新しい雨
擦り減る心
「とうとう――この日が来てしまったね」
高木は小さく呟いた。
千三百年という途方もない月日の間、一日も欠かさずこの世界に雨を降らせ続けた神木様は、その長い命に幕を下ろした。
洸太郎の知っている神木様の姿はどこにもない。目の前には、すっかり枯れ果てた一本の大木が、何とかその場に立っているだけだった。
「今まで本当にありがとうございました」
洸太郎は頭を下げると、心の中で思いを告げる。
神木様の上空には、光轟く閃光が
――数時間前。
今夜が「月の出る夜」だと森本から聞いてから、洸太郎は瑠奈と二人、雨の種を取りに洸太郎の部屋へと来ていた。
この三日間、洸太郎の家に集合するときは瑠奈も必ず、雨の種を持って来ている。
「その日」がいつ、訪れても良いように――。
洸太郎は自分の雨の種を、願いを込めるように眺めていた。
今日が「月の出る夜」ということがわかったところで、「雨を降らせる」という神木様を生まれ変わらせるために必要な、もう一つの条件がクリアになったわけではない。
時間が止まらない以上、こればっかりはその時々に身を任せ、切り拓いていくしかなかった。
だからこそ、洸太郎は雨の種に願いを込めた。
――どうか無事に神木様が生まれ変わり、雨が蘇りますように……と。
届くかわからない「祈り」を捧げ終えると、洸太郎は瑠奈へと視線を移す。
瑠奈は雨の種を持ったまま、目を瞑っていた。
そして、大きな呼吸の後、瑠奈はゆっくり目を開ける。
瑠奈がどんな想いでそうしていたのか、洸太郎は聞かないようにした。
この世界には「知らなくて良いこと」や「知らない方が良いこと」に溢れている。
特に後者には、感情を大きく動かす、あるいは動かされる要素が詰まっていて、一度進み始めると目的地に辿り着くまで止まらない。
それが自分の意思であろうと、なかろうと――。
瑠奈と目が合った時、洸太郎は笑顔を向けた。
嘘や偽りのない、心からの笑顔を。
「行こうか」
「うん」
瑠奈は洸太郎につられるように笑うと、以前と同じ肩掛けの鞄に、洸太郎はリュックサックに、それぞれ雨の種を入れ、スッと立ち上がった。
部屋を出ると、廊下で彩美とすれ違う。
「やっぱり、行くんだね」
その言葉に、洸太郎は歩みを止める。
彩美は洸太郎の言葉を待たずに話していく。
「私、わかるよ。あの日、雨が降り止むこともわかっていたみたいだったし、テレビにも映って、最近はみんなで集まってばっかりで……。何か知っているんだよね? お兄ちゃんの真剣な顔、久しぶりに見たもん」
背後から聞こえる声に、洸太郎は振り向けずにいた。
「大丈夫って言ったろ。ただの青春だよ」
「ははは」と、彩美はわざとらしく笑った。
「そういえば、お兄ちゃんは部活もやっていなかったし、いつも彩美より遅くに家を出るから、言ったこと……なかったよね」
数回、強く鼻を啜る音と、息を吐く音がする。そして――
「行ってらっしゃい!」
「行ってきます」
洸太郎はお互いの表情が見えない程度まで顔を背けて言うと、戻ることのない一歩を踏み出した。
リビングを覗くと、俯く忠と、顔を手で覆った麻里が向かい合って座っているのが目に映る。
自分の気持ちに蓋をするように、洸太郎は心の中で「ありがとう」と呟いた。
家を出ると、店の入り口に大介、千歳、森本の三人が立っている。
洸太郎と瑠奈がそこに合流すると、五人は静かに、神木様の元へと進み始めた。
これから向かう方角を示すように、空に掛かる分厚い雲は、神木様のある方向に向かって幾度となく稲妻を走らせていたのだった。
水源寺へと向かう途中、先日の地震の被害が大きかった地域も横断した。
ニュースで見るよりも遥かに、現実は
外を歩く人が居ないことはおろか、緊急事態であるにも関わらず、雨が降り止んだ影響から限られた緊急車両での作業となり、復興が進んでいる様子もない。
これ以上の被害を出さないでほしいという各々の願いと、一向に先の見えない不安や絶望は、時折、空から轟く大きな音に反応し、家の中から叫び声や泣き声に変わって聞こえてくる。その声が聞こえる度、洸太郎は心が擦り減っていくのを感じながら、それでも決して足を止めることなく、鉛のように重たくなっていく足に鞭を打ち、目線は前だけを捉えて進んだ。
水源寺に近づくにつれ、雨の種の入ったリュックサックの紐を握る洸太郎の両手の力は強くなる。それに比例するように、遠くに見えていた鳥居は徐々に大きく存在感を増していく。
すっかり見慣れたはずの鳥居だったが、今日ばかりは少し不気味に、こちらの到着を待ち構えているかのように見えた。
時々、五人の間に吹く風が、鳥居の中へと吸い込まれていく。
「どうやら、今日の客は俺たちだけみてーだな」
森本は鳥居の前で立ち止まり、辺りを見渡した。
高木が話をしたからなのか、はたまた、目まぐるしく起こる異常現象のせいなのか。水源寺の周りは以前来た時と違って、警察や警備、報道陣の姿が一切見当たらなかった。
洸太郎は鳥居越しに、空を眺めた。
空に光る稲妻は、一本、また一本とこの神社の上空に集まり、渦を巻くように、こちらを睨みつけている。
洸太郎は不意にリュックサックの中から、雨の種を取り出す。
全員の視線を纏った雨の種は、上空の稲妻をその身に映し出すように、白く光を放っていた。
洸太郎は種から瑠奈へと視線を移す。瑠奈が鞄から雨の種を取り出すと、小さな雨の種も同じ光を纏っていた。
その光は脳へと直接指令を送り、洸太郎の足を鳥居の中へと向かわせる。
それに続くように、再び全員が歩みを始める。
洸太郎は雨の種をリュックサックの中に戻すと、一段ずつ丁寧に、石段に足を乗せていく。
五人を迎え入れるように、春日灯籠は淡いオレンジの服へと姿を変えた。
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