第8話 水棲の契約

 逃げると言ったレントの行動は早かった。

 人型に戻ったイシュカの手を引いて、どこかへ行こうとつま先を外へと向ける。


「イシュカ、こっち」

「あれ? 家に入らないの?」


 逃げると言っても一度家に入るだろうと思っていたらしいイシュカが不思議そうに首をひねっている。レントはそれを見て唇を尖らせた。


「パズーに迷惑がかかるだろ」

「でも荷物とかさ」

「おれの物なんてないし」


 レントはその日暮らしが基本だった。服は一張羅、食べ物だって次の日あるかわからない。ずっとそんな日々を過ごしてきた。着の身着のままでこのままイシュカと村を出るつもりだった。

 イシュカが足を止めたので、レントも足を止める。イシュカがレントを見下ろした。


「ふーん。……僕もなーんにもないよ?」

「知ってるけど」

「おそろいだね~」


 イシュカが何を言いたいのか分からなくて、レントは半眼になる。なんだか心持ちイシュカの機嫌が良くなった気がする。釈然としないままイシュカが一歩を踏み出したので、レントもその手を引いて歩き出す。

 ずんずんと歩く二人はできるだけ人目を避けて移動した。家や小屋の影を伝い、内の仕事や外の仕事に精を出す人たちから逃げるように足早に歩く。


「このまま村を出よう。イシュカ、どっちに逃げる?」

「僕、そっちから来たから、逃げるなら向こうがいいかも」

「それじゃあ、大人に見つからないようにしないと」


 レントがイシュカに逃げるほうを聞いて、ではいざそちらのほうへ向かおうと建物の影から踏み出した時、死角から大きな影がぬっと落ちてきた。


「なんで大人に見つかっちゃいけないんだ」

「わぁあ!?」

「あー、ばれちゃった~」


 ちょうどはち会ったのはパズーだった。レントが飛び上がるように驚いて、イシュカは残念そうに笑っている。そんな対象的な二人の姿を診て、パズーは呆れていた。


「お前ら、いったい何をしているんだ。イシュカ殿も、もう戻ってきてよいのか」


 パズーのもっともな言葉に、イシュカはへらりと笑う。


「あんまりよくないかも~」

「よくないのか」


 あんまり深刻そうではないイシュカの様子に、パズーはますます呆れる。大きく深いため息をつくと、真剣な表情でイシュカをひたと見据えた。


「早馬がきた。イシュカ殿を探している。何があった」

「わお、行動がはやいねぇ」


 パズーの報せに、イシュカは驚くこともなくへらりと笑ったまま。パズーはイシュカの能天気さに頭痛でもしたのか、こめかみを揉みしだく。


「あんた、何をやったんだ」

「何もしてないよ」


 イシュカは本当になんにもしていない。何もしないでいたら、勝手に着ていた服を脱がされて裸にされた挙げ句、それは痴漢だから捕縛する! と言われたようなものだ。それをパズーに伝えたら、意味がわからんと一蹴されてしまう。


「ここじゃ、僕もはみ出し者だってことさ。レントと一緒」

「どういうことだ」


 パズーが怪訝そうに眉をひそめるけれど、イシュカは穏やかに笑ったまま。レントが不安そうにイシュカを見上げると、頭をひと撫でしてからパズーと向き合って。


「ねぇ、パズー。僕がレントをもらっていくよ。いいでしょう?」

「はぁ?」


 パズーの声が裏返った。

 イシュカは悪びれた様子もなく、レントの肩へと手を置く。レントが大人の二人を見上げる中、イシュカとパズーはお互いに視線をそらさない。


「僕がいると迷惑かかるのは間違いないんだけど、僕、レントと離れられないからさ」

「逆だろう。レントがあんたから離れないんじゃないのか?」

「あってるよ。僕とレントは一蓮托生なんだよねぇ」


 だんだんとパズーの眉間の皺が深くなっていく。対してイシュカは穏やかな表情のまま。それでも一歩も引く様子がなくて、パズーの表情に苦いものが走る。


「わけがわからん……だが、何か問題のあるあんたにレントを預けられん。言っただろう。あんたはよそ者だ。面倒ごとに巻き込むなと」


 パズーの少し怖い声にイシュカも苦笑した。確かにそう言っていたなと思って、大人たちを見上げていたレントへと視線を下げる。レントの青い瞳に二人の大人たちが対称的に映る。瞳の向こうに隠れる感情が揺れていた。

 レントの不安がイシュカに伝わる。仕方ないかな、とイシュカは妥協しようとしたけれど。


「……おれも」


 ぽつりと言葉がこぼれた。

 一度うつむいたレントが顔を上げる。まっすぐにイシュカを見上げてから、その視線をパズーに向ける。

 その瞳には、もう迷いなんてなくて。


「おれもよそ者だ。よそ者だから、出て行く」


 驚きの声をあげたのはパズーだった。イシュカも目を丸くしているけれど、にわかにいつもの笑みがこぼれてくる。

 パズーが膝を折って、レントの腕を掴んだ。視線を合わせて、切実に訴える。


「レント、よく考えろ! イシュカ殿はアーヴァイン殿に追われているんだぞ!?」

「聞いた。それでもイシュカについて行く」

「悪い人間かもしれないんだぞ!」


 パズーの必死な形相に面食らいながらも、レントは首を振った。

 それからおもむろに笑顔を浮かべて、むしろレントがパズーを諭すように語りかけて。


「イシュカは悪いやつじゃないよ。だっておれを助けてくれたんだ。それにイシュカと約束した。一緒に広い世界を見に行くって」


 イシュカが一番優しいことを、レントが一番知っている。ちょっと変わり者で能天気だけど、イシュカは約束を守ってくれる。それにレントと対等だ。対等で、同じで――約束をした友達だ。

 レントは掴まれた腕を優しく解くと、パズーの大きくて、太くて、無骨な手を握る。この大きな手のひらは、レントに施しを与える慈しみの手だ。


「パズーのおっさん、ごめん。うまく言えないけど、その……ありがと。あったかいの、うれしかった。ご飯とか、寝床とか……父さんって呼べなくて、ごめん」


 パズーとパズーの嫁と、それからイシュカと。

 四人で暮らす日々は温かった。畑の真ん中で泥にまみれていたことが嘘みたいに、痩せぎすな案山子だったレントに人間としての命を吹き込んでくれたような気がした。

 でもそれも全て、全部ぜんぶ、イシュカと出会ったから。この村で歪だったレントの存在を、イシュカが優しく繕って周囲に自慢してくれたから。

 だからレントはイシュカに着いて行く。

 イシュカのように変わる者、変えられる者に、レントもなりたいから。ひねもす案山子になんて、もう戻りたくないから。


「……決めたのか」

「うん。おれ、イシュカと一緒に行く。イシュカはひとりぼっちだから、おれがついて行ってやるんだ。そうしないと、さみしいだろ」


 後悔がないとは言えない。これが正解だとも言えない。それでもレントは選んだ。

 パズーの子になってこの村で穏やかに過ごすことを捨てた。優しい暮らしの代わりに、イシュカと広い世界を見に行くことを選んだ。

 だって、そのほうがきっと楽しい。

 まだ見ぬもの、まだ知らないものが、外の世界にあることをイシュカが証明してくれた。世界は一つじゃない。そこに踏み出す勇気があればどこへだって行けるんだって、イシュカが教えてくれた。


「そうか……」


 レントの意思は変わらない。瞳の向こうに力強い決意を見つけたパズーは深いため息をつく。

 それからおもむろに立ち上がって。


「イシュカ殿。くれぐれも、気をつけて」


 レントの後ろで立ち尽くしていたイシュカに頭を下げる。

 イシュカはひとつ瞬くと、ゆっくりと首を傾げた。


「……いいの?」

「あんたはレントの恩人だ。それに俺もあんたが悪い奴にはどうも見えない。何か事情があったんだろう。うまく言っておいてやるよ」

「頼もし〜!」


 イシュカがやったね! とレントへ手の平を向けた。きょとんとしたレントに、イシュカもきょとんとする。


「なんだ、その手」

「えぇ? レント、しないの? こう、やったぜー! って」


 レントの手を取って同じように手の平を自分のほうへと向けたイシュカは、パンッ! といい音を鳴らしてレントの両手と自分の手を打ち合った。

 ぴんときていないレントに、パズーも苦笑する。仲が良い、気の合う友人たちが交わすようなやり取り。レントにそういった相手ができたことが嬉しくもあり、また寂しくもあるような気持ちになる。

 パズーは今はまだちぐはぐな二人を見て、これなら心配はいらないだろうと思う。でもどうしても、一度は息子にと思った子を別の人間に預ける形になるのが心もとなくて、小言は尽きない。


「イシュカ殿。これだけは約束してくれ。レントを守れ。レントはまだ子供だ。あんたが守るんだ。危なくなるようだったら、レントをアーヴァイン殿に預けろ。あの方はこの子に目をかけてくださっていたから、見逃してくれるはずだ」

「分かった。約束する」


 アーヴィンはレントの才を一番に見出した御仁だ。もし何かあっても、子供のレントだけならば助けてくれるはず。

 パズーがそう伝えれば、イシュカも神妙に頷いた。

 でもそれに反発したのは、守られる側であるはずのレントで。


「ばかっ! 勝手に約束するなよ!」


 イシュカは、腰に抱きついて離れないぞと主張するレントの額を指でぴこっと弾いた。条件反射で「痛い!」と叫んだレントに言い聞かせる。


「だーめ。レントのお父さんとの約束」

「と、父さんじゃねーし!」

「はいはい」


 反抗期なのか、言う事全部に言い返してくるレントの頭を、イシュカはわしわしと撫でてやる。かいぐりかいぐりしてやれば、レントの頭はぐらんぐらんと搖れて、ちょっとだけ威勢の良さが薄れた。


「でもレント、覚えておいて。僕らやレントみたいに力のある存在の約束は拘束力が生まれるってこと。僕らはこれを重んじる。忘れないで。僕らと一緒。僕らは約束や契約を違えない。小さくても、大きくても」


 イシュカがレントを抱き上げた。いきなり抱き上げられたレントは驚いてわたわたとするけれど、イシュカがこつんと額を合わせてきたので、しゅん、と大人しくなる。


「……だからって、そんな約束する必要ないじゃん」


 大人しくなってもまだ反抗気味なレントに、イシュカはふふっと笑って。


「僕がしたいからさ。約束は制約になってくれる。僕らにはちょうどいい首輪になるでしょ?」

「イシュカが言っていること、難しい。もっとわかりやすく言ってよ」


 レントがすねてしまった。おちょこ口で睨めつけるレントに、イシュカはお日様のような笑顔を浮かべて。


「約束はいっぱいあったほうがいいんだってこと! ひとりぼっちは寂しいからね!」

「あ、ちょ、イシュカ!?」


 レントの小さな身体をさらに高く持ち上げる。レントとパズーがぎょっとするのもお構いなしに、イシュカは小さな主人の身体を自分の肩にまたがらせた。肩車をされて視線がぐんっと高くなったレントを、パズーが見上げてくる。


「さぁて急がないと。あのおっかない人が近くに来ているから!」


 イシュカは歩き出した。レントを肩車して、ひょいひょいと身軽に一歩を踏み出す。だんだんとその歩幅が大きく、駆け足になろうとしたところで、パズーがハッとしたようにイシュカを追いかけた。


「待て、イシュカ殿! これを持っていけ!」

「なにこれ」


 パズーが何かを投げた。少し的はずれなほうに飛んでいこうとしたのを、肩車されているレントが腕を伸ばして掴み取った。

 投げられたものは小さな袋。

 そのままイシュカに渡す。


「餞別だ。これで少しは食いつなげ。レントも、ほら」

「わっ」


 もう一袋、飛んでくる。レントが二度目に受け取った小袋の中身をのぞき込めば、乾燥させた木の実や芋、肉、それとわずかばかりの石のようなものが入っていた。石なんか食えないじゃないかとレントが頭を捻っている間に、パズーは足を止めた。


「達者でやれよ」


 大きく手を振って見送るパズーに、レントが顔を上げる。

 胸の奥からこみ上げてくるものがあって、その衝動に駆られるまま、レントも大きく声を張り上げた。


「パズーのおっさん!」

「ああ?」

「――ありがとな!」


 パズーがいなかったら、レントは今頃飢えて死んでいた。

 パズーがいなかったら、レントは今頃寒さに凍えて死んでいた。

 パズーがいなかったら、言葉を、感情を、生きるということを、レントは知らなかった。

 レントにとって、パズーもまた命の恩人だ。村長の手前でしてやれることなんて全然ないなと言いながら、間違いなくレントを生かしてくれたのはパズーだった。この村でレントを人間として見てくれていたのは、間違いなくパズーだった。

 そのいっぱいのありがとうを抱えて、レントは旅立つ。この村は嫌なこともいっぱいあったけれど、それがレントの日常だった。その日常をふりきって、レントはイシュカと一緒に新しい世界へ踏み出していく。


「さあ、行くよレントー! バルリービーの深淵にいざゆかん!」


 レントの中にある呪力がイシュカへと流れていく。力が抜けていくようなその不思議な感覚にレントがぎょっとするのにも構わず、イシュカは人型から本性へと変化を解いてしまって。

 水棲馬ケルピーの足元から自ずと水が湧き上がり、間欠泉のように噴き出した。


「イシュカ殿が、河神様だったのか」


 パズーの声が小さく聞こえる。

 その声に振り返る間もなく。

 レントとイシュカは水流に運ばれるように空へと駆けた。

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