-Track2-
01 覚悟
穂実のステージを見届けたことで、アンナは復調した。
憑き物が落ちたように心が軽くなり、笑顔で穂実とお別れすることができたのだ。それはまさしく、彼女のギターサウンドに負の感情を木っ端微塵にされたような心地であった。
しかしその代わりに、アンナは彼女のギターサウンドに取り憑かれてしまった。
寝ても覚めても、あの夜に耳にした轟音が頭から離れないのだ。それは本当に、脳内にスピーカーでも埋め込まれたような感覚であった。
『どうしよー! ベンキョーどころか、稽古にも集中できないんだけど!』
アンナがスマホでそんなメッセージを送ると、穂実はすぐさま返信をくれた。
『勉強はともかく、稽古に集中できないのはまずいねー。いっそ稽古中に、音楽を聴いてみたら? そーゆーアスリートも少なくないって話だったでしょ?』
『でも、ホヅちゃんの演奏は聴きようがないじゃん! しばらく千葉でライブはやらないんでしょー?』
『だったら、あたしの好きなバンドでも教えてあげよっか? あたしよりイカしたギタリストなんて、世間にはゴロゴロしてるんだからさー』
そうして穂実は、彼女が影響を受けたアーティストの名前を余さず教えてくれた。それでアンナは動画サイトでそちらのライブ映像や音源をあさることになったわけだが――それは二つの相反する激情をかきたてる役にしか立たなかった。
『なんか、よけーにコーフンしてきちゃうんだけど! あと、半分ぐらいのバンドはウチのシュミに合わないかもー! なんか、すっげー物足りなく思えちゃうの!』
『そりゃまあ、人の好みはそれぞれだからねー。アンナ先生も、理想のバンドを探してみたらー? 気に入ったバンドの関連動画とかをあされば、クリーンヒットなバンドと出会えるかもよー?』
穂実の助言に従って、アンナはさまざまな動画をあさることになった。
それで確かに、好みに合うバンドは発掘できたのだが――しかし、脳内の音は鳴りやまなかった。それどころか、音の種類と音圧が増すばかりであったのだ。
これはいったいどういうことなのかと、さしものアンナも思い悩むことになった。この世に生を受けて十三年、アンナが稽古に集中できないことなど一切なかったのだ。それはアンナにとって、もっとも基本となる地盤が揺らいでしまったような心地であった。
そうしてアンナは、悩みに悩みぬき――それで、ひとつの結論に達した。
アンナを混乱させたのは、まぎれもなくあの夜の体験だ。穂実の奏でるギターサウンドこそが、アンナの心をかき乱したのである。
さりとて、どのような音楽を聴きあさっても、アンナの惑乱は消え去らない。なおかつ、数々の音楽に触れることで、穂実の幻影はじわじわと薄らいでいったのだが――それでもなお、アンナの心は昂るばかりであったのだ。
(たぶん、ホヅちゃんのライブをもういっぺん見ても、この気持ちは変わらない。きっとこれは、そーゆー話じゃないんだ)
そうしてアンナは大いに悩み抜きながら、二週間ほどの日を過ごし――中学校に入学して初めての春休みに突入したところで、人生最大の決断を下すことに相成ったのだった。
◇
春休みに入って数日後の、三月の最終日。
アンナはディナーを終えた食卓の場で、自らの覚悟と決断を家族に表明することになった。
「ウチ、道場の稽古をやめて、ギターの練習をしたい」
そんな言葉を聞かされて、アンナの家族たちはきょとんと目を丸くした。父親も、母親も、二人の妹たちも、全員が同じ表情である。
「……どうしたの、アンナ? 稽古に集中できないならしばらく休みなさいと言ったのは、わたしたちだけど……その間に、ギターの練習をしたいっていうこと?」
最初に我を取り戻した母親が、そのように問うてくる。
アンナは「ううん」と首を横に振ってみせた。
「しばらくじゃなくて、すっぱり稽古をやめようと思ってる。じゃないと……ウチも、けじめをつけられないから」
「えー? それじゃーほんとに、おけいこをやめちゃうのー? おねーちゃんは、ぷろになるまでがんばるとおもってたのになー」
そのように答えたのは、この春から小学二年生になるエレンである。しかしその小さな顔には、普段通りの朗らかな笑みがたたえられていた。
「でも、ぎたーをやりたくなったんなら、しかたないよねー。このまえのホヅちゃん、すごくかっこよかったもんねー」
「ま、待て待て! そんな簡単な話じゃないぞ! ギターを始めるのはいっこうにかまわんが、何も稽古をやめる必要はないだろう! 稽古を続けながらでも、ギターなんていくらでも弾けるじゃないか!」
「それじゃあ、けじめがつかないんだよ。それに、ウチの性格は知ってるでしょ? ふたつのことを同時に本気で取り組むなんて、ウチには無理だもん」
アンナがそのように答えると、父親は絶句してしまった。
「それに、ギターを頑張るなら指を守らなきゃだから、どっちみち稽古は続けられないんだよ。ホヅちゃんだって、サンドバッグを蹴るばっかりだったでしょ?」
「だ、だけど……柔術だったら、拳を痛めることもないし……」
「でもホヅちゃんも、突き指がこわいなーって言ってたよ。そんなことを怖がりながら、マジで稽古を頑張れると思う? ホヅちゃんみたいにダイエットが目的だったらいいけど、上を目指すなんて不可能でしょ。……それより何より、ウチはそんなハンパな気持ちで稽古を続けられないんだよ」
それが、アンナの下した決断であった。
父親が再び絶句すると、今度は母親がやわらかな声で問うてくる。
「でも、アンナは十三年間も稽古を頑張ってきたのよ。あなたもいずれはキックやMMAでプロファイターを目指すつもりだったんでしょう?」
「うん。だから今度は、ギタリストとして上を目指すんだよ。まあべつに、プロになるのが最終目標ってわけじゃないんだけど……ウチはもう、ギターのことで頭がいっぱいになっちゃったの。だから、エネルギーの全部をそっちに向けたいんだよ」
「そう……それじゃあ、本気なのね」
母親は、ふっと寂しげな微笑をもらした。
それでアンナは、一気に目頭が熱くなってしまう。しかし決して泣くものかと、全力で涙腺を引き締めることになった。
「ウチはたまたまこの家に生まれついただけだけど、ほんとに格闘技が大好きだったし、道場の稽古を楽しいと思ってたよ。理乃なんかはピアノのレッスンを強制されて、すごく苦しそうだし……ホヅちゃんも、バレエを習ってたのは黒歴史だって言ってた。でもウチは格闘技が大好きだったから、ほんとにラッキーだったと思う。でも……ギターを弾きたいっていう気持ちを止められなくなっちゃったの」
「うん。アンナはいつでも、真っ直ぐだからね」
「……これまでめいっぱい応援してくれたのに、ほんとにごめんなさい。今度こそ、絶対に途中でくじけたりしないから……ウチがギタリストを目指すことを許してください」
アンナは畳に手をついて、限界まで頭を下げてみせた。
その肩に、母親の手がそっとのせられてくる。
「何も謝る必要はないのよ。もちろんアンナが格闘技に夢中になってくれたのは、すごく嬉しかったけど……それを強制したら、理乃ちゃんの家と同じになってしまうものね。どんな風に生きるかは、アンナが決めていいのよ」
「そうだよー! エレンだって、いつかはおけいこをやめちゃうだろうしねー!」
「な、なに? エレンも稽古をやめたいのか? 不満があるなら、なんでも聞くぞ!」
「ふまんとかじゃなくてさー。たのしーことは、いっぱいあるから! エレンはいったいいちのしょうぶじゃなくって、みんなでいっしょにがんばりたいんだよねー!」
「うん。エレンは団体競技に向いてるのかもね」
「ロ、ローサも稽古をやめたいと思ってるのか?」
「ううん。わたしはプロを目指したいと思ってるよ。それに……将来は、ママみたいにコーチになりたいと思ってるしね」
アンナのこともほったらかしで、家族はすっかり盛り上がってしまっている。
それでアンナが顔を上げてみると――ローサは小麦色の顔にとても優しい笑みをたたえて、アンナのことを見つめ返してきた。
「だけど、わたしはまだ十歳だし、お姉だって十三歳だもんね。将来のことは、誰にもわからないんじゃない? 今は本気でギターに取り組んで、いつか格闘技に戻ってきても、わたしは全然かまわないと思うよ」
「……それでも途中でくじけることを考えながら頑張ることはできないけどね」
「当たり前だよ。お姉がそんな人間じゃないってことは、みんなわかってるから」
ローサの優しい笑顔と言葉に、アンナは今度こそ涙をこぼしてしまいそうだった。
しかしそれをぐっとこらえて、アンナは両親の姿を見比べる。
「しつこいかもだけど、ウチはほんとに道場も格闘技も大好きだから。手伝えることは、なんでも手伝うよ。でも、プロファイターじゃなくて、立派なギタリストを目指したい。……二人にも、許してもらえる?」
「だから、許すも何もないのよ。最後に決めるのは、アンナなんだからね」
「ありがとう。……だけどその、ウチがギタリストを目指すには、ちょっとあれこれ問題もありまして……」
アンナが自分の頭をかき回しながら口ごもると、母親は不思議そうに小首を傾げた。
すると、ローサがくすりと笑う。
「エレキギターって、けっこう高そうだよね。でも、お姉は貯金なんて残ってないんじゃない? 今年のお年玉も、みんな洋服とかに使っちゃったもんね」
「じ、実はそうなんだよね。ホヅちゃんも、あんまり安物だと上達が遅くなるって言ってたし……ウチは、今すぐにでも練習を始めたいから……」
「け、稽古をやめる上に、ギターの代金をよこせって言うのか? そんなの、あまりに理不尽じゃないか!」
父親が悲嘆の雄叫びをあげると、母親がそれをなだめるように微笑みかけた。
「パパ。まずは、アンナの話を聞いてあげましょう。それが、親のつとめでしょう?」
「だ、だけどこんなのは、結婚の費用をよこせと言われるようなもんじゃないか! 可愛い娘を嫁に出すのに、金までむしり取られるなんて……!」
「うんうん。ちょっとトンチンカンだけど、パパはそれだけお姉が大切なんだよね」
ローサも母親と逆の側から、父親に優しく笑いかける。アンナやエレンは父親に対してあまり素直になれないため、こういう場面では母親とローサが頼りであった。
「それで? エレキギターっていうのは、どれぐらいするものなのかしら?」
「う、うん……ホヅちゃんは、最低でも五万円ぐらいって言ってて……その倍だったら理想的って話だったけど……」
「五万円や十万円っていうのは、大変な金額ね。アンナが尻込みする気持ちもわかるわ」
そんな風に言ってから、母親はにわかに青い瞳を鋭くきらめかせた。
稽古中さながらの、真剣な眼差しである。それでアンナも、すぐさま背筋をのばすことになった。
「でも、それで尻込みするぐらいだったら、ギターをあきらめて稽古に集中するべきでしょうね。そのていどの覚悟で十三年間の苦労を棒に振るのは、間違っているもの」
「そ、そんなことないよ! ウチだって、きっちり覚悟は固めてるから――!」
「それじゃあ、その覚悟を示しなさい」
「……どうやって示せばいいの? ウチだって、自分でどうにかできるなら頑張りたいけど……中学生じゃ、アルバイトもできないでしょ?」
「そうね」と、母親は思案した。
「たとえば……あなたはさっき、プロになるのが最終目的ではないって言っていたわよね。それじゃあ将来のことは、どんな風に考えているの?」
「しょ、将来のこと? そこまでは、何も考えてなかったけど……」
「そう。でも、たとえプロファイターを目指す夢が破れても、ずっと稽古を積んでいれば道場のコーチを任せることもできるわ。あなたがその道をあきらめて、プロになれるかどうかもわからないギターを頑張りたいっていうのなら、きちんと将来のことを考えるべきでしょうね」
母親の真意がわからないアンナは、背筋をのばして次の言葉を待つ。
母親は鋭い目つきのまま、意想外の言葉を口にした。
「たしか……理乃ちゃんはピアノのレッスンに打ち込みながら、学校の成績もとても優秀なのよね?」
「う、うん。クラスでも、いつもトップレベルみたいだよ」
「それじゃああなたは、理乃ちゃんと同じ高校に進学できるように頑張りなさい。そうしたら、プロのミュージシャンになれなくても大学受験や就職活動に困ることもないでしょう。その条件をクリアできるなら、五万でも十万でも貸してあげるわ」
あまりに意想外な言葉に、アンナは目を白黒させることになった。
「そ、それで費用を出してもらえるなら、ウチも死ぬ気で頑張るけど……でも、高校受験なんて二年後でしょ? ウチは今すぐ、練習を始めたいんだけど……」
「もちろん費用は、すぐに貸してあげるわ。でも、理乃ちゃんと同じ高校に合格できなかったら、ギターは没収ね。あなたは道場の稽古を再開させるか……あるいは、他の生きる道をお探しなさい」
「……そうだな。格闘技をやめるっていうんなら、それぐらいの覚悟を示すべきだろう」
父親は真面目くさった面持ちで、うんうんとうなずいた。
そんな両親の姿に、アンナはつい笑ってしまう。しかしきっと鏡を見たならば、そこには試合前のように不敵な笑みが浮かべられているはずであった。
「わかった。ありがとう。ウチは死んでも理乃と同じ高校に入ってみせるから、ギターの費用をよろしくね」
そうしてアンナは物心がつく前から取り組んでいた格闘技と決別し、ひとりのギタリストとして生きていくことが決定されたのだった。
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