〈2〉
「どっか、触っちゃまずい所はあるんか」
「は?」
「触ったらまずい怪我はあるんかと聞いているんじゃ」
口調は静かだけれど、怒っているようだった。
少し、背が伸びただろうか。二年見ない間に幼女から少女へと成長していたシフォンは、おそらく彼女の学校のものであろう深い青の制服に身を包んでいた。
「怪我自体はほとんど治ったけど。っていうかどうしてここ――にっ!?」
返事を最後まで聞かずにシフォンはベッドに飛びかかると、僕に馬乗りになってきた。
襟元を掴まれ、上体を押し倒される。さらりと、だいぶ伸びた彼女の髪が、目の前で揺れた。
「どうして連絡してくれんかったんじゃ」
「どうしてって。シフォンこそ、どうしてここに」
「月香から手紙をもらった。フユの目が見えなくなるっちゅうな」
シフォンは僕の襟をさらに絞め上げて、
「手紙じゃぞ! 時間差がうるさい手紙でじゃ! あんた、うちの番号知ってるじゃろ! どうして電話してこん!」
僕を絞めつけてくる力がふっと緩んだかと思うと、シフォンは胸に顔を埋めて、
「どうして電話してくれん……連絡してぇやぁ……」
小さな肩を震わせた。手を回せば二人分は入ってしまいそうな、小さな肩。
僕の目に異変が起きたのは三日前のことだ。きっと、母さんは診断を受けてすぐに手紙を出していたんだろう。そういえば、年賀状のやりとりはあったんだっけ。
「でも、わざわざ来たの? 今日は平日でしょ」
「でしょじゃないが! うちのヴィオラのパートナーはあんたしかおらんけぇ。心配するに決まってるじゃろ!」
「……大声出さないでよ。さすがにあかりもびっくりするでしょ」
ねえ? と隣を見て、そこに求める姿がないことに気付く。
自分で遠ざけたっていうのに。僕は馬鹿だ。
「ごめん、何でもないんだ」
けれど、シフォンは顔を上げて、「どうしてあやまる!」と僕の目を見据えてきた。
「さっき月香から聞いたぞ。あんたが好きな子を泣かしちょるってな」
「母さん、来てるの?」
「来ちょる、そのあかりって子を待っちょるげな」
その言葉に僕は、母さんがすでに来ていることよりも、あかりがまだ来ていないことに安心してしまった。僕はまだ、言い訳を探している。
「馬鹿たれ」
不意に、シフォンから頭を抑えられる。
「フユはやっぱりぶち阿呆じゃのう。そうやって考えちょるなら、はじめから泣かすようなこと言っちゃーいけんじゃろ」
呆れたような、まだ幼さの残る優しい目で言うと、シフォンはベッドから飛び降りた。そのまま改めてベッド脇の丸椅子に腰かけ、細い肘をベッド端に突いて僕を覗き込んでくる。
「なあフユ。前に月香から手紙で聞いたんじゃが、月香の職場で演奏しちょったんじゃろ」
そこまで知っていたのか。どうやら母さんは、今回のこと以前にも、僕に内緒でシフォンとやりとりをしていたらしい。
「目が見えんくなったら、ピアノはどうするんじゃ?」
「さすがに、もう弾けないよ」
世界には、盲目のピアニストがいる。コンテストで賞をとる人もいれば、一度聴いた曲を再現できるという凄まじい聴奏の腕を持つ人もいる。
それについて、僕が同じようにできるかどうかの話をするわけじゃない。
もっと根本的に――光が見えなくなる以前に、僕にはできないことがある。
あれは、二年前。シフォンと最後の演奏をする少し前のこと。
天野芳郎――僕の父さんが、三十九の若さで他界した。死因は心不全だった。
海外を飛び回る商社マンとして年中忙しくしていた父さんは、それでも、僕の演奏を聴いては誰より褒めてくれた。出張先とスケジュールが合えば、コンサート会場に直接足を運んでくれることも少なくなかった。
僕は、父さんが褒めてくれるのが嬉しくて、がむしゃらに弾いていたんだと思う。
そんな子供じみた理由だから拙かった。そんな程度の人間がそこそこの知名度を持ってしまったのがいけなかった。
元々ピアノでプロになりたいとか、演奏で誰かに笑顔を与えたいとか、そんな目的を持っていなかった僕は、父さんが死んだことで、ぽっきりと折れてしまったんだ。
立ち上がろうとはした。でも、もたげた顔の前にあった音楽誌が、頭を踏みつけてきたのを憶えている。
『期待の神童ピアニストは、大切な親の死を乗り越え、返り咲けるのか!?』
その瞬間、肩に鉛の塊を押し付けられたようなプレッシャーが圧しかかった。
ステージに立てば、聴衆から「大丈夫」「頑張れ」というエールが投げかけられた。公演の前後に街を歩こうものなら、それらは直接かけられた。
耐えられなかった。期待という足枷がこんなに苦しいものだと知らなかった。
立ち上がれと、また弾けと、かける言葉は違えど、みんな同じことを囃したてる。
それはもう期待ではなく、支配だと思った。
だから僕は、プロとしてピアノを弾くことは終わりにしようと決めた。
「僕の気持ちなんて解らないくせに!」
気付けば僕は、心配してくれたはずのシフォンに八つ当たりをしていた。僕が最後にすると決めたコンサートの、前の日だった。
「そんとなこと解るわけないじゃろうがたわけ!」
練習部屋のテーブルから手当たり次第に楽譜を投げ飛ばし、壁を叩きつけ、見苦しく暴れ回る僕の背中に、シフォンは飛び蹴りを入れてきたっけ。
僕よりもずっと、泣きそうな顔をして。
「フユがどう思っちょるかなんて、どれだけ考えてもちぃとも解ってやれん! もしかしたら、うちもパパとママを亡くしたら絶望するかもしれんが、今は解らん!」
もう涙の枯れていた僕の代わりにとでもいうように、顔をくしゃくしゃにしたシフォンに、僕は無性に腹を立てたことを憶えてる。
「だったらプロを辞めたっていいでしょ!」
「誰も辞めるなとは言っちょらんじゃろうが!」
再び蹴りを入れられて、さすがに頭にきた。シフォンが女の子であろうが構わない。
「じゃあなんなんだよ!」
詰め寄って、拳を振り上げた僕は、
「それを止めろっちゅうんじゃ馬鹿たれ! あんたの指はピアノを弾く指じゃろ? 粗末にしちゃーいけん!」
毅然と一喝され、僕は「
シフォンは、行き場を無くして強張ったまま震える僕の拳をそっと握ると、その指をほぐすように一本一本摩り始めた。
「あんたがどう思ってるかは知らん。じゃけどな、この指は間違いなく笑顔を紡げる指じゃ。みんなに笑顔を与えられる指じゃ。そこにプロじゃアマじゃなんちゅうのはいっそ関係ない」
全ての指をほぐし終えたシフォンは、
「うちゃぁこの指の――フユのファンでもあるんじゃぞ。そこにピアノがあれば、弾く場所なんて関係ないじゃろ」
そう言って、笑ったんだ。
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