〈2〉
扉を開けると、一面銀世界だった。
外はそれほど積もっていないはずだけれど、人通りのない屋上は、足首まで平気で埋まるほどの雪に覆われている。
屋上に出るための扉が引き戸でなければ、ここに入ることもままならなかったかと思うと、自分の軽率さにぞっとしなかった。
僕はあの日の行動を一つずつ思い出しながら、フェンスまで向かって振り返る。
「飛んで行ってないといいんだけど」
あれからも雪は、わずかながらも降り続いていた。やっと晴れ間が差したのは今朝になってからだ。
すぐに白に埋もれてしまった赤は、きっとまだここにある。
僕は足元から円を広げるように、雪を掘り始めた。
「どこだ、どこだ!」
あまりの冷たさに、指先の感覚があっという間に奪われる。雨が雪になる原理を考えれば当然のことなのに、やけにおぞましい現象に感じた。
みんなが聴くようなラブソングで、冬の曲といえば雪が必ずと言っていいほど登場する。大切な人と過ごす時間を彩る華として、みんなが雪に顔を綻ばせるんだ。
その理由が、なんとなく分かった気がする。やっぱり、雪は冷たいんだ。冷たいものでしかないから、二人でいられる温かさとの対比で描かれるんだと思う。
そんな雪と、こうして一人で向き合うのは、辛かった。
堪らなくなって、履いていたスリッパで思いきり掻き分ける。でも、すぐに後悔した。大量の雪を除けることはできても、その塊の中を確認することができないんだ。
こつこつ掘り始めようと再び手を前に出したところで、僕は大きな見落としに直面する。
「赤じゃ、ないんだ……」
かじかんだ指先が、赤くなっていない。いや、赤く見えていない。壊死してしまったようなどす黒い色に、自分の目の異常を突きつけられた気がした。
例えば、緑内障なんかがそうだと思うのだけれど、人の脳というのは、欠けた視界を補完処理してくれるらしい。でも僕の場合は、欠けたのではなく、そこにあると解っているのに正しく認識できないんだ。
赤を求めて探し回っても、見つかるはずがない。
もう一度やり直しと顔を上げたその時。ふっ、と視界が暗転した。
「嘘……でしょ?」
心拍数が跳ねあがった。よりにもよってこんな時に。
体は冷たくない。手を付いているのは分かってる。倒れた訳じゃない、それは分かってる。
暗転と言っても、視界は黒一色ではなかった。目を閉じた時の暗さよりも、少し明るい、乳白色の混ざった灰色。まるで、濃い霧の中にいるような、そんな感覚だった。
僕はついに失明してしまったのだろうか。
光を求めて顔を彷徨わせる。泥水の中にいるように、息が上手くできない。
「ああ、ああっ!」
空気を求めて天を仰ぐと、太陽を感じた。大丈夫、光は判るぞ。深呼吸だ。
目を見開く。やがて、うっすらと空が見えた。青だ。灰色の中に、青が見える。手元を見る。大丈夫、肌色も見える。雪の白も分かる。
嘘のように晴れた視界の端に、ふと、ひょっこり赤が現れた。
見えるはずのない、赤が。
「よかった。あった……」
両端で輪っかが作られている短い紐を手に取ると、湿気でかなり縮んでいるのが分かった。
それでも、切れていないということに、全身の力が抜けるくらいに安心していた。
赤い糸を手放したことも、再び拾ったことも。僕はあかりに話すことはしなかった。
だから、このことはまだ、僕と先生しか知らないこと。
「赤色が、見えるようになったんですか?」
「はい。昼間、屋上でこれを探した時に」
僕が取り出した赤い糸を、先生はしげしげと眺め「赤ですねぇ」と唸った。糸は、診察室の窓から入る夕陽を受けて、より深い色をしている。
色を失っていた四日間が幻だったかのように、掌中の赤は色褪せていなかった。
「ふむ……。衝撃によって、脳が一時的に混乱をしていた可能性があるのかもしれませんね」
「混乱、ですか」
「はい。例えば催眠術で『これは火かき棒です』と暗示されれば、実際にはスプーンを当てただけなのに、火ぶくれができたりするでしょう?」
先生によると、そこに異常はないのに、脳が熱いものを認識して火ぶくれをつくるように。僕の脳が、一時的に赤をないものとして認識していたのではないか、ということらしい。
想像火傷ならぬ想像色盲だ。
「ですが先生。それって、熱いものが当たれば火ぶくれができるという思い込みが必要ですよね?」
想像妊娠なんかもそうだ。お腹が大きくなるという思い込みがあって、初めて成立する。
「僕には、色を失うという思い込みがありませんよ」
原因となっただろう頭部への衝撃はあった。けれど、頭への衝撃によって色を失うという認識を、僕は持ち合わせていない。もちろん、目が見えなくなってほしいという願望もだ。
先生は、丸眼鏡を外して机に放り投げ、腕を組む。
「視界はぼやけますか?」
「いいえ、今はちゃんと見えています」
手のひらを開けば、指の本数どころか、指紋まではっきり見えていた。
「……そうですかぁ」
おもむろにペンを取った先生は、カルテに何事かを書き、それを横線で消し、また書いては消し、と繰り返していた。横から覗き見ようにも、どうにも医者がカルテに書く文字は読めなかった。裁判の書記官のように速さを重んじているのか、患者に悪い情報を与えないためか。
先生は三度ほど繰り返したところで、それも塗りつぶし、ペンをカルテの上に投げ出した。
「まずは様子見でしょうなぁ」
「様子見、ですか?」
「外傷自体は治癒しておりますし、現在は視力も元通り。今晩だけ継続して入院してもらって、明日も平気ならば、天野さんは退院できます」
退院。その言葉をどれだけ待っていただろうか。
異常が起きた場合は報告、という取り決めはあったけれど。先生の笑顔に見送られて診察室を出た僕は、これまで通りあかりと接することができる喜びで胸がいっぱいだった。
廊下を歩く足取りは軽い。このまま明日が来てくれることを、ただじっと待つことにした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます