第2話
「あら、アンナ。こんな遅くまで仕事なの?姫様の御出立は早いんでしょう?」
仕事を終え宿舎に戻ったアンナに声をかけたのは古参のヘレナだった。
侍女の暮らす宿舎は王女宮を囲うように建っている。
四階は貴族、三階に富裕層出身と、分けられている。
アンナは二階。こちらが庶民出身の侍女用だ。
侍女にはそれぞれ個室を与えられているが、寝台と小さな文机と椅子、作り付けの洋服箪笥と飾り棚があるだけで浴室やキッチンはフロア共有だ。キッチンの一画にはソファーと茶卓を並べた喫茶スペースもある。もっともこれは二階のことで他の階層はわからない。
二階では自室は寝るだけの部屋だと割り切って、この喫茶スペースで時間を過ごす侍女が大半だが、もうじき日付が変わろうというこの時間、さすがにヘレナ以外に人の気配もない。
後宮の侍女と言っても、庶民出身者は掃除洗濯などの雑事に追われる。どれも朝早い仕事だ。貴族富裕層出身の侍女の身の回りの世話係なんて仕事もある。こちらは相性によりけりで、気に入られればそれなりで、気が合わないと地獄と言われ離職率が高い。
アンナのような庶民出身者が王女付きになるのは稀なことのようだ。
仕事を割り振るのは後宮を統べる侍女長だが、
それでも未だに恨まれ妬まれ嫌がらせを受ける。後宮は皇帝の秘密の花園女の園の伏魔殿、妓楼と大して変わらぬものよと聞かされたが、その通りだと思う。
そんな伏魔殿に放り込まれたアンナの面倒をヘレナはよく見てくれた─今にして思えば、その苦労の程が偲ばれ頭が下がる。他に仕事も抱えていただろうに。
未婚の若い女性が大半を占める後宮では珍しく、ヘレナは家族と死別して後宮に入ったのだと聞いたことがある。
いつも穏やかな笑顔の裏には別離と孤独があったのだと知ったのはいつだったろう。本当に随分面倒をかけた。
もしも今、アンナの元に当時の自分のような野放図な子供が現れたとしたら、と考えるだけで頭の半分が白くなりそうだ。
(絶対無理。ごはん手づかみで食べるとか、食卓の上に座り込むとか…)
ベッドの使い方を知らず狭い床との隙間に潜って眠ったり。妓楼では下働きは布団部屋で雑魚寝だったから……。
思い出すと、顔から火が出そう。穴が有ったら入りたい心境とはこういうものだろう、と思う。
そんな自分に王女の相手をさせようなんて豪気なことだとあきれるばかり。
それでもヘレナの根気強く思いやり深い指導のお蔭で大過なくやってこれたのだ。
「殿下の為に子守唄を唄っておりましたらこんな時間になりました。外遊のせいか気が騒ぐようで寝つきがよろしくなくて」
アンナは一瞬迷って、ヘレナの隣─一人分のスペースを開け腰掛けた。
ヘレナは元々小柄だが最近常に背を丸めていてアンナのが頭ひとつ以上高くなった。座ってもあまり変わらず、薄くなった頭頂部も視界に入る。
アンナが後宮に来て直ぐの頃にはちらほらと白いものが混じる程度だったが、この二年で随分白髪が増えたと感じる。ブルネットの髪色は確かに白髪が目立ちやすいが─
この白髪のかなりの割合が自分のせいだとアンナは申し訳なく思う。
ヘレナは
手元の
お湯割りですか、と聞くと
そういえばヘレナは酒類を口にしたことがなかった。飲酒に良い思い出がないようだった。
温かい飲み物で
「─子守唄よりホットミルクが良かったでしょうか」
「眠気が飛んで、お夜食を召されたかも知れませんわね」
「ああ─そうですね、お湯割りだけと思って飲みだしてもツマミが欲しくなりますもんね」
「飲んべえさんの言い分ですねぇ」
「いやぁ、ヘレナさん。本当の飲んべえは塩、自分の掌を舐めながら飲めるそうですよ。」
「まぁ、お行儀の悪い」
「わたしはやりませんよ、聞いた話です。」
眉をひそめたヘレナに苦笑を返してアンナもポットの残りを注いだ。まだほんのりと温かい。
「アンナ、あなたも早くおやすみなさいな。長い旅程の体調管理は存外難題ですよ」
「わたしは殿下とはご一緒しないのです。」
「あら、まあ」
アンナはヘレナの直ぐ隣に移動する。こうしていると最近耳が遠くなったヘレナとも普通に会話できる。
「アンナ無しでディルムンまで…姫様は大丈夫でしょうかね、ひとりでお休みにもなれないのに。」
「大丈夫、と仰せですから、大丈夫ですよ。もう14歳です。」
「まだまだ。まだ14歳ですよ。甘えん坊さんですからね。」
アンナは唇を軽く舐め、上目遣いに天井を見ながらぽん、と手を叩いた。
「あ、そうだ。わたし前から伺いたいことがあったんですよぉ」
なんて白々しい小芝居をうつ。
「…ヘレナさんは殿下の母上をご存知ですか?」
「存じてますよ」
ヘレナは一口啜って答えた。
「王太子殿下と御成婚前ですけれど。というかわたくし、王宮に勤める前はバルサ子爵─マチルダ様の乳母でしたの。」
「それは─初耳です。」
「わたくしのようなおばあちゃんにも秘密はありますのよ。誰も興味はないでしょうけど。」
「そんなことは─」
アンナは言い澱んだ。
実は一部の侍女の間で囁かれている噂があることをアンナは知っている。
主に裕福な商家や富農の子女達の間でだ。親もなく自らの食い扶持を稼がなくてはならないアンナとは違い、後宮勤めを婚礼支度のひとつくらいにしか思っていない彼女達にとって、
ことに今のように、王の足が後宮から遠退いている場合は。
彼女達はヘレナが、先王の愛妾で男子を産んだものの王后に厭われ王宮を追放された。その後子爵に取り入ってマチルダ妃を産んで乳母となった。
先王に働きかけてマチルダ妃を王太子妃につけたものの王子を産めなかったため怒りを買い、ヘレナは追放され妃の実家は爵位も全財産も没収され子爵は死を持って償った。
近年ヘレナを実母と知ったステファンが父王の反対を押しきって老いた孤独な
王女は異母姉弟の禁忌の子で、だから先王が王女の王位継承を認めないのだ─などという、馬鹿馬鹿しい噂を信じている、いや信じたふりをしているのだ。
もちろんアンナは信じていない。信じていないが、まさか─?
どぎまぎするアンナの内心が表情に出たのだろう。
ヘレナはじっとアンナの瞳を見つめた。
「秘密と言ってもあの噂じゃあありませんよ、あんなのは嘘っぱち。」
「嘘?」
「そう、殿…陛下や姫様を貶める悪意しかない嘘っぱちです。」
アンナはほうっ、と胸を撫で下ろす。
初めて噂を耳にした時からずっと何が胸につっかえたままだったのだ。
あらためてヘレナを見返す。
この
「わたくしはバルサ子爵の
ヘレナは優しく微笑む。
アンナはヒルダを思った。家族のいないアンナに他人を肉親のように慕う、という気持ちは、わかるようでわからない。けど自分がヒルダのことを話す時に、今のヘレナのような表情ができれば良いな、と思う。
「母の亡くなった後もわたくしは子爵家で暮らしました。18になって子爵家に仕えていた騎士に嫁いで息子を産みましたが、その子は病気で半年で亡くなりました。まもなく夫も亡くなりました、息子を亡くした悲しみでお酒に溺れた挙げ句、無頼者との喧嘩で。」
ヘレナのダンナさんは騎士にあるまじき醜聞を引き起こした罪を問われて家は断絶となった。でも、そうした事情を承知で、子爵は愛娘を最も信頼する
「…では王妃様のお輿入れで王宮に?」
ヘレナは小さく頷いた。
「子爵が死を賜ったのは本当のことです。でもそれは姫様とは関係ありません。ずっと昔のことですから。」
マチルダが7歳になった年、事件が起きた。
以前から王─先王メリウス、ステファンの父─の不興を買っていた子爵は讒言によって死を賜り、一族の主だった者も連座した。爵位、領地、その他の財産も全て没収。家名も断絶となった。母親は実家に戻されたが、マチルダを引き取ることは許されなかった。
「可哀想」
「そもそもは王位を巡る騒動のとばっちりなんですよ。」
ヘレナも少し涙ぐんでいる。そして、年を取ると涙腺が弱くなりました、と微笑んだ。
そして、
「王妃様との間に年子の王子様がお三方いらっしゃいまして。皆様それぞれの個性がおありで優劣つけ難いとなれば、順当にいって長子が世嗣ぎ。でも王妃様が末の王子様を溺愛しておられて、どうしても王位を継がせたいと御実家を頼った。王家を凌ぐほどの権勢を誇る公爵家の御出身ですから。何でもご自身の思い通りになる人生を生きてこられた方ですもの。でも何の落ち度もない第一王子を廃嫡になどできませんわね、国の乱れる元。そう上奏したのが子爵のお父様。陛下もお妃をお諌めになって第一王子を世嗣ぎになさった。けれども即位された新王は若くしてお亡くなりに。その際件の末の王子が次の王ととなられた。それが先代のメリウス王なのです。メリウス様はご自分の即位の邪魔をした子爵様親子を目の敵にして、とうとう」
ヘレナの目から涙が零れる。
アンナもつられて涙ぐんでしまった。
「それじゃあ殿下の母上の噂を聞くことがないのは子爵の、その」
罪のせいなんですね、とは言えなかった。ヒルダの手元にさえ絵姿も遺されていないようだし、ずっと不思議に思っていたのだ。
「マチルダ様は産後肥立ちが悪くて儚くなられました。姫様は何も覚えておられないでしょうね。」
そうだったのか。
「それじゃ殿下を育てたのは」
「……レティシャと言いましたか、若い乳母がおりましたね。」
アンナは記憶を手繰る。後宮に勤めて9年余り。最初の1年ほどは慣れない生活と仕事で余裕も無く先輩侍女達の名前を覚えたりできなかったが、レティシャなんて名前は記憶に無い。
そもそもアンナがヒルダ付きになった時、ヒルダの側に居たのはヘレナではなかったか?
アンナが
しかし乳母なら幼いヒルダを残して後宮を去るだろうか。アンナが初めてヒルダと出逢った時、彼女は4歳になったばかりだったのに。
「亡くなった?」
「いいえ」とヘレナは首を振った。そして小さく笑った。
「もうわたくしのような者が呼びつけにはできませんわね。件の第七側妃、彼女ですよ。陛下の外遊に同行した際、ディルムンの王の目に留まったのです。姫様が4歳になる少し前のことでした。」
そうしてヘレナは腰を上げた。
今夜は少し喋り過ぎました、そう言って。
ちょうど日付の変わり目を知らせる鐘が鳴り始めていた。
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