第26話 リバース・モンテカルロ

「おいで」


手招きではなくて、導くように下から重ねた手に少しだけ力を込めて。


決して強引ではないのに、引き返させない強い何かが菜央の心を桐生に縛り付けた。


手首の柔らかい肌を指の腹で擽られて、そんな風に触れられるのは初めてで、雰囲気にそぐわない声が漏れた。


「ひゃっ」


菜央が化粧室に立っている間に桐生が押さえたホテルの部屋は、ジュニアスイート。


一晩過ごすためだけに使うには勿体なさすぎる高級感あふれる造りになっていた。


当然ツインルーム以外の部屋で泊まったことなんてない。


桐生が菜央を連れて向かった主寝室の手前にあった広々としたダイニングの立派な調度品をじっくり見たい気持ちもあったが、今はそれどころではない。


「緊張してる?」


柔らかい問いかけと共に、慰めるように耳の後ろを擽られる。


髪に触れた唇がそのままつむじにキスを落とした。


どうしようか迷っているような仕草だった。


「・・・こ、この状況で緊張しない女はいないと・・・思う」


「菜央の心臓が落ち着くまで、夜景でも見ようか?それともワインでも頼む?」


「・・・私をこれ以上酔わせたいわけ?」


さっきのカクテルでいい具合に思考回路は緩んでいる。


これ以上アルコールを入れれば間違いなく、行為の最中に潰れてしまうはずだ。


ここまで連れて来たくせに、シなくていいのか、と言外に尋ねれば。


「・・・・・・ごめん。失言だった」


眉を下げて桐生が照れたように笑った。


ああ、彼はやっぱりそういうつもりでここに連れて来たのだ。


「ワインは・・・次の機会にしてくれる?」


ルームサービスで、いいのを頼むよ、と零した彼を精一杯の目力で睨みつける。


さっきからどくどく鳴る心臓の音が、耳の奥まで響いていて、今にも倒れてしまいそうだ。


これまで付き合って来た彼氏とは、そうなる時は大抵向こうの家で、だから菜央の方も色々と心積もりが出来た。


でも、桐生は違う。


少しも菜央の前で、そういう下心を見せなかった。


彼が性欲を堪えているようにも見えない。


いつだって紳士的で、穏やかで、彼が話す会話はウィットに富んでいて、仕事の話をするときも、専門知識が無くても楽しむことが出来る。


彼は菜央との関係を前に進めるつもりがないのかと、そんなことを考えた時もあった。


けれど、今ならわかる。


あれは、完全に菜央の思い違いだったのだ。


だって、菜央が腕時計で時間を確かめて目を伏せた瞬間、彼の纏う空気が変わったから。


桐生は、ずっと菜央がその気になるのを待っていたのだ。


焦らして、焦らして、菜央ガ桐生を欲しがるその時を、虎視眈々と狙っていたのだ。


憎らしいくらい完璧なタイミングで、その時は来た。


「私、飲みたいなんて一言も言ってないわ」


不貞腐れて尖らせた唇を、あいさつ代わりに桐生が軽く啄んだ。


「・・・そうだった」


優しく背中を撫でられて、その手がそろりと腰のラインを辿って降りる。


「・・・菜央」


彼の声が何を尋ねたがっているのか、はっきりとわかった。


こんな風に熱を帯びた眼差しで見つめられたことなんてなかった。


彼が穏やかな笑顔の裏で、どれだけの劣情を抱えていたのだろうと、泣きそうになる。


なんだ・・・大人で落ち着いてて、肉体交渉にはこだわらない男、だなんて・・・とんでもない勘違いじゃないか。


菜央の返事を待つ間も、腰を撫でる指先には熱がこもっていく。


タイトスカートの生地をくすぐっては持ち上げる仕草に、勝手に身体が期待していく。


「・・・うん」


頷いたら、今度は唇を擽るようなキスが落ちた。


擦り合わせるたびに堪え切れなくなっていくのは、やっぱり菜央のほうだ。


まだ知らない彼の手練手管に、もうすでに翻弄されてしまっている。


経験豊富だなんて、口が裂けても言えないけれど、間違いなくこれまでの経験とは異なる感想を抱くのだろうと、分かっていた。


前に一歩踏み出した桐生が、ほんの少しだけ舌を割り入れてくる。


上顎を擽られて、仰のけばさらに一歩彼が足を踏み出した。


背中を支えられながら後ろに下がって、それ以上下がれなくなった。


腰に腕を回した桐生が、菜央の身体を抱き上げてベッドへと下ろす。


膝でシーツの上に乗り上がりながら、彼がネクタイを緩めた。


「・・・・・・」


食い入るようにその仕草を見つめる菜央の瞼の上にもキスが落ちる。


「・・・・・・随分待った」


そんな囁きと共に背中を抱かれてシーツに縫い留められる。


「・・・性欲ないのかと思ってたわ」


菜央の言葉に、桐生が笑って零した。


「そんなことないって、思い知ると思うよ」


もうすでにその気になっている腰を押し付けられて、さすがに性欲が無いとはもう言えない。


「・・・ぁ」


今度の声はかすれたそれになった。


頬を包み込んだ桐生が、菜央の両の目を覗き込んで指を絡めてくる。


こんなに情欲を湛えた眼差しを向けてくるくせに、まだじゃれあうつもりなのか。


すぐに下着を脱がそうと手を伸ばして来た過去の恋人の性急さがヤりたいだけの猿に思えてくるではないか。


もう全部塗り替えてくれればいい。


自分をさらけ出すつもりで桐生の首に頬ずりしたら、彼の唇が胸元に落ちた。

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