マスコミむかし話

萌乃ポトス(松井蒼馬)

権野貴常

 むかしむかし、ある新聞社に権野貴常ごんの・たかつねという記者がいました。31歳独身。大変素行が悪く、仕事もテキトーで、評判の悪い男です。過去には、寝タバコが原因で支局でボヤ騒ぎを起こしたり、後輩記者にセクハラしたりと処分歴もあります。


 蝉時雨せみしぐれが本格的な夏の到来を告げたある日の夕暮れ。権野は大井競馬場で1日の大半を過ごし、直帰することにしました。その帰路の電車内で、たまたま同期の記者、兵働ひょうどうを見かけます。帰宅する風ではありません。周りを警戒しており、明らかにどこかに向かっています。権野は今日も暇です。


 好奇心は、自然と権野を尾行に駆り立てました。1時間後。到着したのは高級住宅街で知られる白金台です。「鰻田うなぎだ」と書かれた表札を確認すると、兵働は近くの電柱と同化します。そうです。ここはあの上場企業、鰻田水産の社長宅です。どうやら兵働は、鰻田社長宅に夜回りに訪れたようです。


 兵働は、その名の通りよく働く男でした。同期の出世レースのトップを快走し、既に4級職です。対する権野は、先日やっと3級職になったばかりで、周回遅れです。さらに兵働は元客室乗務員の美しい妻を持ち、今秋の人事では同期最年少でキャップに昇格するとの噂もあります。


「何でアイツばっかり……」


 自業自得です。なのにこの時の権野は、競馬で負けたこともあって気が立っていました。ふと、イタズラの案が頭に浮かんだのはそんな時です。


 ──確か近くの大学のキャンパスには、公衆電話があったよな?


 狡猾な表情を浮かべて、権野は走り出します。5分後。公衆電話までたどり着くと、110番通報しました。


「鰻田社長宅の前で、変な男がうろついています。挙動不審で怪しいです」


 名前も名乗らずに電話をガチャ切りし、現場に戻りました。数分後。2台のパトカーが来て、兵働は職務質問されました。閑静な住宅街は一時騒然。これでは夜回りどころではありません。権野は兵働の夜回りを失敗に追い込みました。兵働の困惑ぶりを物陰から見ていると、たちまち胸は充足感で満たされました。

 長居は無用。現場から逃げます。その時でした。警官に囲まれ詰問されていた兵働がチラリと権野の方に目を向けます。視線が交錯したような気がしました。

 が、気にすることはありません。尾行に気づかない兵働が悪いのです。


 その翌日。


「すみませんってお前、どう責任取るんだよ⁉︎まんまと特ダネ、抜かれやがって‼︎」


 出社した権野は、兵働がデスクから激しく詰められている姿を目撃します。兵働は項垂れて、頭を下げるばかりです。そうです。鰻田水産が同業を買収するという特ダネが、他紙の朝刊1面を飾ったのです。


 これは担当記者として大失態です。これでは今秋のキャップ昇格など夢のまた夢です。下手したら、山奥の1人通信部に、兵働は左遷されるかもしれません。権野は自分でイタズラをしておきながら、兵働を不憫に思いました。

悪いことは続くものです。


 さらに数日後、権野は社内で衝撃的な話を耳にします。なんと兵働が、あの美人妻と別れたというのです。実は数年前からうまくいっていなかったようです。兵働は親権も取られてしまい、可愛い2人の娘とも離ればなれです。


「兵働も……俺と同じで一人ぼっちになったのか」


 権野の胸は張り裂けんばかりに痛みました。


「あんなイタズラしなきゃよかったなぁ」


 労働の質は、生活の質にも直結します。もしも権野にイタズラされずに、兵働が無事に鰻田水産のネタを報じていたら、こんな悲劇は起こらなかったかもしれません。

 権野は悔やみました。その夜は、全く眠ることができませんでした。


 この出来事をきっかけに、権野は変わります。償いの日々の始まりです。

 まず、業務中に上司に隠れて、パチンコや雀荘に行くのをやめました。タバコや酒も断ちました。朝と夜の回りは欠かさず、地道に取材相手との信頼を築いていきました。

 取材先は、記者のことを実によく見ているものです。そんな権野の変化と頑張りに報いるように、ネタをくれるようになりました。


 権野は、その掴んだネタを本社の兵働の郵便ボックスにこっそり入れ始めました。不満を抱えた外部の人間によるリーク文書に見えるように巧みに工作して、誰もいない本社に深夜に忍び込んで、投函したのです。次の日も、その次の日も、権野は兵働の郵便ボックスにネタを入れ続けました。


 ですが、記者の仕事には波があります。ネタがどうしても掴めない日もあります。そんな日は……。


<私は兵働さんの記事が大好きです>

<記者の仕事は辛い時もあります>

<デスクの詰めに、絶対負けないでください>


 マスコミ志望の女子大生のふりをして、ファンレターを綴り、日々、激務をこなす兵働を励まし続けました。


 兵働が1人で頑張りすぎていたローテ仕事や雑報処理も、こっそりデスクに根回しして、権野が引き受けました。さながら今の権野は潤滑油です。日々の雑務が少し軽くなるだけで、元々、有能な兵働の仕事ぶりは劇的に改善しました。


<経済部第3グループキャップに任ずる>


 秋人事で兵働は栄転しました。同期初のキャップの誕生です。


「兵働、おめでとう!」


 同期や同僚が兵働の席に次々と祝福に訪れる中、権野は遠くから見つめるだけです。


 ──兵働、おめでとう!

 今の自分は、自席から兵働の笑みを眺め、心の中で祝福するくらいが分相応です。


 秋人事から数日後。中秋の名月の深夜。その日、兵働は取材先との会食を終えて、帰社しました。この時間、真っ暗なフロアには誰もいないはずです。電気をつけようと、壁のスイッチにそっと手を伸ばしたその時です。

ガサゴソ。自分の郵便ボックスの前でうごめく影に気付きます。兵働は目を凝らします。月光が照らすその姿は……なんと権野だったのです。


 ──あの時、夜回り先で通報したのはこいつだ。


 「こいつのせいで……」


 網膜には、妻に手を引かれ、マンションから寂しそうに去っていく娘2人の顔が投映されています。


 「パパぁ」


 我が子の悲痛な叫びに兵働は顔をしかめ、グッと奥歯を噛みしめます。


 兵働はバッグから赤外線カメラを取り出します。取材のため、ちょうど写真部から借りていました。スナイパーさながら。兵働は、闇でうごめく権野に照準を合わせると、何度もシャッターという名の弾丸を浴びせました。権野はそれに全く気付きません。撮影を終えると、兵働はさっさとフロアを出ました。


 フロアを出ると、すぐに部長や編集局長、総務局長に写真付きメールで報告しました。ちょうどその頃、本社では盗難事件が多発していました。そこにきて、あの素行の悪い権野の不可解な行動です。


 告発の効果は抜群でした。権野は翌日から編集局長付となり、調査が終わるまで、自宅謹慎を命じられます。


「これで邪魔者は消えた」


 兵働は笑みを浮かべます。しかし、その後……兵働の仕事の質が、明らかに落ち始めました。大量のローテ記事や雑報処理の依頼も来ます。毎日、紙面はなかなか埋まりません。


「君、キャップなんだから、どうにかしてよ‼︎」


 担当デスクから、詰められることもしばしばです。


 悪いことは続くものです。ネタのリークやファンレターが、兵働の郵便ボックスにピタリと届かなくなったのです。


「何かがおかしい……」


 木の葉も色づき始めたある秋の午後。閑散とした夕刊後のフロアで、机に頬杖をつきながら兵働は思案します。ふと視線を向けた先。そこには権野の取材ノートがありました。この間、権野の机の引き出しから押収されたものだそうで、部長から渡されました。が、ずっと放置していました。

 胸に妙なざわめき。

 兵働は、そのページを捲ってみることにします。


 ──んっ?


 違和感。

 最初に眉がピクリと反応します。さらにページを捲ります。どんどん眉間に皺が寄り、手が震えだします。ついには、ページを捲れなくなってしまいました。鼻息荒く、目は驚愕に見開かれ、全身がガクガクと震えていました。

 違和感は確信へと変わりました。間違いありません。取材ノートの筆跡は、あの女子大生のファンレターと同じでした。何度もニヤニヤしながら読み直したので、間違うはずがありません。


 あのリークネタの取材メモまで書かれています。なぜ今まで、気づかなかったのでしょうか?

 驚いて、兵働は椅子から立ち上がります。そして、斜め右の権野の席に向かって叫びました。


ゴン、お前だったのか……いつもネタを送ってくれていたのは……紙面を一生懸命、埋めてくれていたのは……」


 問いかけた先の権野の席から反応はありません。机上はもう綺麗さっぱり片付けられています。先日、権野は懲戒解雇処分となりました。兵働は、社会的に権野を殺してしまったのです。


「あぁぁ、すまぬゴン!」


 兵働はフロアに膝から崩れ落ちました。両手をついた床に、ポタポタと涙の雫がこぼれます。


 ピーピコピコ。

 閑散としたフロアで、共同通信のピーコだけが、虚しく鳴り響いていました。

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