第30話
徳之島への旅行が終わり、残った夏季休暇で約束は早々に果たされた。折りたたみ椅子とテーブルを倉庫に搬入して、雪子が紅茶をいれ、菓子をいくつかだした。
「雪子さんもピアノを弾かれるんですよね」
飯島は雪子のつくった焼き菓子に手をつけながら訊ねた。
「ええ、前にすこしやってたぐらいですけど」
「雪ちゃん、謙虚はダメよ。わたしよりずっとうまいくせに」
と秋子がピアノの前で指の体操しながらいった。
「たしかに島で聴いたときは見事だったなあ」と夏樹ものる。
「わたしの次の奏者は雪ちゃんね」
「指がなまっているわ」
「でも前に弾いたのは一週間前でしょう」
「あのときも手ごたえは悪かったもの」
秋子は控え目に微笑むと最初の音色を鳴らした。それからはやい連符がつづいたあと、大らかな曲調に移った。曲は有名なアニメ映画の挿入歌だった。右手が港町のおおらかな風と波をあらわし、左手はそこで闊歩する人々のユーモアに満ちた談笑をみせた。ときおり秋子はアレンジを織り交ぜて、あえて燦々とした静けさを強調したりした。それだからか、三人はレンガとガス灯に囲まれた欧州の街並みより、あの徳之島の海を思い出せた。夏樹や雪子は自分のもった印象よりもむしろ秋子のみせる風景のほうが色濃くなりそうだった。秋子は薄く目を閉じていた。夏樹にはそれが波打ち際の表情とおなじに感じた。
「思っていた倍くらいすばらしかったです」
秋子の番がおわると飯島がいった。
「僕もいままでのなかでいちばん好きかもしれない」と夏樹もいった。雪子はにこりとしながら音がしないほどの軽い拍手をしていた。
「どの曲がよかった?」と秋子は訊いた。
「僕ははじめとおわりの明るい曲が好きですね」と飯島が答えた。
「僕もあれがよかった。秋子は明るい曲が似合うね」
「雪子さんのピアノも聴いてみたいな」と飯島がいいだした。雪子は反対もせず、こんどはゆったりと秋子と席を交代した。「どういう曲がいい?」
「任せます。音楽に明るくないもので」
雪子は頷き、鍵盤に両手をのせた。雪子の巨躯から生える指はつららのようで、太さが徐々に細まり、それが器用に踊って、繊細な音を紡いだ。弾いたのは哀しくも、楽しくもとれる多面鏡のような曲だった。飯島が曲の名前を訊くと、雪子は即興だと答えた。
そのあと、お菓子を食べながら語り合った。そして飯島は用があるといって、帰っていった。帰路には雪子も付き添った。雪子はピアノの話をした。飯島の好みを分析したりして合いそうな曲を紹介したりした。
「やっぱり日頃の練習がものを言うものね」
と雪子は物悲しくいった。
「素晴らしかったですよ」と飯島は返した。
「おべっかにしては透けて見えるわ」
「おべっかじゃないですよ。ほんとうによかったんです」
雪子は恋を自認することによって、かえって落ち着いた振る舞いのできる性質だった。いま雪子は飯島の顔や言葉を何も胡麻化さず愛せた。
「映画も好きらしいし、また皆で会いましょうね」
田園調布駅に入るころ、雪子はいった。飯島はすこし緊張した顔つきになっている。
「あの、四人で会うのも、僕はいいんですけど、時々、二人でも、なんて」
飯島は雪子の返事を待たず、改札口を過ぎて、そのむこうから小さく手を振った。
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