第26話
「隣、座ってもいいですか。散歩がてらにかなり歩いていて」
と青年はいった。雪子がうなずくだけうなずくと、青年はそれまでの動作からは思えない滑らかさで体育座りをした。そして体育座りは固く、それから身動きひとつしなかった。雪子はその姿でさえ見入った。
「あのひとはご友人ですか」
青年は組んだ左手の指先をあげて秋子を示した。
「いいえ、妹なの」
と雪子はいった。
「へえ……」
「似てないでしょう。わたしとあの子はかなり見た目も中身も違うもの」
「さあ、僕にはわかりません。目が悪いからシルエットしかよくわからないんです」
「そう、でも近くで見たらよくわかると思うわ」
「どうだろう。僕はあんまり人が似てるとか似てないとかよくわからない人間なんです」
「そうなの?」
「厳密には、人が似てると強調する組み合わせが似ていないと思ったり、逆に自分が似ていると思う組み合わせを人から全く否定されたり、そういうのが多いんです」
「わたしも全部が全部、似てる似てないの感覚が人とおなじわけじゃないわ」
「それでも目が似てるとか、唇がちがうとか、耳の形がどうとか、感じるんじゃないですか」
「まあ、そうね」
「僕の場合そういうのが一切ないんです。それよりも声のトーンとか仕草とかで似ていると感じるときはあるんですが。たとえば一文ごとの間が短いとか言葉のチョイスとかどういうパターンで語尾があがるとか」
話すうちに男の頬が濡れていた。こめかみから下りる一筋の汗が顎までつたって落ちていた。青年はそれをポロシャツの裾に擦り付けるように拭いた。彼は呼吸が浅くなっているようだった。それがなんだか深刻な症状のようで、雪子は思わず訊いた。
「ねえ、貴方大丈夫? 息がかなり乱れているけど」
さっきまで正面をむいていた青年はそのときはじめて雪子の顔を見た。彼のこめかみにはまたあらたな汗の筋ができていた。暗い笑みのせいで、その透明なはずの筋もどこか濁って見える。
「すみません。こういう体質なんです。身体がすこし弱くて」
「なんかの病気?」
「いえ、そういうことではなくて、ただ単に体力がないんですよ。家に籠ってばかりいるもんだから」
「じゃあもう部屋にもどったほうが……」
雪子はまだまだ話したかったが、それ以上に青年が心配だった。
「それだとまた僕がひ弱になってしまう。……さっきかなり歩いたなんて言ったけど、まだ十五分くらいで、今日はあと三十分歩きたいんです」
「ストイックなのね」
「ストイックになろうとしているだけです。こういう輝かしいところにでるとなんだか自己憐憫に陥りそうで、すこしずつ抵抗しているんですよ」
しばしふたりは無言になった。となると雪子は、やはり青年が自分を覚えているか気になった。雪子はいまさら、自分があの老人ホームの一件を覚えているとはいえ、青年が雪子を覚えているとは限らないことを思った。だからといって、ハンカチの件を訊くのは何だか無粋のようで、恩着せがましいようで、風味に欠けるようで…… 雪子は学生恋愛の心地であった。
「もとはどちらに住んでいるの?」なんて雪子は訊いた。
「東京の世田谷です。学生になったから一人暮らししたかったんですが、こまごまとしたものが面倒でいつまでたっても実家住みなんですよ」
「あら、わたしも東京で実家住みなんですよ。こっちは会社勤めだというのに」
「いいじゃないですか、家族睦まじくて」
「そっちはおひとりで?」
「ええ、すこしいい空気でも吸おうと思って」
「わたしたちもきっかけはそんなもの。ねえ、大学はどちら?」
「A大のほうです」と青年はいい、そして笑った。「前にもこんな話しましたね」
雪子の視界は鮮やかに花々が咲き誇った。彼は覚えてくれた! 潮風が吹いて、雪子の黒いスウェットにあたった。フェリーが一隻、付近の港を飛び出して、汽笛を鳴らしている。その大型動物のような鳴き声を聴こえるのは、この世界で雪子だけかもしれない。雪子は急激なロマンチシズムにさらわれて、あらゆるものの、彼女に向けたやさしいまなざしを感じた。
「覚えていたの?」
「ええ、もちろん。でもそっちが覚えていないかもって思ったものだから」
青年は照れたように笑った。雪子は彼の白く輝く歯を見れた。満遍なく青白い青年だが、その歯だけは性質のちがい、健康的な白さがあった。雪子はその歯だけで、彼に惚れることができた。
「そんなこと思っていたのね」
「ええ。あんまり異性との付き合いもないもんだから、そんなことを気にするんです」
「あら、そんな風には……」
「見えませんか? ほんとうに?」
「いえ、すこしだけ納得するわ」
ふたりは笑った。
「ところで、名前を訊いてもいいかしら。ほら、こんなところで会うのも縁だから」
「飯島冬っていいます。飯の島に、季節の冬です」
「冬? いい名前ね」
「そうですか? 僕は病弱みたいで、なよなよしくて、気に入らないんです」
「私は、季節のなかで冬がいちばん好きよ。私の名前もあって」
「名前は?」
「三船雪子。三つの船に、雪に子。ほら、それだから、冬と雪って、ねえ?」
雪子は照れて、そう言い淀んだ。
「お似合いですね。冬同士」
さっき渡った船は、とっくに視界から姿を消している。そしてその船の行った方角から、また別の船が帰航しようとしていた。硬質の雲のような船体には、短く赤い英文字と、その下には海面を引き上げたような水色が描かれている。その日いくども軌跡を刻むであろう船首は、強い日ざしではっきりとしない。
「ごめんなさいね、長々と」
雪子は心にもなくそんなことをいった。輝かしいものは、いつだって直視ができない。
「いえ、そんなことないです」
「これからどうするの」
「僕はいちどホテルにもどります」
「もういちど散歩はなさらないの」
「微力の残りが尽きてしまって」
「残念ね。またこの島にいたら会えるかもしれないわ」
「ええ。きっと」
飯島は立ち上がった。連絡先を訊こうか雪子は迷った。しかし何もいわない。彼女にはまた、いつか会える気がしてならなかった。彼が去っていく。けれども明日も明後日も、東京のときも、いやなんだったら今日のうちにでも、私は彼に会うのだろう。そしてもし、ほんとうにまた会えたなら、いや会えなくたって、私は彼に恋をしよう。
しばらくして秋子が波打ち際からもどってきた。
「雪ちゃんさっきの人は誰?」
「あら見ていたの?」
「いえ、いまちらっとだけ」
「そう」
雪子は呼吸を一息ついた。
「ねえ、アキ、話があるの」
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