第34話

 ふたりはしばらく飯島のことを口にしなかった。そのせいで、恋人たちの会話は意図的に迂回させられ、もどかしい。黒田ゼミの話も、美玖の左手の薬指も、核心に擦れるだけこすれて、その摩擦さえもふたりは怖がった。やがて恋人たちは客のいない店仕舞いのように、おずおずと会話を閉じた。

 しかしこんな努力がいったい何の役に立ったろう。たしかに下手な予測を立てれば秋子が強引な手段にでて、雪子から関係を断たれたかもしれない。そういう最悪を回避する意味では役立った。しかし、もう火はついていて、はっきりとあたりの草花に燃え広がり、大火になりかけている。大火になりかけた火を収めるのは、大火そのものを消すより困難で、ふたりが遠回りしているあいだ、火はすぐ近くにまで点いているかもしれなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る