第四章 見えざる糸のロンド

〈1〉

 あかりは、ひどく無機質な部屋に案内されていた。

 学校の職員室で見るようなアルミの机。簡素な丸椅子。それを挟んで、青い制服を着た男が座っている。

 駅近くにある署の、取調室だった。


 冬彦が倒れた後で、さらに一悶着があった。冬彦を殴った高校生たちは逃げ、誰かが通報したのか警察が到着し、続いて救急車が手配された。あかりはパトカーに乗せられたのだが、かけられる言葉がわからない。

 筆談を願い出ると、あからさまに厄介そうな顔をされた。縋ろうとした藁が、急に消失したような虚無感に戸惑い、余計に唇が読み取れなくなった。


「それじゃあ、ここにあったことや見たことを書いてください」


 警察官が、何か喋って紙とボールペンを差し出してくる。

 口の動きを追ってみたけれど、わからずに膝の上で手のひらを握る。取調室に入るなんて初めてのことだったし、今は冬彦の身が心配だった。

 この紙に、何かを書いていいのだろうか。下手に指示されていないことを書こうものなら、心証が悪くなってしまったりしないだろうか。悪意と判っても一言一句を判別できたわけじゃないから、冬彦が殴られてしまったことを正しく捉えてもらえなくなるのではないだろうか。


 唇を噛みしめる。あいにくと紙は真っ新だった。

 何分ほど経っただろうか。時計の針の音が聞こえない代わりに、内側で刻まれる心臓の音がやたらと早く鳴り続ける。


 不意に、扉が開いた。別の警察官に促され、女性が入ってきた。


『あかりちゃん、大丈夫?』


 冬彦の母・月香だった。その顔に、その手話に、その服から微かに漂うタバコの臭いに、あかりはどっと安堵した。零すまいと決めていた雫が頬を伝う。


『月香さん、冬彦は大丈夫なんですか?』

『今は検査中。私がいても仕方ないからこっち来たけれど、お邪魔だった?』

『いえ、そんな……』


 冬彦が搬送されていく直前、あかりは冬彦の携帯を拝借して月香に電話をかけた。その場にいた通行人に、メモ帳で「私の代わりに電話をかけてください」と見せ、連絡をつけたのだ。


『紫さんには連絡したの?』

『いえ、まだです』

『そ。りょーかい』


 自分の方は何ともない。そういう理由で、母にはまだ連絡を入れていなかった。


「刑事さん? 話はどこまで進んでますか」


 月香は、顔を警察官に向けた。手話を使わないのは、相手が健聴者だからか。それとも、自分には聞かせたくない話をするからだろうか。

 もしかしたら冬彦は、本当は検査中なんじゃなくて――そんな恐ろしい不安が脳裏をよぎり、あかりは頭を振り払う。


「はあ、それが進んでおりませんで。一応、彼女は耳が不自由ということは教えられたので、このように筆談を試みているのですが……」

「筆談、ねぇ」


 月香はテーブルにおかれた紙を、おもむろに手に取った。


「これが、筆談?」

「は、はぁ。まずかったのでしょうか」

「まずいなんてもんじゃないわよ、白紙じゃないの! あなたは、この紙でこの子にどうしてもらうつもりだったの?」

「起きたことを書いてもらおうと――」

「その意図が伝わっているのかって訊いてるの!」


 机を叩きつけた月香に、あかりはびくっと身を強張らせた。音はなくても振動は伝わる。そして、その怒気さえも。

 一喝された警察官は、苦い顔をしていた。


「ここに、通訳できる人はいないのかしら」

「はぁ。当署には在籍しておりません」

「そ。じゃあ慰めや労わりの言葉――いえ、せめて挨拶くらいはしました? ネットで少し検索すれば出てくると思いますけど」

「はぁ、それは……」

「そんなんだから、ただの白紙を渡すだけのお粗末聴取をするんでしょうが!」


 再び机が叩きつけられる。あかりにも、月香の剣幕はひしひしと感じられた。今にも噛みつきそうな勢いなのだ。

 さすがにこうも捲し立てられては堪らないのか、警察官は気色ばむ。


「さっきからなんですか、だいたいあなた、この子とどんな関係がある方なんですか!」


 ついに警察官も強気に出たのが分かる。大きく口を開けて、怒鳴っているのだろう。

 しかし、月香はそれを涼しい顔で受け止めると、


『この子の彼氏の母親ですが、何か?』


 そう、手話を交えて言い放った。

 あかりは絶句した。ここまでもほとんどど聞こえてなかったが、月香が自分の為に怒ってくれていることは理解できていた。それでも、突然手話で伝えられた月香のメッセージは、あかりの予想の遥か上を行くものだった。

 再び月香は、言葉だけで警察官を糾弾する。


「別に障害を抱えているからって、特別扱いをしろって言ってるんじゃないわ。この子が安心して話ができるように計らわないと、あなたの仕事も滞る。違う?」

「それは……」


 警察官は、もうすっかり勢いを削がれていた。


「普段の生活なら、気にしなくてもいいかもしれない。いや、むしろ障害を抱えている人を探して回っていい人ぶられる方が鬱陶しいわ」


 月香は詰め寄ると、警察官の襟を掴み上げる。


「こ、公務執行妨が――」


 何かを言おうとした警察官を遮るように、月香は顔を寄せた。


「でも、今目の前にはこの子がいるんでしょう!? 一応気づいて筆談をしました? それこそ偽善よ、私が入ってきた時の涙を見て御覧な、あなたは一体何ができたの!?」


 あかりはその背中に、ああ親子だな、と思った。あの時高校生に詰め寄った冬彦と同じ目をしている。

 月香はやはり、大好きな冬の彦星を産んだ母なのだと理解した。

 同時に、その言葉を聞き取れない自分が悔しかった。歯痒かった。


 冬彦の声を聞きたかった。月香の声を聞きたかった。

 きっと、とても優しいのだろう。それだけは、音が無くても聴こえる。

 視界がくしゃっと滲んだ。どうして、自分は――。






 その後は、月香が間に立ち、聴取が進められることになった。警察官は終始憮然としていたが、取り急ぎは滞りなく済んだようだ。至急、監視カメラの映像等を駆使して、加害者の特定を急いでくれるという。

 署を出たところで、あかりは空気を目一杯吸い込んだ。どうもここは息が詰まる。


『月香さん、すみませんでした』


 頭を下げようとしたところで、それを押しとどめられる。


『そういう時は、ありがとう、でいいのよ』


 微笑みかけられてまた、親子だな、と目を細めた。思えば、冬彦との出会いも「ありがとう」から始まった。

 最初は殆ど手話を憶えていなかったという冬彦が、それでも「ありがとう」だけはすぐに返してきたのは、この人のおかげなのだろう。


『ありがとうございます』


 手を跳ねさせたあかりの言葉には、いくつもの感謝が込められていた。


『どういたしまして』


 小首を傾げた月香は、ついでに首をぐるんと回してストレッチをする。


『あの人、盲者に話を聞く時「現場で何を見ましたか?」って聞くわね、きっと』


 そう言って、署を指差す月香に、あかりは噴き出した。

 とても温かい、皮肉だった。

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