第二章 夢見るスケルツォ

〈1〉

 僕とあかりは、それぞれの放課後に待ち合わせ、軽い買い物に行くまでになった。

 まだ、あかりが自然に発するマシンガンの弾速には付いて行けないけれど、日常会話程度ならば、言葉につまることはなくなったと思う。……そう思いたい。


 この一週間の母さんとの特訓は、目まぐるしく難易度が跳ねあがっていた。最後には、家の中は手話だけで会話する、なんてことにも挑戦した。

 なんというか。僕よりも母さんの方が熱が入っていたかもしれない。荷物を届けにきた宅配のお兄さんにまで手話で受け答えしようとしていた時には、さすがに焦った。

 それでも、さすがは業者さん。母さんの手話を見るや、胸のポケットから紙とペンを出して迅速な対応をしたことには驚いた。あれがアクセシビリティというものなのかな。母さんが言うには、その業者は優良らしい。というのも、下手に手話を覚えさせるより、即筆談の対応に移ることを徹底させているからなんだとか。


 そういえば、前にテレビで、とあるスーパーの店員が朝礼で手話による挨拶を練習していたのを見た母さんが「商品について聞かれたらどうする。トイレの場所は。子供が迷子とか言われて分かるの?」と画面の前で憤慨していたことがあったっけ。

 そうしようと決めた上層部の人たちに悪気はまったくないのだろうけど。すれ違いは避けられないか。

 僕も、初めて海外に渡った時にはスマートホンの翻訳アプリを使っていた。そこから少しずつ、少しずつ、ハローがハーイに変わっていく。きっと歩み寄り方なんて、そんなところからでいいんだろう。


 そんな、僕の特訓の過程を聞いたあかりは、ティーカップをかき混ぜながらにやりと笑った。


『ほうほう、そんなに私と話したかったんだ?』


 新しいメモ帳を買いたいと言ったあかりと入った、デパート内の喫茶店。向かい合って座ったテーブルには、コーヒーと紅茶、そして食べかけのショートケーキが二人分。


『べ、別にそういうんじゃ……!』

『あはは、冬彦、赤くなったー』


 この一週間で、あかりは僕を呼ぶ時に「くん」を付けなくなった。

 元々手話には「ちゃん」や「さん」を付ける習慣がないようで、あかりは僕の名前を指文字で表現した後「男性」を示す手話――親指を立てた、グッドのサイン――を使っていた。

 手話名という、手話を使ったあだ名のような呼び方もあるらしいんだけど、僕の場合、名前の冬を取ったら「寒い」の手話になってしまうため、やめてもらった。

 その代わり、僕はあかりを「光」の手話名で呼ばせてもらっている。


 あかりは口に入れたケーキを咀嚼して、飲み込んだあとで手を踊らせた。


『週末、予定空いてる?』


 律儀だと思う。手話なのだから、口に物を入れていても喋れるのに。前に聞いた時、あかりは『マナーだから』と答えた。聾者でも手話と同時に発声をする人は多く、あかりもその一人だ。喋る以上はマナーをちゃんと守らなきゃいけないのだと、笑っていた。


『週末かぁ。明後日は、母さんの職場で演奏する予定』


 紅茶をふぅ、と冷ましながら、あかりは目を見開く。


『前に言ってた、お手伝い?』

『うん。レクリエーション会みたいなものでさ。出し物の一つが、僕のピアノ』

『素敵。聴いてみたい』


 そう言って控えめに歯を見せたあかりに、聴こえるの、なんて訊くのは野暮だということだけは直感があった。

 僕はコーヒーを飲みながら、肯定を示すために小指をあごに二回つけた。


『冬彦、手が逆』

『通じているからいいじゃないか』


 あかりに諌められて、つい子供みたいにむくれてしまう。

 今僕が手話をした手は左手だ。本来「いいよ」と答える時には右手を使うんだけど、ほら、僕は右利きだからどうしても。


『これでも、片手が空くの待ってたんだよ?』


 手話をしながらコーヒーを飲むのは難しい。両手がふさがっているのと同じだから、聴者と会話しているように、カップを予め持っておいて、合間に口をつける、なんてことができない。


『だから、マナーを守るの。私が話してる時に飲めばいいよ』

『そうすると、あかりの手話が読めなくて』

『練習あるのみ。私と話したいんでしょ?』


 待っててくれるという選択肢は無いんだ……。

 僕は、返事をすぐにしないことで無理矢理間を作って、カップを傾けた。もうだいぶ温い。


『じゃあ、明後日の十時に、待ち合わせはいつもの駅前でいい?』

『いいの? 断られるかと思ってた』

『どうして?』

『聾者だから』


 あれだけ手厳しい意見を言っていたあかりでも、いざ自分が誘われるとなると足踏みしてしまうんだろう。

 強気な子だと思っていたけれど、女の子らしさを垣間見た気がする。


『大丈夫だよ。母さんのところ、けっこう聾者の人もいるから』

『そうなの?』

『うん。といっても、年をとっての難聴がほとんどだけどね』


 医学的に言えば、老人性難聴。よく、お爺さんやお婆さんの耳が遠いと言われるのは、これによるものだ。このタイプの難聴は、聴覚障害の四分の三を占めているらしい。


『中には手話を使える人もいた……と思う。とにかく、全然問題はないと思うよ』

『そっか』


 あかりは短く答えると、フォークでケーキをつついた。


『正直に言うとね』

『ん?』

『僕からは言い出さなかったと思う』


 あかりが聴きたいと言い出したから、っていうのは無責任かもしれないけど。でもやっぱり、そこは聴者と同じく考えるわけにはいかないと思っていた。


 音がないんだ。


 きっと、メロディに合わせようとするから、手話歌も通じにくいんだろう。聴者が手話歌の動画を見れば、曲も歌も聴いた上で手話――いや、振り付けと言うべきか――を見ることができる。でも、元から音がない人には、メロディによる間は違和感でしかない。

 それを無理やり「じゃあ音楽の素晴らしさを伝える」と意気込むのは、今の僕では、まだまだ押し付けにしかならない。


『あかりが聴きたいって言ってくれたのも、気を遣ってなんだと思ってた』


 僕の告白に、あかりはケーキにフォークを刺したまま、きょとんとして。

 突然、ぷっと噴き出した。


『私が冬彦に気を遣う? ないない』

『えー……それはそれで酷くない?』

『むしろ冬彦の方が気を遣ってるでしょ。私の手話が周りに見えないように、壁際の席にしてくれたり』


 痛いところを突かれた。


『た、たまたまだよ』

『嘘。入った時に店員さんと話してたのって、予約の確認でしょ?』


 ばれてました。

 この喫茶店を選んだのは僕だ。昼間のうちに、あかりから買い物の打診メールを受け取っていたから、前もって店に電話していたんだ。

 図星を突かれて言葉に詰まった僕を、あかりは、


『でも、ありがと』


 混じりけのない笑顔で包み込んでくれた。


『それにしても、みんなの前で演奏するってすごいよ。冬彦はピアノが好きなんだね』

『うーん、まぁ、そうかな』


 思わず言い淀む。好き、なんだろう。ピアニストとしての顔は捨てても、家のピアノは手放さなかった。

 多分、勝負のぎらぎらした世界から離れて、誰にもプレッシャーをかけられずにピアノと向きあいたかったんだと思う。

 逃げの言い訳、かな。


『あかりは、何が好きなの?』

『私? 私は絵本かな』


 即答だった。眩しいくらいに、自信を持った目で。


『私、聾学校出たら絵の勉強をして、絵本作家になるのが夢なの』

『絵本作家?』

『王子様がね、迎えに来てくれるんだ。それで、私はいじわるな魔女から、十二時まで聴こえる耳をもらって、王子様に甘くささやいてもらうの』


 ガラスの靴ではなく、耳。

 あかりは高度難聴と言ってたっけ。難聴を持つ人たちには、どんな風に声が届いているんだろう。僕たちが肉声で話しかけるとすれば、たいてい大きな声で話しかけるけれど、そう簡単ではないのだと、福祉施設のお兄さんから聞いたことがある。

 例えば、補聴器をつけている人の耳に増幅された音が届いたとしても、子音が抜けてしまったような、聞き取りづらい音になってしまうらしい。補聴器はあくまで「補う」ものなのだ。

 僕たちのような聴者にも、ふと会話中の語句が聞き取れなかった時に、その時の話題や前後の文脈から、なんとなく会話を補完している経験があるけれど。難聴者にとっては、補聴器ありでも補完が難しいという。

 そして、耳に入る音の元は大声だ。コンプレッサーにかけようが、マキシマイズを施そうが、大声は大声。


 あかりは、たとえ聴こえても言われることのない、ささやきに憧れているんだろう。


『それから、どうなるの?』


 気が付けば、僕は身を乗り出していた。もっと聞きたかった。もっとあかりについて知りたかった。

 けれど、あかりは目をぱちくりとさせて、


『終わりだけど』

『えっ』

『えっ、駄目だった?』


 駄目でしょ、とは言えなかった。僕も楽譜に記された物語を読み取ることはあっても、物語を作るということはしたことがなかったから。

 王子様と結ばれればエンディングなのか。それとも、主役が聾者のプリンセスなら、ささやかれるという願いが叶ったことでフィナーレなのかな。


『分からないけど。でも、もっと聞きたかったかな』


 正直に伝えると、


『私もまだまだだね』


 あかりはため息一つして、ポーチから一冊の本を取り出した。前に僕が拾った大きめの本だ。


『それ、いつも持ってるの?』

『うん。人前では読まないんだけどね』


 あかりがカバーを捲ると、黄色い表紙が現れる。

 『星の王子様』の翻訳絵本だった。


『星かぁ』

『お気に入りなんだ。私、苗字が星川だし、音は聞こえないけど光は見えるから』


 んっ、と猫のように伸びをしたあかりは、ふと、窓の外に目を留めた。


『だいぶ暗くなったね。時間、大丈夫?』

『僕は問題なし』


 外が暗いとはいえ、今は冬真っ盛り。日が落ちるのが早いだけで、腕時計を確認すると、まだ十八時を回っていなかった。


『でも、頃合いだね。送るよ』

『待って。余裕があるなら、提案』

『ん?』

『星を、見に行こうよ』

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