気の置けない友人

 朝食と身支度を済ませ、玄関へと向かう。


 あまり自覚はないが、同じ順番で準備をしているつもりでも、どこかで多く時間を費やしているようで、どんなに早起きをした時でも、身支度を終えた頃にはいつもと同じ時間になり、多少慌てる。



 今日も結局、遅刻ギリギリの時間となってしまった。



 ちなみに、彩美は新学期早々から朝練があるとのことで、朝食の途中で食べるペースがぐんと上がり、食べ終えるとすぐに席を立ち、そのまま先に家を出ていった。


 彩美の「ごちそうさま、行ってきます」の言葉に合わせるように視線を上げたが、あまりの早さに彩美の背中しか見えなかった。


 麻里がそれに合わせるように、玄関まで見送りに出る。


 忠の最大級の笑顔は今日も彩美には届かず、洸太郎の横目にだけ、薄っすらと映っていた。



 洸太郎は玄関で靴とレインウェアを羽織る。


 昔は「傘」と呼ばれるものがあったと歴史の授業で学んだが、今は史料館くらいでしか目にする機会はない。

 レインウェアは四、五回もバサバサとすれば水はほとんど落ちるし、靴や鞄はもちろん、身に付けるものは基本的に全て完全防水、撥水加工が施されている。


 何より、雨は神聖なものなので、避けずに浴びるべきであるという考えがあった。


 浴びるといっても、人体に防水、撥水加工などないので、レインウェアのフードは被る。



「本当にお店のことは気にしなくて良いからね」



 麻里の言葉に「母さんこそ気にしないで」と返事をした後、「行ってきます」と加えて言った。



 当然、その後ろで懲りずに笑顔を作っている忠に対しても、軽く右手を挙げて応えた。



 玄関の扉を開けると、優しい雨が降りしきっていた。


 四月とはいえ、朝の空気は未だに肌寒い。


 レインウェアのフードを被り、新学期への第一歩を踏みだしていく。


 不思議と毎年この一歩目はどこかふわふわしている。


 文字通り、足が地についていない――そんな感覚だった。



 目に映るもの全てがいつもと変わらないはずなのに、気持ち一つで、心と身体が分離する。



「雨の感触だけは、いつもと同じだな」



 無意識のうちに、呟いていた。


 レインウェアのフードに当たる雨の音が、フードの中で反響し、心地よい音となって耳に届く。


 洸太郎はこの音が好きで、通学中もイヤホンを付けて音楽を聴いたりはしない。


 雨が聞こえなくなってしまうのは、どこか寂しい。



 家から高校までは徒歩で通っていて、時間にして約二十分。


 中学までは十分少々だったので、入学当初こそ長いと感じていたが、今ではその日の雨の音を楽しんだり、考え事をしながら通学するには、この距離が丁度良いと思うようになった。


 ちなみに、妄想に近い考え事をしてしまうのは、それだけ脳が活発に動いてくれているからで、無意味な妄想も決して悪いことではない、と思うようにしている。



「おっはよーっす」



 雨の音をかき消すように、声の正体は洸太郎の視界に割り込んだ。



「新学期っつっても何にも、何にも変わんないけど、今年は同じクラスになれると良いな」



 何も変わらないことを、やたらと強調してくるこの男は水田大介みずただいすけ


 洸太郎とは幼稚園からの幼馴染で、お互い部活動に所属していないこともあり、今でも仲良くつるんでいる。


 大介はそれなりに整った容姿をしていて、爽やかさを演出する黒髪の短髪ツーブロック、そして様々な部活から勧誘を受けていたほど運動神経も良いとあって、女子からの人気も高い。


 そんな大介が高校で帰宅部を選択した理由は、飽きっぽく、何をしても長続きしないと思っているからで、実際に中学校時代は野球にサッカー、バスケットボールに陸上と短期間に様々な部活動を経験し、最終的に帰宅部で落ち着いたという過去があった。


 自分と違って運動神経に恵まれているのだから勿体無いと思う反面、昔と変わらず登下校を共に出来ていることに、心地良さを感じている自分がいる。



「スピード違反じゃないですか?」


「おっと、この鍛え抜かれた足がまたやらかしちまった」



 大介は自転車で通学しているのだが、早朝に新聞配達のアルバイトをしているせいか、自転車を漕ぐスピードが異様に速い。


 このアルバイトは飽き性の大介が唯一継続しているもので、今年で二年目になる。


 以前、継続出来ている理由を聞いた時、「雨は毎日違うからよ」とアルバイトをしていなくても言えそうな台詞を至極真っ当な理由かのように言っていたあのどや顔は、今後も忘れることはないと思う。



「今日の朝も新聞配達?」

「新聞に新年度も新学期もないからな。しっかり配ってきましたよ」



 大介はおもむろに左足の裾を上げると、ふくらはぎの筋肉を見せつけ、ピクリと眉毛を上げる。


「そりゃ、ごくろうさん。そういえば今朝、父さんが読んでた新聞がやたらびしょびしょで、朝から怒ってて大変だったなあ」


「え、そんな……しっかりビニールに包んで投函したぜ?」


「嘘に決まってんだろ。お店に置く用で取ってるけど、そもそも父さんは新聞読んでないし」

「おい、ちょっと焦っただろ。朝からくだらない冗談止めろよ」



「スピード違反の罰だよ」と、くだらない会話をしながら歩いている間に、洸太郎は高校に到着した。



 大介の言う通り、こういう風に今年もいつもと何も変わらない新学期になるのだろうと、この時は本当に思っていた。

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