぺこと何度も頭を下げ続けた。

 救急車がサイレンと共に走っていくのを見送ってから、僕も駅に向かって歩き出す。

 とんでもな展開と、自分の対応の拙さに空腹も引っ込んでしまった。今はとにかくホテルのベッドでふて寝したい気分である。

 明日も入試試験が予定されているので、しっかり食べて最後の追い込みをするべきなのだが、今の僕にそこまで頑張れる意欲はない。

 まあ今さら一日追い込んだところで大差はないだろう。どうせ合格すれば儲けものの記念受験だし。



     *



 案の定記念受験は失敗したものの、何とか本命の秀泉大学に滑り込んだ僕は、住まい探しのために再び大学最寄りを訪れていた。

 前回受験の時もそうだったが、今回も付き添いなしの単独行である。

 うちの両親は僕のことを放任しているので、今回の部屋選びも僕任せだ。提示された予算以内で家賃を支払い、生活できればどこに住もうが関係ない、ということらしい。これには僕としても不満はないし、金銭的な援助にありがたくも感じている。

 日常的に甘やかされている妹との待遇の差に思うことがないわけではないけれども。

 まあ、それについては今はいい。とにかく今は部屋探しだ。

 本日は駅と大学の間にある、あからさまに学生向けに力を入れていそうな不動産会社の人に案内をしてもらう予定だった。

 事前に予算と希望の条件を伝えているので、その条件を元に不動産会社の人がピックアップした賃貸に僕のことを連れ回してくれることだろう。

 後は適当に営業トークを聞き流しながら部屋を物色するだけである。

 しかし、実際に不動産会社の人に伴われて部屋を巡ったのだが絶妙にいまいちな家しか紹介されなかった。

 案内の営業マンがその部屋の良いところを必死にアピールしてくれるのだけれど、良いところよりも悪いところが目についてしまうのだ。

 寝床があって最低限の生活が送れれば問題ないと思っていたのだが、僕が思っていた最低限の生活というのは思った以上に贅沢だったらしい。

 予算を増やせばもっといい部屋があるのだろうけど、それにはバイトを頑張るか奨学金を利用するしかない。だがバイトを前提にして高い家賃の部屋にすると後で痛い目を見そうだし、奨学金は卒業後が大変だ。

 結局、朝から夕方まで何件も見て回ったがその場で即答できるような物件は見つけられず、資料だけもらって持ち帰りということになった。

 営業マンの人には、忙しい時期に時間を作ってもらいながら申し訳ないと思う。

 しかし営業マンの人曰く、今日回った部屋は値段も手頃なのですぐに埋まってしまうのだろうということだ。営業トーク込みだとは思うが、迷っているうちに住める部屋がなくなっては話にならない。覚悟を決めて今日明日にでも部屋を決める必要がありそうだった。

 痛し痒しな物件資料の束を眺めつつ、駅までの道をとぼとぼ歩く。

 大学まで一番近いがスーパーやコンビニが近くにない部屋は、遅刻しない安心感があるが買い物の仕方を考えねばならないだろう。

 部屋は必要以上に広いのにユニットバスの部屋は、なんでその広さを使って風呂トイレ別にしなかったのか理解に苦しむ。

 家賃が安い代わりに洗濯機が外置きの部屋は、外の洗濯機がすぐぼろぼろになると営業マンの人からも注意されている。

 部屋自体の条件が一番な部屋は、部屋から大学まで自転車で三十分以上かかるので通学が大変だろう。

 他にもいくつか資料だけもらったが、内見した部屋に比べるとどれもイマイチだ。営業マンの人が案内しなかったことからもおすすめではないのだろう。たぶん。

 選ぶのは大学生活四年間を過ごす部屋だ。長所で選ぶよりも短所を許容できるかどうかで選ぶべきだろうか……。

 ──と、そこで。

 紙束を眺めて俯きがちに歩いていた僕の斜め前方の地面に影がさす。

 つい紙束に集中し過ぎてすれ違おうとする相手に気がつかなかったらしい。

 慌てて影と逆の方に避けつつ、相手に向かって頭を下げる。

 顔を上げて周囲を見るとあれこれと悩んでいるうちに駅前の繁華街に入ろうとするところだった。ただでさえ不注意なのに人通りの多い場所でよそ見歩きなど迷惑極まりない。

 己の行いに反省しつつ改めて相手の顔を見た時、僕は思わず声を上げてしまった。

 僕がぶつかりそうになった相手は、大学受験の帰りに僕の目の前で倒れた老婦であった。

 急に己の顔を見て声を上げた僕に、彼女は不審な目を向けてきている。買い物袋を手に持ちしっかりと立っているところを見ると、少なくとも重い後遺症もないと考えていいだろう。

 僕はぺこぺこ頭を下げつつも、安堵の笑みを浮かべた。偶然行き合っただけとはいえ、救急車で運ばれて行った人がこうして元気に歩いている姿を見れたのが嬉しかったのである。部屋選びは妥協せざるを得ないだろうが、この老婦と出会えただけでもここに来た甲斐があるというものだ。


「なんだい人の顔見て気持ち悪い。あんたの顔に覚えはないんだがね」


 人の笑みを気持ち悪いとは酷い話であるが、確かにあの時意識をなくしていたこの人からすれば、僕は不審者にしか見えないだろう。

 普段であればわざわざ恩着せがましいことはしないのだけれど、僕は良いことがあって浮かれていたのでつい軽率に事情を説明した。そして全てを話し終えてからちょっと後悔する。

 見ず知らずの他人から、あなたがぶっ倒れた時救急車呼んだの僕なんすよへへっ、なんて説明されても良くてそうですかありがとうで終わるか、悪いと何言ってんだこいつと思われても仕方がない。


「……ああ。もしかしてあんたが七野の言ってた兄さんかね」


 何も告げずに平謝りして立ち去ればよかったと反省している僕に対しての老婦の反応は僕の予想とはちょっと違った。


「七野──孫から話は聞いてるよ。どうも世話になっちまったみたいだね。あんたこの後時間は?」


 老婦の不意打ちな問いに、僕は反射的に返答してしまう。この後はホテルに帰って紙束と睨めっこするぐらいの予定しかない。


「ふうん。要するに暇なわけだ。それならうちに寄って行きな。受けた恩は返しておかないと座りが悪い」


 それだけ言って老婦は僕の返事も聞かずさっさと歩き始める。突然の話に呆然としていた僕は老婦が通りの角に消えそうになったところで慌てて追いかける。

 老婦は僕が付いてこないなんて思っていないようで、後ろを振り返ることなくずんずんと進んでいく。歩く速さは普段の僕よりも速いぐらいだ。先日ぶっ倒れた方とは思えない動きである。

 しかし、困った。

 僕としては老婦が無事であったと知ることができたのは嬉しいことだったが、お礼だなんだなんて展開は望んではいない。それこそ一言で済ませてくれるだけで十分なのだ。今どこに向かっているのかは分からないが、それだけのことに一席設けられてもありがた迷惑である。

 僕は老婦に置いて行かれないように必死に足を動かしながらもこの強制イベントをなんとか回避できないか頭を巡らせていたが、そんなもの当然浮かぶこともなく。

 老婦は踏切を越え、住宅街に入って行く。それっぽい喫茶店もなさそうなので、自宅にでも招かれるのだろうか。

 せめてお土産でも渡してすぐ返して欲しいと願いつつ老婦を追いかけていると、進行方向の景色に緑が増え始める。この辺りは緑地地帯となっているらしいので、中途半端な田舎よりも自然が残っている。まあ僕ん家の辺りのことなんだけれども。

 そんな緑地沿いの住宅街を歩いていると、老婦が立ち止まる。どうやら目的地に到着したらしい。しかし、彼女が立っている辺りには立派な生け垣が続くばかりで、後は生け垣の向こうに続いていると思しき小さな門ぐらいしか──。

 僕が答えに気がついたと同時に、老婦がその門を押し開ける。緑地との境界と思っていた生け垣は、彼女の家の敷地との境界だったようだ。

 老婦に続いて恐る恐る門の中に入ると、立派な庭付きの古めかしい平屋が建っているのが見える。

 ……これはあれだ。地元の古い地主さんが住んでる家と同じような感じだ。どうやらこの老婦はけっこうな資産家であるらしい。

 偶然助けたお婆さんはお金持ちでしたなんて、今時マンガの中でも流行らない展開である。

 家の中に招かれ居間らしき畳部屋に通された僕は借りてきた猫のように縮こまり、目の前の頑丈そうなちゃぶ台が安物なのか高級品なのかという庶民にはわかりっこない考察で現実逃避していると、奥に引っ込んでいた老婦が戻ってきて僕の前に湯飲みを置き、正面に座った。


「さて、まずは礼を言わないといけないね。お前さんのお陰であたしはこうしてぴんぴんしてる。ありがとうよ」


 そう言って頭を下げる老婦。別にたいしたことなんてひとつもしていない僕は居心地が悪いなんてものじゃなかったが、彼女の救護に関わったということには間違いなかったので、素直に礼を受け取るしかない。

 そして、老婦が頭を上げたことで本当の戦いが始まるのだ。礼を言われるという目的を達成したのでじゃあこれで、と僕が席を立とうとしてもあっさり返してくれることはないだろう。向こうとしても恩人を歓待すべきと思ったから自宅に呼んだのであろうし。

 そうなると、この老婦が満足するまで歓待に付き合わなければならなくなる。共通の話題がまったくない老婦と僕の会話をいかに気まずい雰囲気にせずに終わらせられるか、せめてこの老婦がおしゃべり好きであることを願うばかりである。

 とりあえずのジャブとして、僕は彼女の容態について問うことにする。僕たちが出会ったきっかけであることだし、会話のとっかかりとしては適切だろう。


「ただいま~!」


 僕が口を開こうとしたその時、玄関が開く音と共に元気な声が響いてくる。


「ああ、ちょうどいい所に帰ってきたね。七野!ちょっとこっちに来な!」


 老婦が声の主に呼びかけると、ぎしぎしと廊下を軋ませながら足音が近づいてくる。


「どうしたの?おばあちゃん……あ」


 ひょい、と襖の向こうから顔を覗かせたのは老婦と一緒にいたポニーテールの女の子だった。彼女は僕のことを視認すると、目を丸くし──。


「ああああああ!?」


 僕が思わずびくりと肩を震わせる程度に大きな声で叫び声を上げた。


「え、嘘。お、お兄さん、なんで……?」


 学校帰りなのか、制服を着ている彼女は僕を指さしながら動揺したように独語している。老婦と遭遇した時の僕よりも良いリアクションである。


「七野、人様のことを指さすんじゃないよ。この子は……。そういえばあたしも名乗ってなかったね。あたしは牛嶋九子ひさこ。この子は孫の七野だ」


 老婦──牛嶋さんに指摘されて孫の牛嶋さんが……、ややこしいな。九子さんに指摘されて七野ちゃんは指を引っ込めると慌てて頭を下げる。


「ご、ごめんなさい!わたし、牛嶋七野です。この前はありがとうございました。……けど、なんでお兄さんがうちに?」


 困惑しながら問う七野ちゃんに、九子さんが答える。


「さっき買い物帰りに偶然出くわしてね。あんたが”恩人のお兄さん”について熱く語ってたのを思い出して、ちょうどいいから引っ張ってきたんだよ」


「ええ!?」


 世話になった礼がメインじゃないのかよ。

 僕が内心突っ込みを入れていると、七野ちゃんが驚いたように声を上げる。


「た、確かに助けてもらったし、冷静に救急車呼んでくれたし、私のことも気にかけてくれたしですごいなと思って話したけど、べ、別にそんなことしてまで会いたいなんて。……あ、いや!会えるのなら直接お礼を言いたいと思ってたのは本当なんですけど!」


 七野ちゃんがやたらと僕を持ち上げつつ困惑したようにつっかえながら話している。その上赤の他人に言い訳までさせられて、ちょっと可哀想になってきた。

 彼女は頬を赤らめつつ必死に話しているが、身内がそんな理由で人ひとり家に連れ込んできたら確かに恥ずかしかろう。

 もし僕の両親がそんなことをしたら申し分けなさすぎてその人に土下座するところだ。

 しかしまあ、話の流れで持ち上げてもらっているが、そもそも本当にたいしたことはしてないしなんなら善意を持ってやったことでもない。ただその場の空気に流されただけの男に感謝は必要ないのである。

 そんな内容を不快にさせぬよう婉曲的に七野ちゃんに伝えると。


「そんなことはありません!」


 七野ちゃんは顔を一層赤くして僕の言葉に反発するように叫んだ。予想外の反応に驚く僕をよそに、彼女は言い募る。


「おばあちゃんが倒れた時、わたし、頭が真っ白になってて、救急車を呼んだりとか必要なことがなんにもできなくて……。ひとりだったらおばあちゃんを助けられなかったかもしれません。けど、あなたが助けてくれたからおばあちゃんもこうして元気でいられるんです。あなたがその場にいたのは偶然かもしれないけれど、だから、これはたいしたことなんです」


 そこまで言って、七野ちゃんは深々と頭を下げる。


「おばあちゃんを、わたしを助けてくれて、本当にありがとうございました」


「……そうだねえ。あたしもあの時もし助けがなきゃあさっくりおっ死んでたと思うと、あんたにゃ感謝してもしきれないね」


 七野ちゃんの行動に困惑している僕に、九子さんまで折目正しく、深々と頭を下げてくる。


「改めて礼を言わせておくれ。ありがとう。あんたは命の恩人だ」


 僕はふたりに頭を下げられて居た堪れなくなっていた。僕はこんなことをされるために、感謝されるために助けたわけではけしてない。

 それでも。これまで他人から逃げ続けてきた僕でも、こうして誰かのためにできることがあるというのなら。誰かと縁を繋ぐことができるというのなら。

 ……僕は思考を打ち消すと、頭を上げてもらうようにふたりにお願いする。

 僕が大学受験のためにあの場にいたのも結局のところ偶然だ。僕が助けなくとも、誰かがふたりのことを助けていただろう。

 やはり、そこまで感謝されるほどのこととは思えない。


「そんなことはないと思いますけど……」


 僕の言葉に、頭を上げた七野ちゃんは不満そうだ。


「なんだ、あんた秀泉に入るのかね」


 僕は九子さんの言葉を肯定しつつ、今日は部屋探しに来ていたことを説明する。……ついでに資料を眺めていたせいで九子さんにぶつかりそうになったことも。


「なるほどねえ。それでよそ見歩きしてたってわけか。で、部屋はもう決まったのかい?」


 今度の問いには首を振ると、九子さんはふむ、としばし黙考していたが、おもむろに腰を上げると奥へ引っ込んでしまう。

 僕は首をかしげつつ七野ちゃんの方を見たが、彼女も祖母の行動の意味を理解していないようで、不思議そうに奥の方を見ている。

 しばらくして戻ってきた九子さんはリング状の鍵束を手にしていた。そして座布団に座ることなくそのまま部屋を横切って廊下に出ると、僕たちの方を振り返る。


「ちょっとついてきな」


 それだけ言ってさっさと玄関の方に行ってしまう九子さん。僕と七野ちゃんは思わず顔を見合わせたが、早くも玄関の扉を開ける音が聞こえてきて慌てて席を立ち九子さんを追いかけた。

 僕たちは門を出たところで九子さんの背中に追いつく。

 彼女について歩くこと、数十秒。彼女はある建物の前で立ち止まった。というか牛嶋家の隣にあるアパートの前である。二階建てのそのアパートは最近建てられたのかそれともリフォームされたのか、ぱっと見は綺麗な外観をしている。


「この上だよ」


 それだけ言って外階段を登っていく九子さん。細かいことは何も言ってくれない九子さんであるが、ここまで来れば僕にもおおよそのことは理解できる。

 九子さんは二階の奥まで進んだ最奥、角の扉の前で再度立ち止まると、手にした鍵束をじゃらじゃら鳴らしながら鍵を探す。そして、ひとつの鍵をつまみ上げるとそれを目の前の扉のシリンダーに差し込んだ。

 がちゃりという音と共に扉が開かれると九子さんはその中に入らず、僕にあごで中を示した。先に入れということらしい。

 素直に指示に従い中に入った僕は目を見張った。

 玄関から入ってすぐの部分には、安いワンルームにありがちな一応付けときましたみたいな狭くて使い物にならないキッチンではなく、冷蔵庫のスペースも確保されたちゃんとしたキッチンスペースが備わっていた。

 シンクの反対側の壁には扉がふたつ。開けてみると片方はトイレになっていて、もう片方は洗面所兼脱衣所であるらしい。普通の家に住んでいると当たり前の構造であるが、安い賃貸だとユニットバスなことが多いし、そうでなかったとしても洗面所にトイレが鎮座しているという変な構造の物件もあったりするのだ。

 そして玄関から見て正面に位置する扉を開けた先は居室になっているのだが、僕が今日内見してきた部屋の中で一番広いのではなかろうか。

 ここまで見ただけでも良い物件というのは間違いないのだろうが、部屋の中から掃き出し窓の向こうを覗いた時は思わず驚嘆の声を漏らしてしまった。

 窓の向こうはベランダになっているのだが、思った以上に空間が広くゆったりしている。洗濯物を干すのも楽だろうし、大きな椅子か何かを置いて日光浴をすることもできるかもしれない。

 ベランダは牛嶋邸に面していて、ここから見えるのは牛嶋家の庭とその背後の緑地ぐらいなものだ。景観も含めて恐ろしいほどの好物件である。


「気に入ったかね?あんたが良けりゃあここに住んだらいい」


 僕が窓の外の景観を眺めていると、九子さんが声をかけてくる。

 予想していた通り、そういうことであるらしい。

 僕は苦笑しつつも背後を振り返り、家賃を問う。案の定予算をオーバーするどころか、新卒社会人の初任給でも生活できなくなるであろうぐらいの金額が提示された。


「当然その金額を支払えなんてことは言わないさね」


 九子さんはそんなことを言うが、僕が支払えるぐらいまで家賃を下げるというのであれば、世話になった礼だとしても貰いすぎである。四年間その金額で住んだら何百万円分の礼金をもらったも同然だ。


「まあ聞きなって。代わりに条件がある」


 流石にそんなことはできないと首を振ろうとする僕に先んじて九子さんが言葉を被せる。


「あたしも病み上がりだし、女ばかりの暮らしじゃ何かと苦労も多くてね。家賃を下げる代わりに、あんたにはうちの手伝いをしてもらいたいのさ。まあバイトだと思ってくれていい。やることはいくらでもあるから、月に何度かは働いてもらうことになるがね。あんたには世話になったんだ。日雇いバイトで稼いで住むよりは待遇は良くしてやるよ」


 なるほど、そういう条件を付けてきたか。

 女ばかり、という言葉に、九子さんの旦那さんや七野ちゃんの父親はいないのかという疑問が浮かぶが、人の家のプライベートを詮索するのもよろしくないだろうとすぐにそれを打ち消して、九子さんの提示した条件を改めて検討する。

 どの程度の労働になるかはわからないが、好条件なのは間違い無いだろう。

 しかし、それもこの部屋に住もうとした場合のことだ。

 この部屋に住むことで快適な生活を送れるであろうことは間違いないが、九子さんの手伝いで月に数回拘束されるという条件が僕の中で引っかかる。

 金のかかる暮らしをするつもりはないが、入り用なことがあれば単発でもバイトをしなければならないだろう。

 そうなった時、九子さんの手伝いとバイトを両立できるかどうかわからない。学業に差し障りが出ることになれば学費と生活費を出してくれる両親に申し訳かたたない。

 そして、僕にとってそれよりも問題なのが、この話を受けることで牛嶋家と交流する必要が出てくることだ。

 人との繋がりは最小限で生きてきた僕が、一度や二度ならともかく四年もの長い間、彼女たちとのやり取りによって生じる摩擦に耐えられるかどうか。

 彼女たちと良好な関係を築くことができればいいが、何かがあって関係が拗れてしまえば卒業まで気まずい暮らしをせねばならないし、最悪引っ越しも考慮する必要がある。

 そんなネガティブな思いから僕の返答が否に傾いてきた時、声が僕を思考の海から引っ張り上げた。


「お兄さん、ここに住むんですか!」 


 顔を上げると、九子さんの後ろで七野ちゃんがきらきらした目で僕のことを見ている。


「いいじゃないですか!こんな部屋他じゃ中々見つからないでしょうし、力仕事とかをお兄さんが手伝ってくれるならありがたいです!」


 お年頃な七野ちゃんがこの話を好意的に受け取ってくれるのはありがたいことだが、なんとも呑気な言葉である。

 彼女たちの生活の内側に入った僕が、何かよからぬことをするとは考えないのだろうか。

 僕が言うのもどうかと思うが、人を信じすぎている七野ちゃんに釘を刺す意味も込めてやんわりと指摘する。しかし。


「お兄さんなら大丈夫ですよ。だって私たちのことを助けてくれましたし、それに、そんな話をしてくれる時点で悪い人じゃないのはわかりますから!……あ。けど、ちょっと悪い人ならあんなことやこんなことしてくれる可能性も……!?」


 翳りのない笑顔に晒されて、僕は沈黙するしかなかった。

 参った。こんなに他人から信頼を寄せられるのは、記憶の中にもなかったかもしれない。

 何やら顔を赤らめて悶えている七野ちゃんと、それを可哀想な子を見る目をしている九子さん。ふたりを視界に収めつつ、僕は思考する。

 縁もゆかりもない彼女たちと出会ったのも、こうして再開することができたのも、すべて偶然のことである。

 それは言い換えれば、運命と呼んでもいいかもしれない。物語の筋書きの様に九子さんを助け、そして今は僕が手を差し伸べられている。

 もしかしたら、灰色に染まり切った僕の人生に色が付くのは今この時なのかもしれない。

 ……なんて、こんな恥ずかしいモノローグ、小説の読みすぎかもしれないけれど。

 僕は九子さんに、この部屋に決めたことを告げる。僕の言葉に九子さんはにやりと笑う。


「契約成立だね。これからよろしく頼むよ。バイト君」


「やった!よろしくお願いします!お兄さん!」


 嬉しそうに声を弾ませる七野ちゃん。しかし、これから長い付き合いになるからにはお兄さん呼びは変えてほしいところだ。兄呼ばわりされていると生意気なうちの妹が脳裏にちらついて複雑な気分になる。

 七野ちゃんは雇い主九子さんの身内なのだから、僕のことはバイトとして扱ってくれればいいのだ。


「そうですか……。それなら、バイトさんですね!」


 僕は七野ちゃんに頷きながらこれからのことを考える。

 独り寂しく過ごすことになると覚悟していた大学生活だが、思っていたのとはちょっと違ったものになりそうだった。

 家賃を稼ぐ必要がある分生活は大変になるかもしれないが、それも張り合いがあるというものだろう。

 どうせ忙しくなるなら、いっそサークルに入ったりとか何かに挑戦するのもありかもしれない。


「ああそうだ。あんた、ゲームとか得意なタイプかね?」


 僕の思考がここ数年で一番と言っていい程ポジティブになっている中、九子さんからそんなことを問われる。

 唐突な質問であるが、とりあえず頷いておく。ぼっちのお供はゲームや小説と相場が決まっているのだ。


「そうかい。なら、仕事に困ることはなさそうだね」


 ゲームが何の仕事に直結するのかさっぱりわからないが、九子の浮かべた笑みが先ほどのものよりも黒いものに見えたのは気のせいだろうか。


「そしたら、さっさと手続きを済ませようじゃないか。ほれ、鍵を閉めるから早く出た出た」


 僕の疑問は部屋から追い出そうとする九子さんの勢いに流される。

 そして、隣の部屋に住む七野ちゃんの姉のお世話を任された時にこれを思い出し、ちょっとだけ後悔するのだった。

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