第7話

 ふと、誰かのスマホからメッセージ受信の通知音が聞こえてきた。

 その通知音は一度では終わらず、何度も鳴り続けた。私は音の発信源を辿る。どうやら、黒瀬さんの鞄の中から鳴っているようだ。

 黒瀬さんは慌てて鞄からスマホを取り出すと、画面をタップした。その途端、彼女の顔が強張っていく。

 まるで、恐怖映画でも見ているかのような表情だ。一体、どうしたのだろうか。


「す、すみません……少し、席を外します!」


 そう言うと、黒瀬さんは突然ファミレスの外へと飛び出していってしまった。

 私と諸麦さんは顔を見合わせる。それから暫く待っていると、スマホを弄っていた諸麦さんが不意に口を開いた。


「すみません……実は、彼女から泊まりに来ないかと誘われてしまいまして。ここ最近、色々あって一緒に過ごせてなかったので、今すぐにでも行ってあげたいんです。続きは、後日でも構いませんか?」


 申し訳なさそうに言う諸麦さんに向かって、私は笑顔で答える。


「大丈夫ですよ、気にしないでください」


 諸麦さんは会釈をする。

 そして、「ありがとうございます。それじゃあ、また」と言い残すとファミレスを後にした。


 それにしても、黒瀬さんはどこに行ってしまったんだろう。

 そう考えていると、やがて黒瀬さんが戻ってきた。だが、明らかに様子がおかしかった。額からは汗を流しているし、目は大きく見開かれている。

 おまけに、小刻みに手まで震わせている始末だ。これは只事ではない。そう思った私は、すぐさま尋ねる。


「黒瀬さん……? どうしたんですか?」


「ひ、柊木さん……私、どうしたら……」


 黒瀬さんの声は震えていた。

 私は、なるべく穏やかな口調を意識して言葉を続ける。


「落ち着いてください。何があったんですか?」


「実は、さっき友達から連絡があったんですが……」


 黒瀬さんは言葉を詰まらせながらも話を続けた。


「その子がいきなり、自殺を仄めかすようなことを言ってきたので慌てて電話をかけたんです。それで、説得しながら何度も『止めて』って言ったんですけど……切られちゃいました……」


「……えっ?」


 予想外の展開に、私は言葉を失う。


「そ、その友達は今、どこにいるんですか……?」


 気が動転しているせいなのか、自分でも声が大きくなっているのがわかる。

 黒瀬さんは、息を整えるように何度か深呼吸をしてから答えた。


「わ、わかりません……とりあえず、彼女の家に行ってみようと思います」


「私も行きます!」


 私たちはファミレスを出ると、早速黒瀬さんの友人の家に向かうことにした。

 黒瀬さんは普段の落ち着き払った姿とは打って変わって、必死の形相を浮かべている。

 そんな彼女を見て、焦燥感が込み上げてくる。私は黒瀬さんの後を追うようにして走り続けた。


 その友人の家はファミレスからそんなに遠くはなかったらしく、程なくしてマンションに到着した。

 エレベーターで三階に向かい、通路を進んで部屋の前で止まる。表札を確認すると、そこには『宮野みやの』と書かれていた。

 黒瀬さんがインターフォンを鳴らすが、反応はない。

 そこで、今度はドアをノックしてみる。しかし、これも空振りに終わった。黒瀬さんの不安はどんどん膨らんできているように見える。


「もしかしたら、屋上に行ったのかも……」


 黒瀬さんがポツリと呟いた。そして、すぐに踵を返すと、屋上を目指して走り出した。その後ろを、私は黙って追いかける。

 やっと追いついたところで、私たちの目の前には大きな扉が立ち塞がっていた。恐らくこれが屋上への入口だろう。ドアノブを握ると何故か鍵は掛かっておらず、ゆっくりと回せば簡単に開いた。錆び付いた音が辺りに響く。

 外はもう真っ暗になっていた。星一つ見えない都会の暗闇が広がっている。風が強く吹いているせいか、私たちの髪が靡いた。

 どうやら、ここはフェンスがないタイプの屋上のようだ。ふと周りを見渡すと、今にも飛び降りそうな若い女性の後ろ姿が目に飛び込んできた。

 まさか、あれが黒瀬さんの友人──宮野さんなのだろうか。だとしたら、まずい。自殺すると言っている以上、下手に刺激するのは得策ではないだろう。私はそう思って足を止める。


 しかし、黒瀬さんは違った。彼女の名前を大声で叫んだのだ。


結衣ゆい!」


 そう叫ぶ黒瀬さん。すると、彼女はこちらを振り向いて、「なんでここに……?」と言った。黒瀬さんはそれに答えず、言葉を続ける。


「お願いだから、やめて!」


 黒瀬さんがそう叫ぶと、宮野さんは急に何かをブツブツと喋り始めた。

 だが、あまりにも声が小さくて聞き取ることができない。黒瀬さんはゆっくりと彼女に近付いて行く。

 次の瞬間、宮野さんはまるで黒瀬さんを拒絶するように足を踏み出した。


「!!」


 突然の出来事に、思わず息を飲む。そして、そのまま宮野さんは宙へと身を投げた。

 しかし、それに気づいた黒瀬さんが咄嗟に走り出した。そして、間一髪のところで彼女の腕を掴むことに成功する。……が、今度は黒瀬さんがバランスを崩してしまった。私はすかさず駆け寄り、黒瀬さんの腕を引っ張る。

 そして──私たち三人は、もつれるように地面へと倒れ込んだ。


「はぁ、はぁ、はぁ……た、助かった……」


 黒瀬さんは荒い呼吸を繰り返しながら安堵の声を漏らす。


「か、間一髪でしたね……とりあえず、皆無事で本当に良かった……」


「柊木さん……」


 黒瀬さんの顔は汗でぐしょ濡れだった。私は持っていたハンカチを取り出すと、それを優しく拭う。

 やがて黒瀬さんは上体を起こすと、私に向かって言った。


「すみません……あの、本当にありがとうございます。柊木さんがいなかったら、今頃私も……」


「いえ、気にしないでください」


 沈黙が続く。私はその間、ずっと二人のことを見守り続けた。

 それから暫くして、黒瀬さんが彼女の母親に電話をした。だが、困ったことに繋がらない。

 宮野さん曰く、どうやら母親は夜の仕事をしているらしく、めったに家に帰って来ないらしい。父親はいないとのことだった。

 私たちは、一先ず彼女を家に送り届けることにした。


「ねえ、結衣。どうして、あんなことをしたの?」


 宮野さんの家に着くなり、不意に黒瀬さんが質問を投げかけた。彼女は黙っている。

 黒瀬さんは再び口を開いて話を続ける。


「さっき、結衣が飛び降りようとした時すごく怖かった。ああ、私は大事な友人を失うことになるかもしれないんだって──そう思ったら、体が勝手に動いてた。……私はね、あなたを失いたくないの。こんなこと言うのは、勝手だっていうのはわかってるんだけど……」


 そこまで言うと、黒瀬さんの目からは涙が溢れ出てきた。宮野さんはそんな彼女を見ると、ようやく口を開いた。


「──実は、ある人に裏切られたの」

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