すべすべ猿




 「おいてめえちゃんと見とけよ絶対、目ぇ逸らすんじゃねえぞ」


 そいつは早口でそう言った。


 「わーってる」


 おれは言った。


 特に何も考えてはいなかった。おれは特に何も考えないので有名なのだ。それになんでこんな馬鹿の言うこといちいち聞かなきゃならないんだ?


 「じゃあ帰るからまじわかったんだな?」


 おれはひらひらと手を振り背中越しにそいつとさよならした。


 さてと。


 ようやくここからはおれ一人の時間だ。扉が閉まる音を確認しまず空調を起動させ空気を入れ換えた。あの馬鹿には換気という概念が無い。透明で目に見えない物は存在しないと思っているのだ。今この部屋には日中、お前が吐いた使用済みの空気で一杯だ。


 くおお………という空調の音が微かに響き浄化させる。ここは窓が無い。地下なのだ。だから外気は機械的に導入するしかない。おれは思った。そこまですることなのか? わざわざ外部から遮断しなければならないような仕事なのか?


 部屋の真ん中に箱が置かれていた。


 ただの箱だ。透明で中に猿が入ってる。ふふん。


 おれは冷蔵庫へ飲み物を取りに行き、そのついでに箱を覗き込んだ。表示は良好を示していた。学名、すべすべ猿。


 「こいつは一体、何、考えてんのかね?」


 おれは言った。よくわからない。興味も無い。面接で問われた。すべすべ猿に興味があるか? あるわけない。おれがあるのは金だけだ。


 同僚は馬鹿ばかりだ。


 あいつらの考えをちょっと想像してみたことはある。だがすぐにやめた。一度ここへ来た視察のお偉いさんは自分のちんちんの掻き方すらわからないような奴だった。おれはがっかりした。そいつの下請けの下請けの下で働いているこのおれは一体なんなんだ?


 「すべすべ猿逃がすんじゃねえぞ!」


 鬼のような形相で上司が怒鳴る。


 人生。


 そいつはろくなもんじゃない。


 おれはこんなことをするために生まれて来たわけじゃない。だが実際はこんなことをして死ぬまで過ごさなきゃならないらしいのだ。


 「なあおい………お前も随分、哀れじゃねえか、生まれて死ぬまでこのちゃちな箱から出れないなんてよ」


 猿がこちらを見上げた。


 ただそんな気がしただけだ。わかってる。この箱の向こうは外部から完全に切り離されていて、たまたま猿の角度がそんな感じに見えただけだ。


 おれは椅子に座り込んだ。


 「さて、長い夜を何して過ごすかな」


 外部からの通信の類いの持ち込みは禁じられていた。読書なら別に構わない。笑わせる。もうそんな作業に耐えられるだけの精神性はおれたち若者には無い。それは進化なのか、退化なのか。


 進化、か………。


 箱の中の猿は急速に進化していた。目覚ましい速度だ。おれは見えない位置から問い掛けた。


 「なあお前ら………まさかおれたちみたいになるつもりかよ?」


 猿からの返答は無い。


 箱の中で一体どんな表情をしているのか。


 その時、不思議な変化が起こった。


 おれは気付かなかった、うたた寝をしていたからだ。扉を叩く音で目が覚めた。ああ? るせーなもう交代の時間か? よろよろと立ち上がり認証番号を確認した。先輩ではない。もっとずっと偉い奴だった。おれは一気に血の気が引いた。


 「開けろ」


 扉の向こうから音声が聞こえた。その時、気付いた。おれの背後で警報音が鳴っていた。いつも誤報しか鳴らないから音量は最小値に切り替えていた。もちろんそれは規約違反だった。


 入って来た上司はおれを見つけると「クビだ、このおれも」と言い、そのあと憂さ晴らしのためかおれを固く握り締めた拳でぶん殴った。箱の中身の猿が逃げていた。


 「ど………何処に?」


 おれはうずくまりながら尋ねた。上司は言った。


 「この箱はな、ただわかりやすく状況を映像化した事象に過ぎない」


 確かそんなことを初日に先輩から教えられた気がする。


 「箱に入っていたのはお前自身だ、そしてこのおれ自身でもある。そしてあいつは逃げた。この意味がわかるか?」


 おれは左右に首を振った。


 「あの猿みたいな奴は完全な自由だよ。自由な世界で今頃、駆け回ってるのさ」


 「それって良いことなんじゃ………」


 馬鹿野郎二度と帰って来ねえぞと言われた。


 「おい思い出せ、おれはお前の上司でもなんでもない、おれたちは契約をした、もうこうなっちまったら後戻り出来ねえぞ」


 言ってることの意味はわからなかったが、おれが何かとんでもない過ちをしでかしちまったらしいことはわかった。その、本当は上司ではないという上司に殴られた痛みがじんじんする。


 ………まあ、こんな時のために酒は隠してある。この際そいつで喉の渇きを潤してからでも遅くはない。







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