第16話
夏樹は一度だけ、漁師に会ったことがある。
それは七歳の夏の、祖父が亡くなったときの通夜で、大勢の親戚筋の集まる居間をよそに、その漁師は縁側で煙草を吸っていた。
「坊主、暇ならこっちこい」
漁師はほっとかれ部屋々々をさまよっていた夏樹にそういった。夏樹は恐ろし気に漁師のもとへ寄った。実際、漁師の風貌は幼子には恐ろしかったのである。漁師は年老いた英雄然として、剛毛な白髭、黒光りした肌、眉間の険しさ、筋肉で肥大した二の腕などは、他の、眼鏡をかけ、すこし肥満気味の来客たちとは一線を画す趣だった。
「おい、来るならコップにジュース入れて来るんだ。……ああそう、それでいい……それじゃあ、乾杯だ」
夏樹の子供用コップと漁師のお猪口がぶつかり、鈍い音がした。
「俺は漁師なんだ。わかるか、漁師。そう、海に出て魚を捕るんだ。この前はこんなでかいマグロがかかった。……そう、いいだろう。お前、海に出たことはあるか。そりゃないか。泳いだことくらいは? それもないのか? こりゃ過保護すぎるな」
漁師はそういって、一枚の写真を見せた。写真は、早朝の、波止場のものだった。コンクリートのへりに沿って、船がいくつも並べられていた。
「これが、俺の船だ。そう、その手前の。俺は船長なんだ。いいだろう、海琳丸って書いてある。これは俺の城だ。俺が死ぬとしたらここで死ぬんだ。……そんな顔するな。怖いことではねぇよ。……俺はな、怠けて死ぬようなことはしないんだ。良いもんたらふく食って、そのせいで太って、その脂肪でだらだらと死ぬことはしない。……俺はな、生きるか死ぬかの瀬戸際で、船にしがみついて死ぬんだ。そう、海の上で、燃えるように死ぬんだ……」
語った老英雄の目は、火としての説得力があった。もう彼は、心のうちでは海に出て、その広大な存在と闘っているのである。夏樹はふいに居間のほうを振り返った。長テーブルに座り、母に酒を注がせるこの男たちは、いったい何と闘っているのだろう。幼い夏樹は、家族を持つ者の、会社との諍いなどは想像できなかった。それよりも、逃げ場のない海上で、汗にまみれ、網をつかみ力を振り絞る姿のほうが一等魅力的に思えた。
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