水籠

白河夜船

7月13日

 どぉ―――――――――――……


 滝のような、物凄い雨音。

 何か…とても厭な夢を見た気がする。疲れてるな。と自覚しながら、涼亮りょうすけはベッドから重たい身体を持ち上げた。頭が痛い。

「……最悪」

 起き抜けの、掠れた声で独り言つ。今は一体何時だろうか。カーテンの隙間に覗く外は暗かった。あまり雨雲が分厚いせいか、朝も、昼も、夕方も、等しく薄闇の底に在る。外の明暗だけ確認しても、今が何時だか判然としない。

 携帯が鳴った。

 聞き慣れたメロディ、あの。眉根を寄せる。消音に設定してみても、いつの間にか勝手に戻っているのだから煩わしい。時間を確認しようと、騒がしいそれを手に取った。8時11分。……8時。やっぱり。寝過ごしたな。

 時刻を示す数字の下に、長々とメッセージが表示されている。


特別警報発表【警戒レベル5】大雨の影響で…………


 涼亮は溜息を吐き、携帯を放った。何度目かも分からない7月13日が今日も始まる。






     ●


 あの日は朝から、ぞっとするほどの土砂降りだった。大学に行くつもりで、目覚ましが鳴る時間に起きたら、夏場の7時――普段なら明るくなっているはずの時間帯――だと言うのに、窓外が暮れ方と見紛うほどに薄暗く、戸惑ったのを覚えている。

 夜勤を終えて、帰宅していた兄の文彦ふみひこが、

「ひどい目に遭った」

 と、くつろいだ、いかにも風呂上がりという風体で拗ねたように吐き捨てた。前日から雨が降っていたので、一応傘を持って出掛けたそうなのだけど、あまり役には立たなかったらしい。

「濡れるし、暗いし、見通し悪いし、小さい川とか増水して、道とほとんど同化してるしさぁ。危ないよ、あれ。柵とか、ホラ、ないとこあるじゃん。知らずに踏み込んだら、流されちゃう。車だから何とか帰り着けたけど、早退させるとか、休みにするとか……融通効かないんだから……もー………」

 ぶつくさ言いつつ、文彦は冷蔵庫から作り置きの緑茶を出して、コップに注いだ。一つを自分で飲みながら、もう一つのコップを涼亮に差し出す。受け取って、飲んだ。寝起きの乾いた喉に、冷たい飲料が心地好かった。

「そういえば、今日、どうなの」

「どうって?」

「学校。さすがに休みだろ、これ」

「ああ」

 言われて初めて、思い至った。そういえば昨日、休校の際はホームページに情報を載せる、と聞いた気がする。確認しようと、ズボンのポケットを探ったところで、携帯が鳴った。

 文彦の携帯も鳴っている。何となく不穏な響きを孕む、澄んだメロディ――着信音の設定を反映していない、大音量の―――――


     ●






「どうして、こんなことになったんだろ」

 雨が電波を遮るせいか、放送を観ようとすると、テレビ画面にノイズが走る。かと言って、何も点けていないのは、雨音ばかりが身に沁みて落ち着かなった。

 仕方なし居間のテレビでは、昔録画した、あるいは兄弟のどちらかが中古を買うか貰うかして、偶々ディスクを持っていた映画やアニメを、惰性で垂れ流している。

 弟の顔色が悪いのを気遣ったのか、文彦が作ってくれたホットココアを口に含みつつ、涼亮はぽつりぽつり呟いた。

「変だろ。変だよ。何度寝て起きても、7月13日。ずっと雨が降ってる。毎日、毎日………気が滅入りそうだ」

「そーかぁ?」

 兄と二人、居間のソファーベッドに腰掛けて、テレビを観ている。前にも観た、というよりは子供時代図書館で繰り返し観て、見慣れてしまったアニメ映画。この後の展開は、一々思い出すまでもなく、よく知っている。

「僕は案外気楽だけどね。仕事行かなくていいし。……なあ。あんまり考え込み過ぎるなよ。疲れるぜ」

「兄貴はなんでそう、いい加減なんだ」

「悩むの、好きじゃないからさ」

 文彦は気怠げな瞳を細めて、くつくつ笑った。あれもこれもと考え過ぎるのが良くないことは、涼亮自身、分かっている。だが、だからといって、文彦の言い分を真に受けることは出来なかった。昔から―――、昔からだ。昔から兄は、大事なことでも無頓着に流してしまう癖がある。






     ●


 水音がするので何となく洗面所を窺うと、文彦が顔を洗っていた。濡れた黒髪と白い手の、隙間に覗いた肌は赤黒い。―――

「それ、どうした?」

 思わず尋ねた涼亮を、文彦は驚いたように振り向き、見詰めた。少しの間、妙な表情で沈黙し、

「ぶつけた」

 と一言、答えた。左目周りの痛々しい打撲痕とは不似合いの、暢気な笑顔を浮かべている。嘘だ。直感的に涼亮は思った。

 誰かにまた、殴られたんじゃないのか。


     ●






「何が食べたい?」

 昼時、ふと思い付いたように、文彦が言った。あまり食欲はなかったけれど、物を口に入れるのすら疎ましいというほどではない。しばし考え、

素麺そうめん

 と、涼亮は答えた。さっぱりしたものなら、少しくらいは入る気がする。

「はいよー」

 間延びした返事をしいしい、文彦は台所に立った。程なくして、素麺が居間のテーブルに運ばれてくる。

「え。…なん……なんか、多くない?」

「つゆ、色々作ったからさ。味見しようと思って」

 硝子がらす製の大鉢にたっぷり盛られた素麺と、器がなかったのだろう、湯飲みやグラス、ティーカップにまでよそわれた数々のつゆ。ぱっと見、二人前の量ではない。やや気圧されて、涼亮は眉根を寄せた。

「俺、こんなに食べられないけど」

「ん? ああ。僕が食べるよ」

 言いながらも手を合わせ、文彦は素麺を啜り始めた。相変わらず、食べる時と食べない時の差がひどいな、こいつ……。

 それにしても、短時間でこの量と数を作ったのか。半ば呆れるような、半ば感心するような心持ちで、涼亮は食器が所狭しと並んだ卓上を眺めた。学生時代、兄は料理などろくにしたことがなかったはずだが、飲食店に勤めていると、やはり手際が良くなるものなのだろうか。ここ数年で、めざましく上達している。

「食わないの?」

「あ、うん」

 促され、手近なつゆを取って、素麺を啜った。何味だかよく分からないけれど、ピリ辛で美味い。味にバリエーションがあったおかげか、存外に箸が進んで、大量の素麺は気づけばすっかり無くなっていた。

 まあ、ほとんど、文彦が平らげてしまったのだが。

「はー。片付けしなくていいって最高」

 独り言ちつつ、文彦はのんびり食後の茶を飲んでいる。洗い物をしないつもりで、やたらにつゆを作ったらしい。涼亮はそっと溜息を吐いた。

 7月13日は繰り返す。

 朝から夕方までの間を延々と。

 奇妙な状況ではあるが、幸いな点が一つあった。例えば肉体や家の状態……物質面は全て、朝になったら戻っているのだ。汚れも、損壊も、食料・日用品の消耗も、翌日――次の7月13日には引き継がれない。記憶は蓄積するので、精神的疲労や憂鬱は消えないものの、その点だけはありがたかった。

 もしそのリセットがなければ、7月13日の繰り返しは、二人にとってもっと深刻で、面倒な、辛いものとなっていただろう。不幸中の幸いと言える。

 しかし、その一点がある故に、文彦は至極脳天気に構えていて、積極的には動こうとしない。




 16時22分を過ぎたら、家の灯りがふつりと落ちる。停電―――

 もう、そんな時間か。

 文彦は手許に用意しておいた、電池式ランタンのスイッチを入れた。いつだったか、台風に備えて買ったものだ。LEDの白々した電光が、薄闇に沈んだ居間を照らし出す。

「さて」

 ランタンをテーブルに置き、文彦はぼんやり宙を見詰めた。

 明るくしても、特にやることがない。読書、ゲーム……暇潰しの方法は色々あるが、どれもあまり気乗りしなかった。第一、文彦が起きていられるのは、もう後10分ほどの短い間だ。何をするにも、中途半端という気がする。

 テーブルに肘をつき、ソファーベッドの上を何となく見遣った。タオルケットにくるまって、弟が寝ている。

「暇だから寝る」

 涼亮はいつもそう言うけれど、わざわざ自室ではなく、文彦がいる居間の方で、睡眠薬を飲んでまで早めに眠っているのだ。たぶん16時以降、起きているのが怖いのだろう。


 どぉ―――――――――――……


 手持ち無沙汰になると、雨音が嫌でも耳に付く。

 文彦は嘆息し、横たわって、目を瞑った。床板が肌にひやりと快い。ぼんやりしていればいい。そうすれば、いつの間にか時間は過ぎる。 

 後、何分だろう。

 鉄の匂いが、湿気った空気にじんわり滲む。

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