05 覚悟と決断
「じゃ、部室の鍵は、ウチが返しておくから! また週明けにねー!」
部室におけるセッションを終えたのち、町田アンナは風のように立ち去っていった。
和緒はすべての感情を押し殺して、裏門に向かう。すると、ベースのケースを担いだ遠藤めぐるは不安げな面持ちでちょこちょこと追いかけてきた。
彼女が不安がる理由は、どこにもない。町田アンナは早い段階で、バンドを組もうと提案してきたのである。決断力に欠ける遠藤めぐるは即答を避けていたが、返事は決まっているはずであった。
だが――町田アンナはもののついでとばかりに、和緒までバンドに誘ってきたのだ。
それはもう、大きなお世話としか言いようがなかった。和緒の力量ではこの二人についていけるわけがなかったし、それに――和緒はその他大勢のひとりとして、遠藤めぐるの行く末を見守るのだと決意しているのである。遠藤めぐるのバンドメンバーとしてのさばるつもりなど、和緒はさらさらなかった。
しかし、町田アンナが余計な誘いをかけてしまったために、遠藤めぐるは心を乱してしまっている。
内向的な彼女は、気心の知れている和緒が参加してくれることを期待してしまったのだ。そんな内心が、目つきや表情にこぼれまくっていた。
(まったく、余計な置き土産だね。あたしの覚悟に水を差さないでよ)
同じバンドのメンバーになってしまったら、つかず離れずの距離を保つことも難しくなる。そうして不用意に距離を縮めたならば――和緒が空っぽの人間であることも露呈してしまうことだろう。しかも和緒は、ドラムの経験など持ち合わせていないのだ。人間としてもドラマーとしても遠藤めぐるに失望されるなど、和緒に耐えられるわけがなかった。
だから和緒は全力で素っ気ない態度を取り、おかしな期待感を打ち砕いてやろうと苦心していたのだが――遠藤めぐるは、一歩も引き下がらなかった。相変わらず自己主張はしないまま、すがるような目で和緒を見つめてくるのだ。これこそ、和緒にとっては生き地獄そのものであった。
(あんたさあ……あたしがどんな思いで身を引こうとしてると思ってるんだよ?)
和緒はそんな憤懣を覚えたが、しかしこちらも一切内心を明かしていないのだから、何も怒れる立場ではない。よって、それらの憤懣もすべて自分に返ってくることになった。
和緒は餓死寸前の状態で、目の前にご馳走を並べられた気分である。
あるいは肉欲にまみれた男が、全裸の美女に誘いをかけられているようなものであろうか。おそらく和緒は無意識の領域で性愛に嫌悪感を刻みつけられてしまったので、そちらのたとえはあまりピンとこなかったが――何にせよ、自らの欲求を自ら断ち切らなければならない立場であった。
(あんたと一緒にバンドを組むなんて……そんなの、楽しいに決まってるじゃん)
遠藤めぐると一緒にバンドを組んだならば、きっと毎日のように顔をあわせることになるのだろう。そして、これまで以上に熱のこもった言葉を交わすことになるのだ。彼女はこれだけベースの練習に夢中であったのだから、バンド活動にも同じだけの熱情を傾けるはずであった。
いまや遠藤めぐるは試験勉強すら二の次にして、ベースの練習に打ち込んでいる。彼女の人生は、ベースを中心に回り始めているのだ。彼女はベースを手にしてから、人間らしい表情をこぼすことが格段に増えていたし――その事実が、和緒の胸を深く満たしていたのだ。
そんな遠藤めぐると同じバンドで活動したならば、楽しいに決まっている。
しかも和緒は先刻のセッションで、ドラムの楽しさまで知ってしまった。小学生時代の鼓笛隊もなかなか楽しい体験であったが、ドラムのプレイはそれ以上であったのだ。なおかつそれは、遠藤めぐるや町田アンナとともに演奏することでいっそうの拍車が掛けられたのだろうと思われた。
だからこそ――和緒は、委縮してしまっている。
人間としてもドラマーとしても、遠藤めぐるに失望されたくないのだ。それは、その他大勢の名もなき友人としての資格さえ失いかねない、和緒にとって何より危機的な状況であったのだった。
しかしまた、それとは相反する心情も存在する。
そうして臆病な和緒が逃げ去ったならば、町田アンナが遠藤めぐるにとってもっとも重要な存在として君臨することになるのだ。
あの生命力にあふれかえった娘さんであれば、すぐさま遠藤めぐるの心の壁を粉砕することだろう。そうして彼女は、遠藤めぐるにとってかけがえのない存在となり――和緒はそのさまを、遠くからぼんやり眺めることになるのだ。
遠藤めぐると先に知り合ったのは自分であるのに、どうしてこちらが身を引かなくてはならないのか。
そんな浅ましい思いまでもが、和緒の胸中には渦巻いてしまっている。
だから和緒は遠藤めぐるのすがるような眼差しに、とてつもなく心をかき乱されてしまうのだった。
「……かずちゃんはやっぱり、ドラムをやりたくないんだよね?」
と――駅に向かって歩きながら、遠藤めぐるがおずおずと問うてくる。
不安と期待がぐちゃぐちゃに入り乱れた眼差しだ。和緒は胸を引き裂かれるような痛みを覚えながら、素っ気ない言葉を返すしかなかった。
「あんたはあたしの気持ちを尊重するんじゃなかったの?」
「う、うん。だから、かずちゃんの気持ちを確認しておきたいんだよ」
「あっそう。まあ、あたしがそれに応える義理はないけどね」
そうして和緒が視線をそらすと、遠藤めぐるはなおも言いつのってきた。
「かずちゃんは、何をそんなに怒ってるの? わたしは馬鹿だから、はっきり言ってもらわないとわからないよ」
「だから、怒ってないって言ってるじゃん」
「で、でも……いつものかずちゃんの態度じゃないし……」
「そりゃあ、あんたの態度が鼻につくからじゃない? あたしの気持ちを尊重するとか言って、そんなすがるような目で見られたらさ。こっちは嫌な気分になるだけだよ」
和緒は何だか、自分の胸をざくざくとナイフで切り刻んでいるような心地であった。
すると――遠藤めぐるが常にないほどの大声を張り上げた。
「だって、わたしはそうするしかないじゃん!」
和緒がびっくりして振り返ると、遠藤めぐるはぽろぽろと大粒の涙をこぼしてしまっている。
それはまるで、赤ん坊みたいに頑是ない泣き顔であった。
「あのさぁ……こんな往来で、泣かないでよ」
「泣いてないよ。涙は出てるけど」
「世間では、それを泣くって表現するんだよ」
ベースを手にして以来、遠藤めぐるは何度となく涙をこぼしている。そのたびに、和緒は胸を痛めていたのだが――今日の痛みは、その比ではなかった。この涙は、和緒のせいで流されることになったのだ。
(……これじゃああたしも、黙ったまんま逃げられないじゃん)
それでも和緒は往生際悪く、遠回しに一部分だけ自分の気持ちを伝えることにした。バンド活動を絵画とヌードモデルに置き換えて、自分の立場や心情をそろりと垣間見せたのだ。
自分は、ドラムをやりたくない。
しかし、遠藤めぐるが他のメンバーとバンド活動に打ち込んだら、自分とのつきあいは希薄になってしまうことだろう。
和緒が伝えたのは、それだけの内容であった。
どうしてドラムをやりたくないのかという根源的な部分には、いっさい触れていない。それでも、遠藤めぐるとの今後の関係性に不安を覚えているという真情をこぼしたのだ。和緒としては、これだけでも往来でストリップをしているような心地であった。
遠藤めぐるは無事に困惑しまくったが、それでも和緒の真意を汲み取ってくれたようである。
そして――その末に、力強い言葉を返してきたのだった。
「わたし……かずちゃんに、ドラムをやってほしい」
和緒は暴れ回る心臓を抑えつけながら、何とか無表情に遠藤めぐるの顔を横目でにらみつけてみせた。
「それがあんたの、模範解答ってわけ?」
「も、模範解答かどうかはわからないけど……何も気持ちを伝えないまま、かずちゃんとの関係がおかしくなっちゃうなんて……そんなのは、嫌だから」
そう言って、遠藤めぐるは涙をふいた顔に無垢なる笑みをたたえた。
「それに……何も気持ちを伝えないまま、決定権を相手にゆだねるっていうのは……きっと、卑怯なことだよね。わたしはいつもそうやって、かずちゃんに甘えてきちゃったんだ。だからかずちゃんも、あんなに怒ってたんじゃないの?」
「だから、怒っちゃいないってのに」
「でも、わたしの態度が鼻について、嫌な気分になってたんでしょ? それは、わたしが甘ったれだからだよ。自分では何の責任も負おうとしないで、かずちゃんに判断をまかせちゃってたから」
これが本当に、あの内向的で自己主張をあきらめた遠藤めぐるなのだろうか。
そんな感慨を噛みしめながら、和緒はあくまで素っ気なく言葉を返した。
「それで、自分の欲求をあきらめるんじゃなく、それを押しつける方向にシフトしたってわけ?」
「うん。だってこのままじゃ、絶対に後悔するもん。もしもこの先、どんなドラムの人と巡りあったって……どうしてかずちゃんに本当の気持ちを伝えなかったんだろうって、わたしは後悔すると思う」
「その後悔を回避するために、あたしに無茶な要求をしようってわけか」
「うん。わたしは、かずちゃんとバンドを組みたい。わたしがさっき、あんなにのびのび演奏できたのは、かずちゃんが一緒だったからなんだよ。それに、バンド活動のせいでかずちゃんに会えなくなっちゃうのも、嫌だ。わたしにとって大事なのは、この世でかずちゃんとベースだけだから……かずちゃんと一緒にバンドを組めたら、どんなに幸せだろうって考えちゃうの」
遠藤めぐるの言葉が、和緒の五体を絡め取っていく。
彼女はそれほどの強い気持ちで、和緒の存在を求めてくれているのだ。
あるいは――和緒は彼女のそんな真情を引き出すために、策を弄したのかもしれなかった。
(……本当に、見下げ果てた人間だよね)
遠藤めぐるの言葉が温かければ温かいほど、和緒は甚大なる自己嫌悪にとらわれた。
それを少しでも解消するべく、和緒は言葉を重ねることにした。
「それでは、第二問です」
「だ、だいにもん?」
「この二年間、あたしらはつかず離れずの絶妙な距離感で過ごしてきたよね。バンドなんか組んだ日には、その絶妙な距離感も木っ端微塵だろうけど、あんたは不安に感じたりしないのかな?」
遠藤めぐるは強い痛みをこらえるように眉をひそめてから、「うん」とうなずいた。
「わたしと毎日顔をあわせてたら、かずちゃんはうんざりしちゃうかもしれないけど……なるべくかずちゃんの負担にならないように、わたしもしっかり気をつけるよ」
「……ずいぶん的外れな回答だね。誰もそんな話を心配しちゃいないよ」
「え? それじゃあ何を……?」
「うんざりするのは、あたしじゃなくってあんたの役割でしょうが? あたしみたいなヘンクツ者と毎日顔をあわせることこそ、負担以外の何物でもないでしょうよ」
遠藤めぐるは、心底から驚いたように目を見開いた。
こんなていどでも、和緒が本心をさらしたことはなかったのだ。それでも和緒としては、腹の中から引きずり出した膵臓を差し出したような心地であったのだった。
「よ、よくわかんないけど……わたしがかずちゃんにうんざりするなんて、絶対にありえないと思うよ?」
「へえ。顔をあわせるたびに頭を小突かれてるのに、そんな風に言い切れるもんかね」
「う、うん。だってわたしはできることなら、毎日だってかずちゃんに会いたいと思ってたし……でも、そんなのはかずちゃんにとって迷惑だろうから……だから、ずっと我慢してたんだよ?」
「その我慢が、長いつきあいの秘訣だったのかもよ。あたしみたいな人間に深入りしたら、たいていの人間は音をあげるだろうからね」
「そ、それこそ、わたしの台詞だよ。わたしは絶対、かずちゃんにうんざりしたりしないよ」
遠藤めぐるは思い詰めた面持ちになって、和緒のほうに身を寄せてきた。
「わたしもかずちゃんをうんざりさせないように、気をつけるよ。だから……一緒にバンドを組んでくれない? わたしは、かずちゃんのドラムでベースを弾きたいの」
和緒は、沈思した。
そして、心のもっとも深い部分で覚悟を固める。
和緒は空っぽで、何の取り柄もない人間だ。
しかも性根は歪んでいるし、偏屈で、卑怯で、軟弱者である。
だけど――それでも心から、遠藤めぐるのことを好いている。
あとはもう、それだけを唯一の武器として戦っていくしかないようであった。
(わかったよ。あんたがあたしを捨てようとしたら、全身全霊で取りすがってやるからね。覚悟しとけよ、マイフレンド)
そうして和緒は、二年以上にわたって抱き続けてきた信念を打ち捨てることになった。
つかず離れずの距離から見守るのではなく、もっとも近い場所に居座って、遠藤めぐると同じ道を突き進むのだ。
すべてを失うリスクを背負って、これまで以上の幸福と充足を求めるのである。そしてそこには、町田アンナという第三者も介在するわけであった。
(さてさて、どんな末路が待ってるやらだね)
しかし、どんな末路が待っていようとも、遠藤めぐるとともにあれば満足できるのではないか――そんな思いを胸に秘めながら、和緒は新たな人生に足を踏み出すことに相成ったのだった。
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