第32話

 後期に入って早々、夏樹は多忙だった。元々、この季節は始業のゆるい雰囲気が構内に蔓延しているが、彼はちがった。国際系サークルのロッカー使用について、大学の事務局ともめたのだ。夏樹は別にそのサークルの役員でもなんでもないが、友人の橋本の願いで諸々手伝うことになっていた。

 それに加え、黒田の講義に出席したとき、夏樹はまた呼び出された。

「夏樹くんは、前回のゼミ合宿来てくれたよね」

「ええ、そうです、あのときはお世話になりました」

夏樹は「来てくれたよね」という言い方に落胆したが、かろうじて爽やかさを保った。

「それでね、もしよければ、いや是非ともうちのゼミにこれからも来ないかい。あいにく単位はでないんだけど」

「ゼミに来るっているのは……その、平常のゼミにってことですか」

「ああ、そうだよ、月曜の七限からなんだけど、難しいかい?」

「いえ、とんでもないです……はい、是非お邪魔させていただきます」

 夏樹は自分でも意外なほど冷静だった。実は、飯島と知り合ってから夏樹は、かえって身の丈に合わない期待を自分にかけていて、黒田ゼミの加入ぐらいではむしろ落胆の気すらあった。夏樹は、すっかり島での戒めを忘れている。

 ふいに、飯島のことが気になった。

「先生、飯島くんも黒田ゼミですか」

「飯島くん?」

「あの、フーコー研究の一年生です」

「ああ、彼ね。知り合いだったのかい」

「最近、偶然知り合ったんです」

「なるほどね。いや、彼はちがうんだ。本人から断りがあってね」

 むろん、夏樹はそのわけを聞きたがった。しかし黒田はただ、

「そこは本人に訊いたほうがいいだろう」

 としか答えなかった。

 翌日、夏樹は飯島のことが気になり、そういえばと思って、橋本に訊ねた。

「なあ、前にうちにはいってきた飯島っていたろ?」

 橋本は大学事務局から命じられた数枚の書類を見比べるように睨んでいた。それだからか夏樹の質問がいまいち入ってこず、また訊き返した。

「ほら、飯島だよ、飯島。歓迎会したじゃないか」

「ああ、飯島か。うん、いるな。それが?」

「最近、彼は来ているのか」

「いやあ、見ないね。通活も二回中二回来ていないからね」

「事情とかは訊いてないのか」

「いやあ、そんなマッチョなサークルじゃないからなあ。いちいち何で休んだとか訊かないよ」

 そういって橋本は立ち上がり、サークル室の本棚のいちばん下段にある木箱を取り出した。木箱は古ぼけ、シミで大部分を変色し、錠がついているが鍵をかけていない。もし仮に鍵をかけていたとしても、無理やり力で壊せそうな代物だった。橋本はその木箱を慎重に開け、なかの印鑑と朱肉をもち、もとの位置にもどって判を押した。「第一ね」

「そんな厳しくできるサークルなら、こんな作業もたった二人でしなくていいわけでさ。たぶん飯島もさ、意外と入ってみたらこんなもんだったから、見限ったんじゃないの」

 橋本はいちどついた判を見直したが、それがあまりにも薄く、読めない字があるものだから舌打ちした。そうしてこんどは朱肉にしつこいほど印鑑を押し付けた。

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