エピローグ
凝結
「いやー、今日はマジで楽しかったねー!」
『天体嗜好症』のライブが終わりを迎えたのち、町田アンナは無邪気な声を響かせた。
客席ホールには大層な熱気が残されていたが、人影はまばらになっている。おそらく客の数多くは一階のフロアで『天体嗜好症』のグッズを買いあさり、撮影会に励んでいるのだろう。
めぐるの周囲には、ライブの前と同じ顔ぶれが居揃っている。『KAMERIA』のメンバーに浅川亜季とフユ、鞠山花子と田口穂実の八名だ。
「やっぱり周年イベントだけあって、テンタイは気合が入ってたねぇ。ホヅっちのご感想は如何だったかなぁ?」
「うん。確かに映像とは段違いの迫力だったねー。語りだけのステージで四十分も飽きさせないなんて、すごいと思うよー」
「そのぶん演奏が凝ってるんだから、飽きることはないだろうさ。ま、その演奏がへぼかったら、飽きる前にうんざりするだろうけどね」
「それもハル坊がしっかり土台を支えているからこそだわね。ハル坊は粗さと荒々しさが売りだわけど、リズムのスイートスポットが妙に広く感じるだわから、他のメンバーもリズムを合わせやすいんだわよ。わたいもあんたたちのイベントで、それを体感することになっただわね」
「あー、花ちゃんさんもセッションに乱入してたもんねー! アレはマジでかっちょよかったなー!」
『天体嗜好症』のステージが素晴らしかったため、一同の気分も上々である。
そしてめぐるは多幸感に疲労感が重なって、いささかならずまぶたが重たくなっていた。
(でも、今日は本当に楽しかったなぁ……誘ってくれたアリィさんたちに、ちゃんとお礼を言わないとなぁ……)
それにアリィたちも『KAMERIA』のステージに満足してくれたようであるので、それがめぐるの幸せな気分を増幅してくれた。
「で、今日も十時ぎりぎりまで居残るつもりなのかな? あんまり水を差したくはないけど、あたしらは明日も学校なんだよね」
和緒がクールな声をあげると、町田アンナは「ひゃー!」と悲鳴をあげながら田口穂実に抱きついた。
「そんな現実に引き戻さないでよー! えーん! もっとホヅちゃんと一緒にいたいよー!」
「それはあたしも一緒だよー。今度こそ、マジで時間を作るからさー。アンナ先生のおうちにお邪魔させてねー」
「絶対だよー? 今日だって、妹どもがずるいずるいってうるさかったんだからー!」
町田アンナは田口穂実の身を抱きすくめつつ、その肩に頬ずりをする。町田アンナが他者に甘えるというのはきわめて珍しい話であるので、めぐるは心が温かくなってやまなかった。
「フユも明日は仕事だから、そんなにゆっくりしてられないんでしょ? 名残惜しいけど、帰り支度を始めよっかぁ」
「だったら、車を回してくるよ。どうせ外は、大雨なんだろうしね」
「いや、ウェザーニュースでは降水量二ミリに更新されてるだわね。どうやら峠は越したようだわよ」
鞠山花子の言葉に、多くの人間がスマートフォンをチェックする。その中で、町田アンナが「ホントだー!」と声を張り上げた。
「これだったら、防水シートも必要ないかもねー! マジでたすかるー!」
「それで本当に、フユさんの車に乗せていただけるんですか? あたしでよければ、靴を舐めますけど」
「いちいちひねくれた口を叩くんじゃないよ。車に乗りたいなら、搬出の準備をしておきな」
そうしてフユが出口に向かおうとすると、鞠山花子が「待つだわよ」と引き留めた。
「どうせだったら、わたいもご一緒するだわよ。その前に――」
と、鞠山花子は真っ黄色の雨合羽の内側にころころとした指先をもぐらせて、パステルイエローの紙片を抜き取った。
「あんたたちには、これを渡しておくだわよ。よかったら、メッセージアプリにも登録しておくだわよ」
「えー! 花ちゃんさんの連絡先を教えてもらえるのー? オソレオオイけど、めっちゃうれしー!」
町田アンナが鳶色の瞳をおひさまのように輝かせると、鞠山花子は「ふふん」と鼻を鳴らした。
「まあ、二月の段階で教えておいてもよかっただわけど……わたいの流儀として、二度目の対面までは様子を見るんだわよ。あんたたちは想定以上の逸材だっただわから、そんな必要もなかっただわね」
「ありがとーございます!」と、町田アンナは両手で名刺を受け取った。
和緒はポーカーフェイスで、栗原理乃はおずおずと、それに続く。そしてめぐるは、栗原理乃よりもさらに恐縮することになった。
「あ、ありがとうございます。でもあの、わたしはスマートフォンとかを持っていませんので……アプリの登録とかができなくて、すみません」
「そういう原始人は、わたいの周囲にもいなくはないだわよ。うら若き高校生なら、いっそう罪もないだわね」
そう言って、鞠山花子はにんまり微笑んだ。
「ミサキがいなかったら、わたいはあんたをスカウトしてただわよ。いつかミサキが忙しくなったら、あんたの出番かもしれないだわよ」
「ええ? そ、それはあまりに恐れ多いですし……あんまりヒラヒラした服は着たくないのですけれど……」
「可愛い顔して、さすが神経は図太いだわね。まあ、何があろうとあんたの最大の輝き場所はそっちのバンドなんだわから、せいぜい励むだわよ」
鞠山花子のそんな言葉には、めぐるも素直に「はい」と応じることができた。
鞠山花子は満足そうにうなずきながら、今度は田口穂実のほうに向きなおる。
「この中で、都内住みはあんただけだわね? 方向が一緒なら、乗せてやらなくもないだわよ」
「えー? 電車代が浮くのは助かるけど、ほとんど初対面感覚なのにいいのかなー?」
「袖振り合うも他生の縁なんだわよ。あんたもわたいも同じ日に同じ連中と再会したんだわから、それなりの縁なんだわよ」
「ありがとー。花ちゃんさんって、マジで大物なんだなー」
というわけで、めぐるたちも搬出するにはいったん一階に上がる必要があるため、全員で階段を上がることになった。
一階のロビーめいた空間では、まさしく撮影会が敢行されている。メンバー三名の前に行列ができて、ひとりずつツーショットの撮影を行っているのだ。さらに、グッズを購入した額によっては、メンバー全員と撮影する権利も得られるようであった。
「テンタイは、グッズの売り上げとライブのバックだけで食べていくことを最初の目標に掲げてるだわね。ジャンル的にメジャーデビューは難しいだわから、インディーズ路線で活路を見出そうというコンセプトなんだわよ」
「おー! やっぱテンタイも、大マジなんだねー! テンタイだったら、きっと何とかなるんじゃないかなー!」
その人混みを迂回して、建物の出入り口に足を向ける。確かに雨脚は、ほどほどに弱まっているようであった。
「それじゃあみんな、またいつかねー。あたしも早くライブにお誘いできるように、自分のバンドを頑張るよー」
「うん! それと、絶対に家にも遊びに来てねー! 絶対の絶対だからねー!」
「花っちも、お疲れさまぁ。そっちも気をつけて帰ってねぇ」
「わたいのハンドルさばきにミスはないだわよ。それじゃあ、次の再会を楽しみにしてるだわよ」
フユと田口穂実は出入り口の傘立てに手をのばし、雨合羽の鞠山花子はフードをかぶって外界へと身を投じる。
そして最後に、フユが『KAMERIA』の面々を見回してきた。
「あんたたちは、精算もないんだよね? でも礼儀として、主催者のあいつらには挨拶をしておきな」
「了解です。今日はフユさんの言いつけにすべて従うとお約束します」
和緒が自分の胸もとに手を当てて恭しく一礼すると、フユは舌打ちをこらえているような面持ちで身をひるがえした。
フユと鞠山花子と田口穂実の姿が、雨夜の向こうに消えていく。そちらにぶんぶんと手を振ってから、町田アンナは和緒に向きなおった。
「和緒はマジで、車がありがたいみたいだねー! そんなに疲れたの?」
「フィジカル面より、メンタル面かな。これで雨の中を歩いたあげく一時間も電車に揺られるなんて、想像しただけで卒倒しそうだよ」
「ふーん! 和緒はメンタルも頑丈そうだけどなー! さては、めぐるのことが心配なんでしょー?」
「そいつはとんだ風評被害だね」と、和緒がめぐるの頭を小突いてくる。
きっとめぐるが眠そうな顔をさらしているため、和緒を心配させてしまったのだろう。それでめぐるが「ごめんね」と告げると、さらに頭を小突かれてしまった。
その後は壁に沿って移動をして、『天体嗜好症』のもとを目指す。行列もだいぶん短くなっていたが、撮影会の終了にはまだ時間がかかりそうだった。
「お邪魔しちゃって、ごめんねー! ウチらはそろそろ帰ろうかと思うんだけど、問題ないかなー?」
「え? ああ、そうか。そっちは学生さんなんだもんね。名残惜しいけど、無理には引き留められないか」
ちょうど撮影の切れ目であったアリィが、糸のように細い目を向けてくる。撮影会のためにメイクも直したのだろう。ステージ前と変わらない美々しさである。
「同志のみなさん、いったんごめんね。ミサキ、姫様、『KAMERIA』のみなさんがお帰りだってよ」
アリィがそのように呼びかけると、その場の撮影を終えたミサキとナラも身を寄せてきた。
「み、みなさんはもうお帰りなんですね。最後までお相手をできなくて、本当にすみません。また『KAMERIA』のライブにもお邪魔させていたきますので……」
「こっちこそ、どうもありがとねー! さっきのライブも、めっちゃ楽しかったよー! おたがい、これからも頑張ろーね!」
「は、はい」と口もとをほころばせてから、ミサキはおずおずとめぐるのほうを見やってくる。めぐるももじもじとしながら、それを見返すことになった。
「きょ、今日はありがとうございました。……また機会があったら、ゆっくりおしゃべりさせてください」
「は、はい。こちらこそ、是非お願いします」
そうしてめぐるとミサキがぺこぺこ頭を下げ合っていると、ナラが音もなく栗原理乃の前に進み出た。
すでにリィ様の変身を解いている栗原理乃は、町田アンナの背中に半分隠れつつ、それと相対する。真っ白な顔に赤と黒の二重の隈取をしたナラは、人形のような無表情で栗原理乃の不安げな顔を見つめて――そして、血のように赤い唇を開いた。
「あなたは、とても素敵でした。……どうかまた、同じ日にステージに立たせてください」
それは、囁くような声音であったが――その瞬間、撮影の順番待ちをしていた人々がわっとわきたった。
「姫様が、しゃべった!」
「姫様って、ステージの外でもしゃべれるんだ!」
「すごーい! わたしもしゃべってほしー!」
そんな風に騒がれても、ナラは無表情で不動である。
その代わりに、アリィが不敵に微笑みながら発言した。
「理乃さん。姫様が、一世一代の勇気を振り絞ったんだからさ。よければ、返事をしてあげてくれない?」
「え? あ、はい……こ、こちらこそ、今日はありがとうございました。また機会があったら、よろしくお願いします」
栗原理乃が目を泳がせながら頭を下げると、ナラはからくり仕掛けのような挙動で礼を返した。
そんな姿を見届けてから、一同は撮影会の場から離脱する。ナラの常ならぬ行動によって、撮影会の場はいっそう賑わったようであった。
「テンタイのお人らとも、無事に親睦が深まったみたいだねぇ。あたしもこれでひと安心だよぉ」
通路の奥にある関係者専用ドアのもとまで辿り着くと、老いた猫のような笑顔で浅川亜季がそう言った。
「それに、バンドとしての相性も悪くないんじゃないかなぁ。ちょいと縄張りは離れてるけど、またご一緒できたら楽しいねぇ」
「うん! 実はウチらも、周年イベントを企画したくってさー! なんだったら、テンタイにも声をかけちゃおっかなー!」
「周年イベント? 『KAMERIA』の? へえ、それは聞き逃せないねぇ」
浅川亜季の笑顔がチェシャ猫めいたものに転じると、和緒が町田アンナを押しのけて進み出た。
「でも、あたしらは初心者の集まりですからね。バンド界隈の仁義やら何やらもまったくわきまえていないんで、よかったら相談に乗っていただけませんか?」
「うんうん。主催イベントでコケたら大惨事だからねぇ。あたしでよければ、いくらでも相談に乗るよぉ」
「ありがとうございます。それじゃあとりあえず、機材を出しちゃいますね」
「うん。馴染みの薄いハコででかい顔はできないから、あたしはここで待ってるねぇ。ここから出口までは、荷物運びを手伝うからさぁ」
浅川亜季にお礼を言って、『KAMERIA』の四名はドアをくぐる。そうして階段を下りながら、町田アンナが和緒に呼びかけた。
「和緒はなんだか、慌ててたっぽいねー。ウチ、なんかまずいことでも言っちゃった?」
「あんたはブイハチだの『マンイーター』だのをイベントに誘おうとしてるんでしょ? そんな格上のバンドをイベントに呼びつけるのは礼儀知らずだって可能性もあるでしょうよ。まずはじっくりと、先輩様にご意見をうかがいな」
「あー、そっかそっか! じゃ、帰り道に相談させてもらおー! まずは、搬出だね!」
しかし、階段の下まで到着すると、そちらはなかなかの騒ぎであった。三つの個性的なバンドのメンバーたちが入り乱れて、帰り支度に勤しんでいたのだ。そちらはステージ衣装にも凝っているバンドが多かったので、なかなかの大荷物であるようであった。
「うーん。ちょっとお邪魔になっちゃいそうだねー。もうちょい落ち着くまで、待機してよっか」
ということで、『KAMERIA』の四名は階段の半ばまで引き返して、誰からともなく腰を下ろした。
あるいは、めぐるが真っ先に腰を下ろしたのかもしれない。楽しい気分はそのままに、肉体が少しずつ融解しているような感覚であったのだ。やはり本日の強行軍は、めぐるの身にそれなり以上の負荷を与えたようであった。
「めぐると理乃は、ぐったりしてるねー! ま、確かにしんどい一日だったけど、めっちゃ楽しかったよねー!」
町田アンナの元気な呼びかけに、めぐるは「はい」と笑顔を返す。
「本当に色々ありましたけど、すごく楽しかったです。それに……今日は、十回目のライブでしたもんね。無事に終わって、ほっとしました」
「十回目? もうそんなになるんだっけ?」
「前にもどこかで勘定した覚えがあるね。初ライブの『ニュー・ジェネレーション・カップ』に、夏の野外フェスが二回、秋口の文化祭に、初めての通常ブッキング、年末の年越しイベントに、ブイハチの企画イベント――で、卒業ライブと『ノー・ボーダー』で、今回のライブに至る、と。確かに、きっかり十回目だ」
「へー! 短めのイベントがちょいちょいはさまってるけど、それでも十回目かー! 結成一年で十回のライブなら、立派なもんっしょ!」
町田アンナが楽しげな笑顔でそのように語ると、隣の栗原理乃がもじもじと身を揺すった。
それで、めぐるの記憶巣が刺激される。たしか昨晩も、栗原理乃はこんな風な仕草を見せていたのだ。あれは、町田家での夕食を終えた後――アンプを使わない演奏会のさなか、町田アンナが『KAMERIA』の周年イベントについて初めて口にした際であった。
「……栗原さんは、何か気がかりなことでもあるんですか?」
めぐるがぼんやり問いかけると、栗原理乃は「え?」と首をすくませた。
「いえ。昨日も今日も、結成一周年の話題になると、何か言いたそうな様子でしたから……わたしの勘違いなら、ごめんなさい」
「あ、いえ……そ、そんな大した話ではないのですけれど……」
と、栗原理乃はいっそう小さくなってしまう。
すると町田アンナが、眉を下げつつそちらを振り返った。
「どーしたの? もし周年イベントに反対なんだったら、きちんと言ってね! ウチだって、みんなの意見をシカトする気はないから!」
「ち、違うの。周年イベントっていうものができたら、私も嬉しいと思うよ。ただ……」
「ただ?」
栗原理乃は深くうつむき、先刻のナラよりも小さな声を振り絞った。
「ただ……『KAMERIA』を結成したのは、今日だったから……」
「うん? 『KAMERIA』を結成したって……それ、なんのこと?」
「だ、だから……私が無理やり部室に連れていかれて……初めてみんなと一緒に歌を歌った日のことだよ」
今にも消え入りそうな声で、栗原理乃はそのように言いつのった。
「あ、あの頃はバンド名も決まってなかったし、私が入部届けを出したのは次の日だったけど……この四人でバンドを組もうって決めたのは、その日だったでしょ? だからあの日が、結成した日なのかなって……」
「待って待って! 理乃はその日付まで覚えてたってこと? 一年前の日付なんて、ウチには全然わかんないんだけど!」
「……うん。私は、日記をつけてるから……それで日付を確認してみたの」
すると、和緒が「ほほう」と声をあげた。
「それじゃあ栗原さんは、どのポイントで恐縮してるのかな? 高校生にもなって日記をつけてること? 結成の日付を自分だけが気にかけてること?」
「そ、それは……どっちもです」
栗原理乃が真っ赤になっていっそううつむくと、和緒は「なるほど」と応じてからめぐるの頭を小突いてきた。
「実はあたしもプレーリードッグが『SanZenon』のCDを手にした日取りを指摘したら、貴様はそんな話を後生大事に記憶しているのかと辱められたんだよね。栗原さんの今の気持ちは、痛いぐらいに理解できるよ」
「あはは! めぐるはそんなことで、和緒をからかったりしないでしょ! もー、どいつもこいつも話をややこしく考えるんだから!」
町田アンナは無邪気な笑い声を響かせてから、栗原理乃のほっそりとした肩を抱く。栗原理乃は赤い顔のまま、町田アンナの笑顔をおずおずと見つめ返した。
「だ、だって、周年イベントっていうのは初めてライブをやった日にするものだっていうから……こんな話は、意味ないでしょ?」
「意味ないわけないじゃん! この四人でバンドを組もうって決めた、運命の日なんだからさ! 周年イベントのネタにならなくったって、ウチらにとっては一番大事な日じゃん!」
町田アンナは栗原理乃の身を抱きよせて、その頭にぐりぐりと頬ずりをした。
「それがテンタイの周年イベントの日とかぶってるなんて、すっごい偶然だねー! じゃ、ウチらが部室で初めて理乃と音を合わせたとき、ここではテンタイが一周年記念のイベントを開いてたってわけだ! なんか、すっげー面白いじゃん!」
「向こうにしてみれば、なんじゃそらって話だろうけどね」
「そんなことないよー! それより何より、バンドを結成した日にたまたまライブが入ってたなんて、すっげー偶然じゃん! てゆーか、もはや運命じゃん!」
栗原理乃の身を抱いたまま、町田アンナは心から幸せそうに笑った。
その手の中では、栗原理乃もようやく笑顔を見せている。そしてそちらも、町田アンナに負けないぐらい幸せそうな表情であり――それを見守るめぐるもまた、胸が詰まるような思いを抱かされていた。
(去年の今日、わたしたちは栗原さんと初めて出会って……初めて四人で、音を合わせたんだ)
あの日、栗原理乃は最後まで歌うことを嫌がっていた。彼女は自分の特異な歌声を恥じており、人前で歌うことを忌避していたのだ。
しかし、最後の最後で栗原理乃は覚悟を固めてくれた。歌とギターのフレーズしか存在しなかった『小さな窓』のアレンジを固めるために、めぐるたちは四苦八苦して――その姿に、栗原理乃は何かを感じ取ってくれたのだ。
あのとき栗原理乃が勇気を振り絞ってくれたからこそ、今の幸せがある。
そしてそれは、メンバー全員にも言えることであった。
町田アンナが格闘技の稽古をやめて、ギタリストになろうと決心したから――和緒がめぐるの願いを聞き入れて、ドラムを引き受けてくれたから――そして、めぐるが和緒の背中に隠れながら、軽音学部のドアをノックしたから――そのうちのひとつでも欠けていたら、『KAMERIA』はこの世に存在しなかったのだった。
メンバー全員の決断が、今に繋がる幸福の連鎖を生み出したのだ。
めぐるは何だか、涙をこぼしてしまいそうだった。
そして、そんな気持ちとは裏腹に、体はどんどん重くなっていく。
なんだか体の端から、じわじわと溶けていっているような感覚だ。
しかし、めぐるの肉体が気化したならば、その周囲にはさらに温かな空気が満ちるのではないか、と――そんな妄想を抱くぐらい、めぐるは幸福な心地であった。
(……なんか、『凝結』の歌詞とは正反対だな)
自由に空を舞っていた存在がじわじわと融解して、汚い地面にしたたり落ちていく――めぐるが『凝結』の歌詞から抱くのは、そんなイメージである。
きっと鈴島美阿という女性は、この世界に強い反感を抱いていたのだろう。彼女のそんな激情は、『SanZenon』の歌詞や演奏にあふれかえっていた。
しかし彼女は、あれほどに理想的なバンドを完成させていたのだ。
たとえその根源にあるのが、どろどろとした負の感情であったのだとしても――いや、そうであるのなら、なおさら『SanZenon』を結成できた喜びが、彼女の心を深く満たしていたのではないだろうか。
もちろん、それを確かめるすべはない。
しかしめぐるは、何の根拠もなく彼女の幸福を信ずることができた。あれだけの激情を抱えた彼女が、それを分かち合える仲間と巡りあえたならば、幸福でないはずはなかった。
(そうじゃなきゃ……そもそもバンドをやろうなんて考えるはずがないよ)
めぐるがそんな風に考えたとき、頭にこつんと小さな衝撃が走った。
また和緒に頭を小突かれたのかと思ったが、そうではなかった。めぐるのほうがぐったりと倒れかかり、和緒の肩に頭を乗せていたのだ。
和緒はしなやかな首を傾けて、めぐるの顔を覗き込んできた。
「……さては、力尽きたふりをして、搬出の作業をあたしに押しつけようって算段だね?」
そんな皮肉っぽい言葉を吐きながら、和緒の切れ長の目に宿されるのはとても優しげな輝きだ。
めぐるは放埓な多幸感に身をゆだねながら、「あはは……」と笑ってみせた。
「そんなことしないよ……ただ、ちょっと疲れちゃったから……搬出が始まるまで、肩を貸してもらえる?」
「先に強奪してから言う台詞じゃないね。なんて傲慢な齧歯類だろう」
「うん……ありがとう……」
和緒の優しさに甘えながら、めぐるはまぶたを閉ざした。
そうして『KAMERIA』を結成してから一周年となるその日の夜は、とても温かい空気の中で終わりに近づいていったのだった。
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2024.10/13
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