五話
エルイード様は徐々に社交に復帰された。最初の過保護なほどの手配は徐々に緩めたけど、大きな問題は起こらなかったわね。
既に私という妻があるエルイード様にはもうご令嬢が押し掛けてくる事も無い。女性に不躾に話し掛けられなければエルイード様もそんなに緊張はしない。
そして社交においては次期公爵夫妻である私達は最上位に近い存在であり、当たり前だけど無礼な態度を取る者はいない。以前に侯爵令嬢が処分された顛末を知っていれば尚更だ。
そんなわけでエルイード様と私は揃って普通に社交に出るようになり、おかげで私たち夫婦に対する悪い噂はたちまち消え失せた。
そしてエルイード様は私を頼りにして下さるから、社交の間中私の側を離れない。私以外とはダンスをしない。他の女性とは会話も交わさない。そんなだから私とエルイード様の仲睦まじさはあっという間に社交界では常識にまでなった。
実際には私の手を握っていないと、他の人と会話する時にまだまだ緊張してしまうからなんだけどね。言葉を発する前に考え過ぎてしまう癖がある彼のために、私が会話のテンポを調整する合いの手を入れたり、助け舟を出したりしなければならないのもある。
しかし、普通に会話さえしていれば、エルイード様はお義父様譲りの大柄な体格で、少し丸いけどお顔の造作も整っていて、太っているのも貫禄だと見做せば、着飾った姿で堂々と貴族達の挨拶を受けられるお姿は中々立派なものだったのだ。
しかも元々頭脳は明晰だし博識だ。お義父様のお仕事を手伝っていて王国の内情にも詳しい。だからお話をした皆様はエルイード様がしっかりとした内容のお話をなさるので随分と驚いたようだ。
堂々とした立派なお姿で、聡明な受け答えをなさるエルイード様の評判は「引きこもりのぽっちゃり公爵」から「流石は次期ゼークセルン公爵」という風に急激に改善した。
これに誰より喜ばれたのはお義父様もだけど王太子殿下だった。
殿下は以前からエルイード様の事を大変高く評価なさっていた。なのでエルイード様の評価が正しいものになって行くことに大変お喜びになり「当たり前だ。エルイードには私の片腕になってもらわねばならないのだからな!」などと仰って、それを聞いた貴族達が驚き、エルイード様への評価がまた上がるという事態になっていた。
そういう風にエルイード様の評価が変わった原因は、誰がどこからどう見ても私と結婚したおかげだ、という話になっているようだった。いや、それはもうお義父様が「エルイードは王国一の嫁をもらった。あのような女性が我が家に来てくれた事は大女神様の恩寵としか思われぬ」などと私を大袈裟に褒めて下さり、その噂に尾鰭がついてなんだか私の評判が大変な事になってしまっているようなのよね。
おかげさまで私を含めたゼークセルン公爵家の評価は高まり、社交界での居心地は更に良くなった。賢夫人だなんて誉めそやされるのは恥ずかしかったけどね。
エルイード様は社交に慣れたあたりから、王太子殿下にお招きされて、王宮に出仕を求められるようになった。まぁ、次期公爵にして王太子殿下が「片腕だ」とまで仰るエルイード様が王宮に上がらないなんておかしな事だからね。
エルイード様は嫌がったけど、私が一生懸命励ますと、渋々殿下の招聘に応じて王宮に向かわれた。そこでは軍事関係のご下問を受けたらしく、得意分野の事だけに立派に殿下のお役に立てたらしい。
王太子殿下はそれを大層喜ばれて、社交の場で私にお礼を仰って下さった。折しも隣国との関係が緊張していて、王国は国境の防備を固めているところなのだという。その情勢下、エルイード様の軍事についての知識や見識は必要なのだとの事で、それ以来エルイード様は頻繁に王宮に召される事になった。他にもお仕事があるエルイード様は大忙しだ。
ただ、家を出るのが大層な負担である事は変わっておられなくて、お屋敷を出られる前は嫌だ嫌だとグチグチ嘆いてなかなか行こうとしない。私に抱き付かれながら泣き言を延々と漏らされる。
それを私は宥めて慰めて、どうにかして心を落ち着かせようと頑張るのだ。それで何とかお気持ちを定められたエルイード様は「ルクシーダのために頑張る」と決意されて、出発されるのだ。毎回結構大変である。
でも、このようにエルイード様は頑張られているし、私を頼りにして下さっているし、二人の仲はすっかり親密になっている。良い事である。……だけど、こんなに仲良くなっているのに、私たちはまだ寝室を別にしていた。まだシテないのである。
多分私との接触を恐れなくなった今の彼なら、もう大丈夫だろうとは思うけども、私がどうしても怖気付いてしまうのだ。新婚初夜に鼻血出してぶっ倒れられた事はショックでトラウマになっているのよ。私の。あれは中々に衝撃的な経験だったからね。
そんなわけで私はエルイード様とは清い関係のまま、仲睦まじい夫婦としての関係を深めて行ったのだった。ま、その内、何となくお互いにそんな気分になるでしょう、それを待てばいいわ。とか私は思っていた。
しかしそんな呑気で平和な考えは、ある大事件で吹っ飛ばされる事になってしまうのである。
◇◇◇
王国の東には大きな国がある。我が国ではアイバル国と呼んでいるこの国は、もっと東からやってきた民族が百五十年ほど前に建国した国で、文化が違い宗教が違い、言葉も通じない。
建国の際に王国の土地を少し奪ったとかで、関係はあまり良くない。何度も戦争をした間柄で、一応交易もしているけど、同時にお互いを警戒している。
そのアイバル国がどうも軍事力を増強して王国への侵攻を狙っているらしい、という話は結婚した頃から聞いていた。それから丸一年ほど。アイバル国との緊張はいよいよ高まり、戦争は不可避の情勢になってしまったようだった。
お義父様は軍の偉い人だし、エルイード様もお手伝いなさっている。私にも他人事ではない。王国は強力な軍隊を持っているし、北にも南にも親戚関係にある同盟国があるから負けることは無いと思うけど、アイバル国としては王国の豊かな領地を一部でも削り取れれば良いと考えているらしい。
王国としても領土の損失は許されない。絶対に防衛しなければならなかった。王国は軍備を増強し兵員を集め、軍の大動員を決定した。
貴族は概ね、領主で騎士である。国王陛下の要請に応えて領地から兵を集めて資金を供出、王国側からは軍備が与えられる。
騎士なのだから貴族は戦場に向かう事が誉になるのだ。戦争ともなれば貴族は戦場に向かうのが当然である。軍の将軍だったお義父様はもちろん、私のお父様だって戦争に行ったことがあるそうだ。
そんな訳だから、アイバル国との戦争が不可避になった段階で、ゼークセルン公爵家でも領地で兵士を集め軍備を整え始めたのは当たり前である。そして、お義父様自ら出征なされる事になっていた。
もう結構お歳であるお義父様が出征することに、私も家中の者も皆反対した。しかしながら王国の運命を左右する戦争に、王国を率いる立場の王族である公爵家から誰も出征しないわけにはいかない事は確かだった。
ところが、お義父様の出征には国王陛下も反対なさったのだそうだ。王都周りの防衛にお義父様の手腕が必要だとの事だった。そして迎撃軍の総大将をお務めになる王太子殿下から直々に、エルイード様を出征させるようにとの命令が下ったのである。
は? 私はそれをお屋敷に帰って来たお義父様から聞いて間抜けな声を出してしまった。
エルイード様を戦地へ? 私はその事について考える。……無理よね。
無理無理。普通に無理だ。だって社交に行くのだって王宮に上がられるのだって、私にさんざん弱音を溢されてからでないと、私の励ましを受けてからでないと出発出来ないエルイード様である。少しでも嫌な事があるとお屋敷に帰ってから落ち込まれてしまい、これまた私が一生懸命励まして差し上げるのだ。
そんな面倒で手が掛かり、繊細な愛しのエルイード様を戦地に? 無理ですよ。何を考えているんですか、王太子殿下は! 私は思わず怒ってしまったのだが、お義父様は難しい顔をしながらこう仰った。
「お断りするのは難しいぞ、ルクシーダ」
「なぜですか?」
「王太子殿下は本当にエルイードを頼りになさっておられるからだ」
なんでも同い年の殿下とエルイード様は竹馬の友であり、幼少時から非常に親密なご関係なのだそうだ。当時から内気ではあったもののエルイード様は乗馬を覚えるのも剣術が上達するのも王太子殿下よりも早かったのだそうで、王太子殿下は同い年なのにエルイード様を尊敬して頼りにしていたらしい。
そんなご関係だったものだから、引き篭もって評判を落としてしまっていたエルイード様を歯痒く思い、私の励ましで社交に復帰された事を殊の外喜んだわけね。
で、今回王太子殿下は王国軍の総大将として出陣なさる。戦場経験は初めてでは無いものの、規模が違うし重要性も今までの戦争とは段違いだ。
緊張に押し潰されそうになっている王太子殿下にとって、かつて頼りにしていたエルイード様の存在は大きい。最近の出仕で的確な軍事的な提言を大臣や将軍の前で見せた事もあり、周囲の評価もかなり高い。なので王太子殿下の側で主席参謀として自分を助けて欲しいと仰ったのだそうだ。
……確かにエルイード様は器量が大きく穏やかで、仲良くなってエルイード様が緊張しなくなると、一緒にいて非常に安心感があるのだ。社交が立て込んで疲れている時など、エルイード様と話しているだけで癒される。包容力があるのよね。王太子殿下がエルイード様を頼る理由も概ねそこだろう。
気持ちは分かる。殿下のお気持ちは本当によく分かる。分かるんだけど、分かるんだけど、無理じゃ無いかしら。いくら何でも。
だって戦場だよ? 戦いですよ? 私も本で読んだことしかないけれど、鉄砲や大砲の弾が飛び交ったり、槍を持って突撃したり、人を傷付けたり、なんなら殺したりするんでしょう?
どこからどう見ても心優しいエルイード様には似つかわしくない。
いや、エルイード様は軍事的な事がお好きで、軍事に関するご本をたくさん読んでらして、戦争遊戯で戦略戦術の研究にも余念が無いから、王太子殿下のご下問に的確にお答え出来た事だろう。でも、それは王宮で普通の状況下だからだ。それだってご本人にとっては随分な負担なのに。
矢弾飛び交う戦場で、殺気立った将兵を前に同じ事が出来るかどうか。無理に決まっている。エルイード様は本当に気弱なのだ。萎縮して何も言えなくなってしまうに違いない、そうなれば周囲の者たちは失望するだろう。周囲の失望を感じ取ったエルイード様はまた落ち込んで自分の殻に閉じこもってしまうに違い無い。
それに私も、大事な愛する夫が戦場に行くのは心配だ。エルイード様が勇猛果敢な大将軍であったとしても心配なのだ。時間を掛けてようやく心を通わせて来て、もうすぐ漸く本当の夫婦になれようかというところなのである。その夫を危険な、命の危険さえある戦場に送り込みたくなど無いと思うのは当然だろう。
案の定、王太子殿下のご命令を伝えられたエルイード様は真っ青になってしまい、お部屋に閉じ篭ってしまった。私が抱きしめて励ましてもぶるぶる震えている。
おのれ! 王太子殿下め! 殿下だってエルイード様の臆病さは知っている筈なのに、どうしてこんな仕打ちをなさるんですか! 私は怒り狂い、抗議をするために王太子殿下に面会を求める使者を立てた。
すると即日お会い下さるとの事で、むしろ早く来るようにとのお言葉を頂き、私は慌てて支度して王宮に向かったのだった。
◇◇◇
王太子殿下の執務室に招き入れられ静々と入室した私は、びっくりした。
会議机を囲んで座っていたのは王太子殿下だけではなかった。王太子殿下と同年代か、少し上の方々が五人ほど、座っていらした。もちろん皆様存じ上げておりますよ。社交でお会いしますもの。いずれも王太子殿下と親しい貴族の方々だ。
それ自体はある程度予想していたから良いのだけど、驚かされたのは室内の皆様のご様子だった。
随分とお疲れのご様子だったのだ。皆様お揃いの軍服を着ていらっしゃるのだけど、それが貴族とは思えないほど着崩されていて、それどころか髪はボサボサ無精髭まで生えている。王太子殿下も例外ではない。いつも社交では隙のない格好をなさっている殿下とは思えないご格好だ。
会議机の上には絵図面や書類が積まれ、戦争遊戯で使う駒も転がっている。恐らくはアイバル国の侵攻に対する対策会議なのだろう。しかもそれを何時間も、あるいは何日もぶっ通しでやっていた気配である。
立ちすくむ私に王太子殿下は血走った目を向けて仰った。
「エルイードは説得出来たか?」
「い、いえ……」
あまりの惨状に怒りなど霧散した私が引きながら言うと、王太子殿下は頭を抱えてしまった。
「ルクシーダでもダメか。無理もない事だが……」
王太子殿下だけでなく他の方々も意気消沈する。私は戸惑うしかない。
「その、どうしてエルイード様をそれほど必要となされるのでしょうか? 何も家の夫一人いなくとも……」
すると王太子殿下は首を横に振った。
「ルクシーダ。エルイードを侮らぬ事だ。あいつは其方も知るように軍事については博識だ。アイバル国の軍備や兵力についても詳しいのだ。おそらくこの国で一番な」
何とまぁ。私は驚いてしまうけど、エルイード様の趣味に対する情熱は知っているから不思議では無いのかもとも思う。
「それに戦略戦術の見識も確かだ。何度かここで我々と戦争遊戯をやったが全てエルイードの勝ちだった。我々にはエルイードのあの軍略についての才能が必要なのだ」
呻くように仰る王太子殿下を見ていて、私は気が付いた。これはもしかして……。
「……戦争の雲行きがよろしく無いのですか?」
私が社交で聞いた範囲では、王国の勝ちは動かないという話だったのに。しかし王太子殿下はむっつりと頷いた。
「そうだ。アイバル国は南のハルバート王国を味方にしたようだ。連合軍を組んで攻めてくる」
南のハルバート王国は同盟国の筈だったのに。確か国王陛下の叔母がお嫁に行った親戚の筈だ。
だが、王太子殿下曰く、その婚姻政策の前は戦争もする関係だったそうで、アイバル国対策の婚姻政策だったのだから、アイバル国との関係が改善すれば手の平を返されてもおかしく無いのだとのこと。
そのため、戦局は一気に予断を許さなくなっているのだという。王国軍は強大で、敵連合軍とはほぼ互角だが、互角ということは勝ち負けが分からないという事である。
王太子殿下は出来る限りの軍勢を集め、北や西の友好国にも使者を出して援軍を求めているそうだが、それでも勝利の確信は持てない。勝率を少しでも上げるためには手段を選んではいられない。
エルイード様に戦場に来いなどとは無茶振りだと分かってはいるけども、しかしながら王国を守る為にはどうしてもエルイード様の力がいるのだと王太子殿下は仰った。
「頼む。ルクシーダ。なんとか、なんとかエルイードを説得してくれ。其方の説得に王国の存亡が掛かっていると思って!」
王太子殿下に懇願されてしまった。殿下の部下の方々も殿下のお言葉を否定しなかったところを見ると、どうやら本当に王国軍は負けそうであるらしい。大変だ。
確かに、王国軍が国境で敗れ王都が危機に陥ってしまったら、エルイード様だって引き篭っている場合ではなくなる。それを防ぐために彼の能力が要るのだったら戦場に行くべきだろう。
それは分かるけどね。分かるけど、無理なものは無理なのよね。エルイード様をお部屋から引っ張り出して、檻にでも入れて、囚人よろしく引っ張って行く訳にはいかないのだし。
自発的に、しかも戦場で才能を発揮出来る状況で出征してもらわなければならないのだ。でも、果たしてそんな方法あるのかしら? エルイード様は頑張ると決意してくだされば、かなり頑張ることが出来る方だ。でも、その決意をして頂くのが難しいのだ。
今の所、エルイード様を頑張らせるには私が必要だ。エルイード様は私の為なら頑張って下さる。それは私もエルイード様のためにいつも全力で妻として頑張っているからだ。エルイード様は私の頑張りに応えるために勇気を奮って頑張って下さるのだ。
……どうもそれしか無さそうだ。私は悩んだ末に自分の考えを王太子殿下にお話しし、驚いた王太子殿下とスッタモンダあったものの、殿下も最終的には「それしか無いのなら」と同意して下さった。
私は王宮を下がって公爵邸に帰ると、決意を胸にエルイード様のお部屋に向かったのだった。
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